「読書」が終わるとき、「歴史」が後退するとき~レイ・ブラッドべリ『華氏451度』最終回(NHK「100分de名著」)【考察・感想】

NHKのEテレ(教育テレビ)の人気番組「100分de名著」。

100分間(25分番組×4週)で、1冊の名著を紹介してしまおうという番組で、同局の人気番組のひとつのようです。

2021年6月の本は、レイ・ブラッドベリィのSF小説『華氏451度』です。指南役は、戸田山和久(名古屋大学教授、科学哲学)。

この本は、一切の書物を所有することも読むことも禁止された国家において、本を焼き払う焚書官モンターグの運命を描いたディストピア小説の傑作です。

ジョージ・オーウェルの『1984年』と並んで論じられることもあります。

前回、第3回を見て、思うところを書きました。

(⇒前回記事:NHK「100分de名著」のジレンマ~レイ・ブラッドべリ『華氏451度』回を追いながら (第3回放送を観て))

今回は、引き続き、2021年6月21日放送の「第四回 「記憶」と「記録」が人間を支える 」(最終回)を視聴した感想などを。

読書が終わるとき

そもそも一般大衆がこぞって読書した時代というのは、この数世紀の短い期間だけの「例外的」現象かもしれないようです。

「読書」が再び少数の社会集団(知的エリート)の文化資本に結び付いた、秘教的な、希少な行いに「戻る」かもしれない、と※1

グーテンベルクの発明の結果一般的なものとなった、深い読みの習慣―「その静けさは意味の一部、精神の一部」―は衰退し、縮小しつつある少数の知的エリートの領分となるだろうことは間違いない。

ニコラス・G・カー『ネット・バカ』青土社、2010年、154頁。

『華氏451度』で描かれたのは、まさにこの光景であり、世俗から逃れた知識人のサークル(流浪者)の間にのみ、本(知識)は継承される姿があります。
現実においても、読書及び読書人は劣勢であり、後退し続けています。

古典や学術書といった、難解で、時間がかかり、忍耐と知的訓練が必要になる本を読める人口は世代を経るごとに漸減しているのではないでしょうか。

まさに『華氏451度』の世界をなぞるかのように。

歴史が後退するとき

最後、本作は、モンターグの住んでいた街が、核攻撃で消滅するところで終わります。

この世界のアメリカが、戦争状態(世界大戦)にあるというのは、いくつかの場面で暗示されていましたが、ラストで伏線が回収されます。

モンターグは、黙示録の一節を唱えながら歩いていきます。

ソドムとゴモラよろしく、退廃的な都市が焼かれ、人々に「娯楽」を提供していたメディアも灰塵に帰したでしょう。生き残った知的エリートが「再建」していくようなイメージを与えうる幕切れです。

このように、実質的に文明崩壊によって原作小説は終わる訳です。

この「本」以外のメディアも、決して「本」より優越しているわけではない、というのは、ウンベルト・エーコも指摘しているところです。

しかし、インターネットという素晴らしい発明のほうが、将来、姿を消すことだって考えられるわけですよ。飛行船がいっせいに姿を消したのとまったく同じように。

U・エーコ他『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』阪急コミュニケーションズ、2011年、26-27頁。

まさに核戦争の災禍はこれを具現化している訳です。

本(とその以前の書の形態も含め)は、世界中に分散し、かつ物質であることから、過去の数々の災厄、文明の断絶でも「絶滅」を免れてきました。

(逆に言うと、電子書籍はこれができない)

修道院の廃墟の中から、砂漠の中から、洞窟の中から・・・etc.

