NHKのEテレ(教育テレビ)の人気番組「100分de名著」。
100分間(25分番組×4週)で、1冊の名著を紹介してしまおうという番組で、同局の人気番組のひとつのようです。
2021年6月の本は、レイ・ブラッドベリィのSF小説『華氏451度』です。指南役は、戸田山和久(名古屋大学教授、科学哲学)。
この本は、一切の書物を所有することも読むことも禁止された国家において、本を焼き払う焚書官モンターグの運命を描いたディストピア小説の傑作です。
ジョージ・オーウェルの『1984年』と並んで論じられることもあります。
この番組で本書を取り上げると聞いて、過去のある番組を思い出したのですが、今回、2021年6月14日放送の「第3回 自発的に隷従するひとびと」で、重なり合うことになりました。
※本稿は、2021年6月14日放送第3回までの視聴で書いています。
繰り返される『華氏451度』
何の番組を思い出したのか、というと、それは、フジテレビで2003年から2004年にかけて放送されていた番組『お厚いのがお好き?』(全46回)です。
この番組は、古今東西の名著を、様々なものに喩えて紹介していくというコンセプトのものでした。
例えば
- 花火で読み解くハイデガー『存在と時間』
- 女子高生ファッションで読み解くフーコー『言葉と物』
- 鍋料理で読み解くジョイス『ユリシーズ』
- グラビアアイドルで読み解くプラトン『饗宴』
などなど・・・
と、まあこんな塩梅で46冊の名著を解題していくという、フジテレビらしい知的情報バラエティ番組だったわけです。
そして、その最終回は、
第46回「お厚いのがお好き?で読み解く、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』」
これほど、自虐的な、自己否定的な選書が他にあるでしょうか?
「ジレンマ回」とは
こういった名著を紹介するとか、アカデミックな本を紹介するというテレビ番組には、時たま「ジレンマ回」が存在します。
「ジレンマ回」というのは、私が勝手に名付けたのですが、つまり、この「テレビで本を紹介していく」という行為そのものが、紹介している当の本の「思想」「意図」と矛盾・対立してしまうという事です。
「お厚いのがお好き?」の最終回と「100分de名著」の『華氏451度』回は、まさにこれでした。ジレンマです。
今回の第3回の放送では、焚書官モンターグの上官ビーティ隊長により、この世界で「書物が辿った運命」が語られます。
そこでは、決して国家権力が強制したのではなく、大衆が自発的に読書を止めていった過程が語られます。
「社会の加速化」が進行し、人々の知識・情報への接し方は「反省的思考から反射的思考へ」と変化していき、長い、複雑な思考と時間(余暇)を必要とする読書は倦厭され、「単純化、ダイジェスト化」が進行していく・・・。それによって全ては劣化していきます。
ここで画面に躍る「要約、概要、短縮、抄録、省略」。
伊集院光とアナウンサーがやや自嘲気味に、自分たちの番組もそうなのではないか?と口にします。
「既読」と「未読」は違う
この番組を評価するには、二つの異なった視点が必要でしょう。
それは、番組視聴者が、その本を既読か、未読かで、話が全然違ってくるという点です。
それは、特に「文学」において顕著な、深刻な結果を招きます。
文学、小説においては、そこに新鮮な「驚き」が秘められている場合があります。
この番組では、小説でも、学術書・哲学書と同じように、全体の企図を説明して、番組が進行するので、小説のあらすじも、結末も含めて曝露されながら進行します。
ゲスト解説者が学術的に解説する為にはこれは回避のしようが無いのですが、「お話」の全てが曝露されてしまうと、一体、どうなってしまうのでしょうか。
これは、既読者にとっては何ら問題ではありません。深い「構造」「意図」を理解させてくれるでしょう。
ところが、未読者にとってはどうでしょうか?
以前、アーサー・C・クラークのSF小説『幼年期の終わり』が取り上げられた事がありました。
この作品は、突如飛来した異星人が圧倒的な科学力で、人類を「善政」により統治するという物語で、一向に姿を現さない異星人と、その善政の目的が、ストーリーの核心であり見せ場なのですが、それは、番組中にあっさり明かされてしまいます
おそらく、この「ネタバレ」を喰らった後で読む場合と、謎を謎として思案し、想像し、推理しながら読むのでは、読者の読書体験には雲泥の差が開いてしまうでしょう。
「先を知らないで読める」という、未読者の最大の快楽が失われるのです。
過去、エンデ『モモ』やエーコ『薔薇の名前』も取り上げれていましたが、これらを未読で視聴してしまうというのは、何かの罰ゲームのような感があります。
「紹介」と「解説」は違う
この番組の良いところは、取り上げた本のゲスト解説者(指南役)の人選でしょう。
ざっと挙げても、プラトン『饗宴』の納富信留(東京大学教授、ギリシア哲学)、ドストエフスキー『罪と罰』の亀山郁夫(東京外国語大学教授、ロシア文学)、エンデ『モモ』の河合俊雄(京都大学教授、臨床心理学)、マルクス『資本論』の斎藤幸平(大阪市立大学准教授、マルクス主義、ドイツ観念論)などなど
挙げればキリがないのですが、錚々たる人々の「解説」を聞けると言うのは、僥倖という他ありません。
加えて、レギュラー出演の伊集院光の鋭い視点、冴えた切り口が場を盛り上げます。
しかし、難点を言えば、やはり、「既読」か「未読」かで、大きく意味が違ってきます。
ゲスト解説者の解説は優れたものですが、それもひとつの学説だったり視点であったりするので、未読者が、この番組を見てから読む時点で、ひとつのバイアスはかかってしまいます。
番組での解説が詳細に、高度になるほどに、単なる「紹介」からは離れた性格になっていきます。
そこが、「まずは自力で読んでみた」読書との大きな差です。
「読書の豊かさ」とは
「解説」というのは、既読の上で耳を傾けることが、読書体験・理解をより豊かにしてくれるのではないでしょうか。
この番組の難点は、本の「紹介」番組としては、よく言えば、親切に過ぎる。悪く言えば、曝露し過ぎる。俗な言い方なら「ネタバレ」ということになりましょうか。
今回の回ではありませんが、ミヒャエル・エンデ『モモ』の回(2020年8月放送)で、伊集院光が、「読書」に関してこんな事を言っていました。
「ある意味、皮肉にも、この番組も、“読むと長くなる本に関して、100分間で教えてください”という番組なんですよ。だけど僕は大事なのは、僕は今読み始めたんです。結局、ここから、きっかけで『モモ』を皆さん、ちょっと読み始めてもらえると、矛盾しなくなると思うんです。」
(番組より)
ここに端的に、ジレンマが吐露されています。ほぼ同じような弁明を、今回の『華氏451度』でも口にしていました。
確かに『モモ』に出会えないよりは出会えた方がいいでしょう。しかし、それは次善であって、やはり、名著は、未踏の新雪を踏みしめて行くように、まずは自ら「踏破」することが最善に思えてなりません。
★第4回(最終回)も書きました
⇒「読書」が終わるとき、「歴史」が後退するとき~レイ・ブラッドべリ『華氏451度』最終回(NHK100分de名著」)【考察・感想】