ブックオフとは何だったのか?~新古書店が90年代に日本にもたらしたもの

先日、ブックオフの創業者が逝去したというニュースがありました(2022年1月)。

ブックオフといえば、1990年代に「新古書店」と言われる全く新しい形態の古本屋を誕生させ、いまや当たり前の存在となっています。

そのあまりに斬新な営業スタイルは、90年代当時、既存の書店業界・古書店業界の大きな反発を生みました。

そんな賛否渦巻く中、見落とされている視点があるのではないか?と長年考えてきたことがありました。

今回、90年代の「本」の世界において、まさに時代の寵児(あるいは異端児)であった創業者の訃報に接し、それを書いてみることにしました。

ブックオフの査定システム

この新古書店については、各方面から批判がありましたが、私が一番大きい問題だと見ていたのは、査定方法であった「状態査定」です(当時)。

90年代当時のブックオフが、大量出店・大量買取を可能にしたのも、この画期的な買取システムでしょう。

これは、何の知識もない、アルバイトに店舗業務を行わせるための斬新な方法でした。

それは、本の状態しか見ないというもので、その「綺麗さ」のみにより、査定ランク(A+~Cの4段階)を付けていくという単純なものでした(大体、A+150円、A100円、B50円、C20~10円という買取金額が主流でした)。

一切、書名や価値を見ない。

いわゆる昔からの個人商店としての「古本屋」が敷居が高く、本は新聞と一緒に「古紙回収」に捨てるのが、どの家庭でも当たり前だった時代、ブックオフの買取は、誰でも「換金」ができるという画期的なものでした。

ところが、このシステムには、文化史的な視点から、大変な落とし穴があります。

この4段階の査定、そのCにすら引っかからない状態の劣悪なもの(ページや表紙の汚損、カビ、シミ、日焼け、書き込みetc.)は、Dランクとされました。

即ちdust、0円、廃棄・ゴミとして、リサイクルされます(トイレットペーパーになったり・・・)。

そして、ここからが肝要ですが、神保町の古書店街で並ぶような、古書であればあるほど、このDランクに相当してしまう可能性が高いのです。

古書業界には「白い本」「黒い本」という業界用語があります。

白い本は、白い(綺麗な)状態で転じて、現在も新刊で流通している本。対して、黒い本は、黒くなった(日焼け等)古書、転じて、絶版・品切れ等で、入手困難な本。

状態査定では、白い本が生き残り、黒い本は文字通り死にます。

ブックオフの本棚を見た時、新しめ(せいぜい10年以内)の本しかないのには、こんな理由がありました。

どんな貴重な古書、稀覯本、高額な専門書、初版のみの学術書であろうと、それは捨てていかれました。第一、査定している側に商品知識が無いので、それが貴重なものだと言う認識が無い。

それは神の恩寵か?

ここで少し話題を転じましょう。

人類史における知的な輝き、その最高峰に古代ギリシアを挙げることには、そう異論は出ないと思います。

この2500年ほど前の哲学や文学が、現代にも伝えられているというのは、実はほとんど奇蹟に近いことを、現代人はつい忘れがちです。

ここで伝承事情の詳細にわたるゆとりはないが、二千数百年前に書かれたものが今日まで伝えられることの困難は容易に想像できよう。さしあたり伝承媒体で見れば、おおよそ最初の1000年間はパピュロスに筆写された古代巻子本、つづく1000年間は羊皮紙に筆写された中世冊子本によって、ようやくグーテンベルクの時代にたどり着くのである。この間、とりわけパピュロスの耐久性は脆弱であったから、初期の1000年ほどは、少なくとも100年に一度くらいの割で、どこかで新たに筆写されることが系統的に連続しなければ、その中途で湮滅していたはずである。※1

そんな気が遠くなるような「試練」の中、古代ギリシアの数ある古典の中で、ほぼ完全な形でこの21世紀まで継承されたのが、哲学者プラトン(BC427年~347年)の著作集です。

