フィクションにおける「自衛隊」イメージの変遷【前編】~「皇帝のいない八月」から「ガメラ2」まで

社会や政治、国家が出てくるフィクションならば、作中の脅威の存在が大きいほど(怪獣とか宇宙人とか)、「軍隊」の出番になります。

マッチョなアメリカ軍が割と早く出動して派手に撃ちまくってくれるハリウッド映画と違い、日本の映画、特撮、アニメなどでは、憲法問題やら戦争責任、平和主義やら、いわゆる日本固有の「戦後」という歴史状況により、その表現・露出は、なかなか一筋縄ではいかなかったように見受けられます。

今回は、「自衛隊のイメージ」という形で、全三回に渡って、これを概観していきます。

専門家でも映画マニアや特撮マニアでも何でもないので、大雑把な見解と予めご了承下さい。

70年代以前:「悪役」あるいは、そもそも「出さない」

この頃の大雑把なイメージは、旧軍のマイナスイメージを引き摺る形だったように見受けられます。

「軍隊は怖い」存在ということですね。

映画「野性の証明」(1978年)では、陸自の特殊部隊が、口封じに同じ自衛隊員らを虐殺したり、極端な演出がなされます。

「軍隊は悪い」の典型ですね。

「自衛隊のクーデター」という直球の勝負をしてきたのが、映画「皇帝のいない八月」(1978年)。

これも「軍隊怖い」の典型作品ですね。

渡瀬恒彦演じる青年将校(藤崎 元一尉)の狂気(旧陸軍の青年将校のイメージそのまま)といい、一般市民(列車の乗客)を人質にするといい、「大の虫を生かすために小の虫を」を地で行く行動原理を取っています。

藤崎の檄文(昭和維新的な)に、もう一人の主人公・新聞記者の石森が「狂っている」と吐き捨てる場面に、当時の軍隊(軍国主義)への感情(特にインテリ層の)が如実に表れています。

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hulu

やや文脈が異なりますが、異色のSF映画「ブルークリスマス」は、防衛庁ならぬ国防庁が登場します。

こちらも、特殊部隊やアクションサービスによる謀略活動などを描いていきます。

しかし、本作は、「軍隊が怖い」より、それを操る「政治は怖い」の面が強いですが・・・。

更には、「自衛隊」を出したくないので、「防衛隊」とか「防衛軍」とかよくわからない配慮をする怪獣映画が頻出します。

そもそも、軍事組織を出さない、という作品も見られ、介入する公的機関が警察止まりの作品もちらほら。

明らかに警察の対処能力を超えているのに、機動隊すら出てこない・・・(これは戦隊ヒーローものに多かった)。

これが更に極端に進むと、警察すら出てこないことになります。

これをやってしまうと、一気に政治的・社会的なリアリティは失われます。

否、もしかすると、少人数の戦隊やヒーローで社会を守るというのは、米国の西部劇の保安官や映画「ダーティハリー」のハリー・キャラハン刑事のイメージの投影、つまり、一種の自警主義というかリバタリアニズムというか・・・(いや、深読みし過ぎだ)。

ところで、この70年代以前の自衛隊のイメージは、実際の自衛隊と比較してどうだったのでしょうか?

こんなエピソードがあったそうです。

学生運動が華やかなりし60年代後半、作家の三島由紀夫は、「自衛隊の国軍昇格」を夢見ていましたが、そんな中で、青年自衛官らと宴席を共にし、学生運動に対する治安出動、決起の「秋波」を送ります。

もし、相手が「皇帝のいない八月」の藤崎一尉なら喜んで賛同し、「同志」となったのでしょうが、現実は少々違ったようです。

「先生、そんなことはやれません。私たちは役人です。国家公務員なんですから」

その「役人」という類の言葉を三島が最も嫌うことに、冨澤は薄々気づいていた。

(中略)さらにもう一度、「ご一緒することはできません」と念を押すように言った。

瀧野隆浩『出動せず』ポプラ社、2014年、95頁

こう応えて、三島に肩透かしを食らわせた相手は、当時30前の「青年将校」。

後に陸上幕僚長となる冨澤暉でした。

フィクションと現実には、かなりのギャップがあったようです。

80年代~90年代:転換期

80年代や90年代に入ると、状況が変わってきます。

怪獣映画だと「ゴジラ」(1984年)、「平成ガメラ三部作」が自衛隊や政府のリアルを描こうとします。

「ゴジラ」(1984年)だと内閣総理大臣(演:小林桂樹)をメインキャラに据えて、政府と自衛隊、国際関係をリアルに描こうとする努力が垣間見えます。「○○軍司令」とか訳のわからない肩書の指揮官ではなく、しっかり統幕議長(現:統合幕僚長)が登場してくるのもこの頃です。