例えば、1801年、鉱物学者のD・クラークがエーゲ海のある島の修道院で、偶然、床の上に散らばっているボロボロの古紙を目にした。よく見ると、それは、なんと、古代の哲学者プラトンの中世の写本であった。などという「奇蹟の発見」の逸話もあります※2

番組中、伊集院光が、「磁気嵐が世界中で起こって、すべてのハードディスクが吹っ飛んだら、面白いことを言える奴が勝つんじゃないのか」という旨のことを言っていましたが、これはとても鋭い指摘です。

「本」というものは、歴史的な「安全装置」の役割があります。全ての知識を一度に失わない為の。実は、文明というものは、我々が想像しているよりも脆く、薄氷の上に築かれているのです。

また、先述したように、少数の知的集団に「読書」が帰る(保存)されることにより、本、ひいては知識が伝承される点も重要です。

ウォルター・M・ミラー・ジュニアのSF小説『黙示録3174年』は第三次世界大戦(全面核戦争)により、文明が一気に中世レベルにまで後退した人類が、再び文明を構築していくという遠未来史ですが、その舞台は修道院です。

核戦争と文明崩壊を辛くも生き残ったローマ・カトリック教会が、脈々と知識を保存している様子が窺えます。

これは史実の、西ローマ帝国崩壊後のキリスト教会を意識していると思われます。

エリートと大衆

この結末に、指南役の戸田山は「気に入らないですね」と感想を漏らしていました。第1回でも、原作よりも映画版(フラナンソワ・トリュフォー監督作品)が好きだと公言していましたね。

啓蒙が失敗したので、堕落した愚者を核で焼き払って退場させ、残ったエリートだけでやり直すという展開は、「我々は滅びなければ再生できないのか?」という問いを突き付けるものである、と。啓蒙の可能性は本当に無いのか?と戸田山は考えたいと言います。

別の観点から見てみましょう。

モンターグが逃げ込んだ集団「(ブック)()(ピープル)」。そこは口伝で、本を後世に伝えようとする人々のコミュニティで、ひとりひとりが何らかの本を「記憶」しています。それを口伝で伝える。

それぞれの人物が、プラトン『国家』、スィフト『ガリバー旅行記』、ダーウィン、孔子、仏陀・・・etc.

(映画版だとブラッドベリ『火星年代記』も出てくるのが、ご愛嬌)

このコミュニティ、確かに、インテリの集まりでしょうが、閉鎖的なエリート集団という訳ではないようです。

スペインの哲学者オルテガは、現在の「大衆」の時代の特徴について、もはや外形的な社会階級(階層)で、精神的に優れた者とそうでない者を分けることは不可能であるという

厳密にいえば、それぞれの社会階層の中に大衆と真の少数者の別があるのである。(中略)以前ならばわれわれが「大衆」と呼んでいるものの典型的な例たりえた労働者の間に、今日では、錬成された高貴な精神の持ち主を見出すことも稀ではないのである。

ルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』筑摩書房、2000年、18-19頁。

大衆が生き生きと「無知の平等」を謳歌する『華氏451度』の様は、まさにオルテガの言う「大衆」の時代なのですが、その中にあって、決してエリートではない下級官吏のモンターグも、その「精神」によって受け入れられる訳です。

「表紙を見ただけで、書物の価値をきめなさるな」

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』早川書房、2002年、206頁。

このブック・ピープルのひとりの冗談は、実は非常に重要なことを言っているのではないか。

表紙(その人の地位や出自、外貌)などには何の意味もない、その中身(知識、精神)こそ見極めなければならない。

この辺りは、映画版の方が、はっきりしていますね。

上のセリフを言うのは中年の小汚い男性(中身はマキャベリの『君主論』)。

かつて警察署長の妻だった女性や、本を奪われない為に本を食べた男・・・。

バラエティに富んでいますが、閉鎖的なコミュニティではない。

「エリート」は「エリート」かもしれませんが、彼ら、彼女らは、「精神の選良」(オルテガ風に言えば「精神の貴族」)でしょう。

余命幾ばくも無い老人が、幼い甥にロバート・ルイス・スティーヴンソン『ハーミストンのウエア』を口伝で伝えようとする様が描かれます。季節が移り変わり、冬が訪れ、雪降る中、甥は、暗唱に成功し、笑顔を浮かべます。そして、老人はそれを見届けると静かに息を引き取ります。

いわば、精神のリレーがあります。トリュフォーらい「美しさ」に彩られた終幕です。

あれ?戸田山先生の言うように、映画版の方がいいなぁ。

【脚注】

※1. ニコラス・G・カー『ネット・バカ』青土社、2010年、154頁。

※2.内山勝利・編『哲学の歴史1』中央公論新社、2008年、675-676頁。