まさにこれこそ「奇蹟」です。

弟子のアリストテレス、あの万学の祖といわれる哲学者の著作すら、その半数は喪われているというのに・・・。

プラトン著作の伝承に関しては、こんな「事件」が1801年に起きます。

その唐突な出現は、プラトン写本研究史における最もドラマティックなエピソード、というよりも一つの「事件」に類する波紋を広げていく。ケンブリッジ大学の鉱物学者E.D.クラークが、旅の途次に立ち寄ったパトモス島のアポカリュプス派修道院で、たまたまそれが床に転がっているのを拾い上げたとき、写本は(彼自身が「旅行記」に記しているところによれば)「湿気と虫の餌食になるにまかされ」ほとんど消滅寸前の状態であった、とのことである。※2

この時、発見された写本は、現存していたプラトン写本の中で、最古(西暦895年筆写)かつ最も優れたものでした(「B写本」)。

さて、随分と話が飛びましたが、西洋古典学のこの奇蹟と、ブックオフがどう関わるのか?

それは、つまりこういうことです。

90年代のブックオフの登場により、「死蔵」されていた蔵書、分けても、状態が極めて悪いような古書籍は、一体どのような運命を受けたのか?

「華氏451度」の世界

「焚書」というと、人は専制権力によるそれをすぐに思い浮かべます。

例えば、ナチス・ドイツのそれとか。

しかし、「焚書」は全くそうでない形で進行することもあります。

「焚書」を描いたSF小説としてレイ・ブラッドベリの『華氏451度』(1953年発表)があります。

この作品の舞台は、一切の書物の所持・閲覧を禁止された未来のアメリカが舞台です。そこでは、本を発見すると、赤い放火車に乗ったファイアーマン(消防士転じて、焚書官)が、焼却処分に出動してきます。

一見、権力による情報統制・言論統制・愚民化政策を描いているのですが、実は左に非ず。

ブラッドベリは、この作品で、人々が、自らの意志で、その道を歩んでいったことを描いています。

つまりそれは、決して国家権力が強制したのではなく、大衆が自発的に読書を止めていったという事です。国家権力は追随に過ぎない。

刹那的なメディアが溢れ、人々の知識・情報への接し方は大きく変化しました。長い、複雑な思考と時間(余暇)を必要とする読書は倦厭されていきます。

もっと楽しい、刺激的なものへと流れていきます。

「読書」という、知的な忍耐・努力を要する営みから、逃避したのです。

(関連記事: NHK「100分de名著」のジレンマ~レイ・ブラッドべリ『華氏451度』回を追いながら)【考察】

転じて、ブックオフ現象はどうでしょうか?

確かに、捨てられる本がブックオフの店頭に並び、安価で欲しい人々の手元に届く。

一見、良いこと()くめの様ですが、冷静に考えてください。

今まで各方面から言われてきた、新刊書店への圧迫、換金目的の万引きの問題、著者への印税の減少、色々ありますが、拙稿で強調したいのは、「死蔵」されていれば助かった筈の「黒い本」が、廃棄され消滅させられた事実です。

おそらく日本全体に死蔵されていた貴重な古書は、その何割かは、90年代に喪失してしまったのではないでしょうか。まさに継承されるべきだった文化の喪失です。

「何を大げさな」と言う声もあるかもしれません。

しかし、90年代のブックオフの興隆は、凄まじいものがありました。

買取客の殺到、一時は1000店舗を睨んだ開店に次ぐ開店。

その波を受けて、既存の書店業界・出版業界が無傷でいられなかったように、国内の「死蔵」本も無傷ではいられなかったでしょう。

「読まないけど、捨てるのはちょっと・・・」という感覚で死蔵され眠っていた本たち。

そのまま寝ていれば、いずれ、誰かと出会うはずだった本たち。

その安眠を破壊した「状態査定」というのは、実は現代日本における「焚書」の別名でした。

現代の「焚書」は国家権力の専制などではなかったのです。

現代日本の焚書官はナチスもどきの制服に身を包み、警棒を片手に厳めしい顔でやってくるのではなく、青と赤のツートンカラーの店内から、明るい笑顔で「いらっしゃいませ、こんにちは!」の満面の笑顔でやってきたのです。

この世界はどこまで「連続」するのか?