ここでの自衛隊は、特に「怖くもなく」、政治的に無色といいますか、軍事のプロフェッショナルとして、職業軍人として描かれています。

作中、出動の遅れを官房長官に叱責?されても、統幕議長は淡々としています。

アニメ映画「機動警察パトレイバー2theMovie」(1993年)もこの文脈かもしれません。

これもテーマに「自衛隊のクーデター」が織り込まれていますが、「皇帝のいない八月」のようなエキセントリックな軍人描写は皆無で、抑制的で、政治に翻弄される「平和憲法下の軍隊」という矛盾の悲哀を描いています。

故にある意味で「政治的に無色」です。

そんな「無色」に対して、ポジティブなイメージの作品も、この頃に同時に現れます。

「ゴジラ」(1984年)の続編である「ゴジラvs.ビオランテ」(1989年)では、ゴジラへの“噛ませ犬”から、ゴジラを正面から迎え撃ち、堂々と渡り合う自衛隊像が提示されます。

メインキャラクターとして、防衛庁特殊戦略作戦室の黒木特佐(演:高島政伸)が登場、そこに仄暗い「青年将校」のイメージは皆無で、若きエリート幹部自衛官がいるだけです。

(ちなみに現在の防衛省には「特殊作戦室」が実在しますが何の関係もありません)

そして、なんといっても外せないのが、「ガメラ2 レギオン襲来」(1996年)です。

“自衛隊の広報映画”などとも当時揶揄されるほどに、自衛隊の活躍が前面に押し出される形になっています。

主人公も陸上自衛隊大宮化学学校の二等陸佐という設定です。

終盤の敵怪獣と自衛隊との戦闘も、師団指揮所(DCP)での師団長と師団幕僚らの指揮・統制の場面と交互に描かれるなど、ミリタリー色全開です。

戦闘終盤にレギオンを攻撃するのは、師団長の最後の切り札こと対戦車隊(使用火器は懐かしの79式対舟艇対戦車誘導弾!)。

まあ、序盤に、戦車大隊失ってますからね・・・。

また、師団長曰く「我々の火力は無限ではない。」

このお言葉!多くの怪獣映画が忘れていたものですね。補給のない軍隊は、ただの飾り。

ここまでの作り込みは、「シン・ゴジラ」(2016年)まで無いのではないでしょうか。

80年代(特に後半)から90年代にかけて、イメージの転換があったのには、いくつか理由があるのでしょう。

第一に、戦後半世紀近く経ち、先の大戦や旧軍との時代的「距離」が大きくなったこと。

それにより、「軍隊が怖い」という意識が若い世代ほど希薄になったのでしょう。

第二に、いわゆる国内のイデオロギー対立が沈滞気味になっていった事。

アニメや映画も、プロパガンダの面は否定できません。

制作側の思想的な主張は、意識的・無意識的に投影されます。

当然、戦後日本における左右の対立軸(55年体制)はそのままメインカルチャーは勿論、サブカルチャーにも反映されます。

骨太な社会派の映画は勿論、子供向け特撮モノも含めてです。

文化面では優勢だった左派の影響が色濃い。

その対立軸が穏健化し曖昧化し、自社さ連立政権により実質崩壊した為、作品の思想の投影も、ある意味「自由化」されます。

第三に、サブカルチャーが知的に洗練されたこと。

それにより「軍隊」とか「自衛隊」というものを客観的に捉えて、描くことが出来るようになったのかもしれません。

【続く】

次回、【中編】では2000年代以降を見ていきます。

フィクションにおける「自衛隊」イメージの変遷【中編】~「亡国のイージス」から「名探偵コナンまで」

「ゴジラ」(1984年)と「ガメラ2」に関しては以下の記事をどうぞ。 ↓

↓「機動警察パトレイバー2theMovie」に関してはこちらの記事をどうぞ。