映画「華氏451」の影のメッセージ~書物は本当に「すべて」焼き払われているのか?~(感想・解説・考察)

焚書をテーマにした、レイ・ブラッドベリィのディストピア小説『華氏451度』を、フランスの名匠フランソワ・トリュフォーが映画化した1966年の作品です。

表題の華氏451度は、摂氏233度。紙が発火する温度です。

「書物は生き物。私に語り掛ける。」


(本編より)

あらすじ

書物の所持を禁止された国家。

そこでは、書物を所持していると、赤い消防車放火車に乗ったファイアーマン(消防士転じて、焚書官)が、ホースからガソリンを撒き、すべての本を焼き払う。

ある日、焚書官のガイ・モンターグ(演:オスカー・ウェルナー)は、自らが日々、焼く書物の「中身」を読みたい衝動に駆られ・・・。

黙読と音読

任務中のモンターグは、1冊の書物を懐に隠し、自宅に持って帰ってしまいます。

そして夜な夜な、本を開き、読書に耽ります。

この読書のシーンで、モンターグは本を音読しています。

実質上、初めて、本を読むのだから、子供と同じように、音読になるわけですね。

そもそも、黙読という習慣は、歴史的には新しいもので、古代においても音読が主流だったようです。

それはさておき、初めて、本を読むモンターグは、「読書」の喜びを知ることになります。

・・・と、書いて何ですが、本当にそうでしょうか?

確かに、「読書」の喜びを知ったのは、間違いありません。

しかし、「初めて」の読書というのは本当なのか?

更に言えば、この国で、本当に、書物は「すべて」、焼き払われているのか?

ディストピアの識字率

どうして、こう考えたかといえば、それは、この国家には、科学技術が存在しているからです。

赤い放火車も耐熱服も、モノレールも、空飛ぶ空中警察(!)も存在しているのは、つまり機械工学なり電気工学なり、「技術」全般は保持されているからです。

なぜ、これが、読書と関わるのかと言うと、こういった技術、もっというと、技術知を保持・蓄積・教育するシステムがなければ、作中の世界はそもそも成り立たない、早晩、滅亡し、未開社会に逆戻りになるということです。

そして、その技術知の為には、口伝だけという訳にはいかず、映像記録だけという訳にはいかず、必ず、どこかで、マニュアル=本が必要になってくるのではないか。

少なくとも、口伝なり、映像なりを「作る」側には、そういった本が必要になります。

モンターグにしろ、音読している訳ですから、「文字」は読めるわけです。

この国家の識字率!

そう、文字を読めるなら、モンターグのような末端の役人にしろ、おそらく庶民にしろ、文字を読む必要はあるのです。

それが、メモであったり、表札であったり、住所であったり。

最低、短いセンテンスの「書き物」は、普通に存在しているのでしょう。

二つの知の在り方

では、一体、焚書官は「何の」本を焼いているのか?

それは、おそらく、上記の技術文明を維持するのに直接貢献しない、いわゆる人文知的な書物を焼いているのです。

ここでいう「人文知的な」は幅広い意味で使っています。いわゆる形而上学から絵本まで。

哲学、思想、芸術、文学・・・。

人が生きる上での「パン」以外のものを記した本は、ことごとく焼き払われている。

ひとつ象徴的なシーンがあります。小学校の廊下。

延々と生徒たちが暗唱する掛け算。

9×14=126

9×15=135

9×16=144・・・

技術知で必須な算数(数学)は徹底的に教育されているのです。

つまり民衆には、技術文明「のみ」を維持するための知、「技術知」は教育されているのです。

さらに言うと、抽象度の高い学問分野は、その本が焼き払われると同時に、支配層が隠し独占していると推察できます。

知を握ったものが覇権を得ることが出来るからです。

支配層自身は、支配をする為には知識が必要であり、それは人文知なくしては困難になります。

支配者だけが「賢ければ」いいのです。

抽象度が高いということは、それだけ思考が自由であり、適用範囲が広く、普遍的法則に近しい。

それは即、その人間の精神の自由を担保するものであり、支配権力にとっては厄介なものです。

数学を除けば、その頂点は哲学であり、その延長にあるのが人文諸学です。

それを被支配者(民衆)に与えることは、専制権力にとっては避けたい。

だから焼くわけです。

故に、おそらく、支配層は、人文知を独占しているのでしょう。

その証左に、モンターグの上官である隊長の博識であること。

俄か知識のモンターグが、敵う訳もありません。

情報を制することが支配の条件だと言われますが、それはつまり、知を独占することでもあります。

例えば、中世ヨーロッパの教会が、聖書を信徒に読ませなかった事に似ています。

教会権力への抵抗は、聖書のドイツ語訳の出版が関わってきます(宗教改革、プロテスタント)。

また、現代で言えば、中国のように、全体主義でありながら、科学技術の振興にパイを割いて、大国の道を歩む姿は、本作の政府と似ているように感じます。

言論統制(人文知の抑圧)がありながらも、技術知は発展しているのですから。

華氏451」とエンデ『モモ』

もう一点、本書を読んでいて、ミヒャエル・エンデ『モモ』が思い出されました。

『モモ』では、“時間どろぼう”という灰色の男たちが、人々から、「時間」を奪っていきます。

時間を奪われた人々は、あくせくし、余裕なく、怒りっぽくなり、すべてを時間の節約とお金儲けに費やします。鋭い資本主義批判に見えますが、作中、時間どろぼうが、彼らと戦うモモにこう言います

「おまえたちは、遊びや物語をするさいごの人間になるだろう」


ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波少年文庫、2015年、337頁

人間生活の隅々まで資本主義的な思想が支配すると、「余裕」を前提とする人文知は、居場所を失います。

余裕があるから、人は遊び、想像力を掻き立てられ、物語を作り、語り、批評し、思考を深め、より抽象の世界へと昇華します。

『モモ』では、時間どろぼうは、打ち倒されますが、もしかすると、打倒されなかった世界が、「華氏451」の世界なのではないかと、ふと思いました。