「死蔵」と「廃棄」ではまったく意味が異なります。

「死蔵」されていれば、押し入れ、蔵や倉庫、軒下や納戸、廃屋・・・なんでもいいのですが、どこかに現物が眠っていれば、それがいつか、再び「発見」される可能性があります。

ところが、完全に消滅(焼却や再生紙にされる)してしまえば、その可能性ゼロです。

「死蔵」が多ければ多いほど、後世に、何らかの偶然によって「再発見」される可能性は高くなります。

死海写本が20世紀半ばに、羊飼いの少年が洞窟から偶然見つけたように。

本(とその以前の書の形態も含め)は、世界中に分散し、かつ物質であることから、過去の数々の災厄、文明の断絶でも「絶滅」を免れてきました。

ある時は、砂漠の中から、洞窟の中から、修道院の中から・・・。

しかし、ある人は、こう反論するかもしれません。

「近代以前ならともかく。電子書籍化や電脳アーカイブみたいなものが誕生し、普及して行けば、そんな賭けみたいな話は必要ないのではないのか?どうも、紙の本を物神化し過ぎているように思える」

と。

しかし、電子化・電脳(コンピューター)空間には見過ごされている大きな陥穽があります。

それは、現在の文明社会がグローバルなまま、今後も発展して、継続・連続していくという事が前提にされている点です。

どうも、現代人は、現在の社会・国家、もっと広く、この文明世界が、このまま継続していくことは自明のことであると思い込んでいるように見受けられます。

しかしながら、それを保証するものはなにもありません。

100年後が現在よりも豊かで発達した世界とは限りません。

核戦争を想像しがちですが、それ以外にも、あらゆる原因で、歴史は後退し、文明が断絶する可能性は、常に存在しています。

グローバル化が終焉を迎え、大小さまざまな地域・集団に分裂し、お互いが交渉を持たないような世界だってありえるのです。

そのような状況で、あの繊細な、高度な科学技術の塊である電子・電脳空間は生き残れるのでしょうか?

その時、電子・電脳は、歴史の一時の徒花だった、お(とぎ)(ばなし)として人類史に記憶されるかもしれません。

また、「新しい災害」に関しても考えなければなりません。

新しい技術は、新しい災害を生みます。

船舶は海難事故を

自動車は交通事故を

飛行機は墜落事故を

もっとスケールを大きくすれば、

原子力発電は原発事故を

では、電子・電脳技術はどうでしょう。

例えばデジタル上の大災害が起きる可能性は?あらゆる電子情報が失われたら?

アーサー・C・クラークのSF小説『3001年 終局への旅』の中では、小惑星の落下に伴う電磁パルスによって、全人類の集合的記録の数パーセントが永遠に失われる「災害」があります。

これは、将来において、とても作り事として笑える話ではありません。その時、すべての書籍が電子化されていたら?

最悪、グーテンベルク以前への後退も決して否定できないのです。

その時、書物の持つ価値は?

先述した、プラトンのB写本の逸話が暗示するものは、「書物」が、人類の文化・知性の継続にとっての一種の「保険」であることを示唆しています。

その観点から、1990年代に日本の「本」に起こったことは、決して小さくないのかもしれません。

遠未来の考古学者、歴史家は、果たして、「日本」の記録を手にすることが出来るのでしょうか?

【参考文献】

内山勝利・他編『哲学の歴史1』中央公論新社、2008年。

佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』プレジデント社、2001年。

【脚注】

※1. 内山勝利「「ステファヌス版」以前以後―『プラトン著作集』の伝承史から―」『静脩 (2003), Vol.40(No.2)』京都大学附属図書館、3頁。

※2.同上稿、6頁。