監督:岡本喜八、脚本:倉本聰による異色のSF映画です。1978年の作品ですが、そのテーマ性は色褪せません。
【あらすじ】
世界各地で未確認飛行物体(UFO)による第二種接近遭遇事件が頻発していた。
そして接近遭遇した人々は。全員が血液の色が赤から青に変化するという異常に見舞われるが、それ以外は、全く異常がない普通の人間であった。
この事実を掴んだ国営放送記者の南(演:仲代達矢)は取材を進める内に、やがて、巨大な国際的謀略に巻き込まれていく。
異色のポリティカルサスペンス
昭和の映画には、「政治」や「権力」に対しての警戒感というか、その「危うさ」への嗅覚があったように感じます。
本作はその傾向が色濃く、SFといっても、異星人も特撮シーンも皆無。実際は、ポリティカルフィクションとして制作されています。
その大きなテーマは「政治」の悪魔的な本質を表現することにあったのではないかと思います。
青い血の人々は、ただ血が青いだけで、普通の人々と全く同じです。なぜ、異星人がこのような行為を行って来るのか、その意図も不明、そもそも意図などないかもしれない。しかし、その判断がつかない。
羽田空港に帰国した国防庁次官を迎える幕僚長。車中で、国連と米ソ両国が青い血の人々に対しての「最終的解決策」に関して合意したと伝えます。
幕僚長は疑問を呈します。
「しかし、青い血液を持ってるといたって、彼らは人間に変わりはないんでしょう?それを・・・」
(中略)
「しかし、青い血液の人間は赤い血液の本来の人間に何か害毒を及ぼすんですか?」
「わかっていないよ、まったく一切。ということは、将来、いつか、人類に重大な意味を持ちうる危険性もあるということさ。」
(本編より)
政治は、脅威(危険)に対して、最大限の警戒をする習性があります。“常に最悪の事態に備えよ”
そこに、「多分大丈夫だろう」という楽観論の入る余地がない。万が一、“大丈夫ではない”結果になったとき、死ぬのは己(国家、政治体制、権力者自身)です。
故に、「今」は無害の青い血を排除することを選択する。
政治の謀略性
本作は、「政治」がその本質として持つ、支配、権力、権威、暴力、謀略といったものが、剥き出しの力となって襲い掛かってきたらどうなるか?ということを執拗に描いています。
本作の主人公は、一方で記者南ですが、他方で国防庁の特殊部隊員である沖(演:勝野洋)です。
特殊部隊かつアクションサービス・特務機関員として、裏工作・殺害・尾行などの非合法活動を行っていきます。
沖らによる、いわば「秘密戦争」を描くことで、「政治」の裏面、つまり「謀略」「秘匿性」「残忍性」を描いていきます。
さて、「政治」が最大限にその力を振るうのは、ひとつに総力戦(全面戦争)があるでしょう。
これは非常に分かりやすく、双方ともに、敵対心を剥き出しに、己の持てる力、全てをぶつけ合い、相手を殲滅せんとする殲滅戦争です。
対して、本作は、相手(青い血)が全く無力・無抵抗であるのに、全力でこれを捻り殺すという。
敵対する意志も武力も皆無の相手を。
牧草を食む山羊の群れに突然、機銃掃射を浴びせて皆殺しにする。
しかし、「政治」には外面上、正当性が必要です。彼ら彼女らが殺される「べき」だった理由が。
「政治における謀略ってものは、お前が考えているほど単純なものじゃない。(中略)政治は敵を滅ぼすために、あらゆる手段を使うってことだ。まして、敵対する意志の全くない者たちを敵として戦う場合には。敵を、まず敵として世間に印象づけることだ。」
(本編より)
青い血の人々は血液総点検法による血液検査で、大部分が強制連行されますが、一部の人々は放置され、日常生活を続けます。
「あれこそ政治が仕組もうとしている、今世紀最大の謀略じゃないのか。(中略)つまり仕組まれた反乱軍さ。」
(本編より)
実際には存在しない反乱軍(異星人側の第五列)を捏造するためのスケープゴートとして。
ヘイトクライムと同じ構図であり、それの政治による「手段化」です。
「秘密戦争」(謀略)によって、異星人との「全面戦争(殲滅戦争)」を演出するのです。
かくして、クリスマスイブに「水晶の夜」は繰り返される。
歴史は繰り返されるのか
「ヒットラーの亡霊が蘇る。ナチズムが再び地球を席巻する」
(本編より)
本作の虐殺されてゆく青い血の人々は、ナチスのホロコーストを明らかに意識しています。
作中、冴子が理髪店のテレビを見ながら、涙を流すシーン。そのテレビでは、アウシュビッツの非道についての歴史教養番組が流れています。
また、これは、本編には含まれなった未公開シーンで(予告編にはあるシーンですが)、ホワイトハウスの執務室において大統領が高官と会話している
「それはヒトラーの考え方だ。私も彼と同じことをしなければならないのか。」
(予告編より)
と大統領は口にします。
青い血の人々は、各国政府により拘禁、強制収容所に送られ、人権を剥奪され、番号で呼ばれる。
生体実験に供されたり、ロボトミー手術を施されたりし、やがて虐殺されます。
アウシュビッツを経験し、なお、それを再現してしまう。今度は全世界の指導部が結託して。
これは、「政治」が最悪の事態を常に想定する事以上に、加えて、全く異質な「他者」への恐怖心が最大限に振れた場合に、何をしでかすかを描いています。
その恐怖心を克服するための生贄、スケープゴート。
その「恐怖心」すら政治の道具ではありますが・・・。
「政治」に抗なす者は・・・
宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。
こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。
丸山真男『政治の世界 他十篇』岩波文庫2014年、91頁。
「政治」が一度、それを「敵」と認識すれば、それに「勝利」=「殲滅」するのには、一切の妥協はありません。そして、すべての手段を尽くします。
そんな「政治」の圧倒的な力に対抗できるものは、そう多くはありません。
おそらく2つのものが挙げられる。それは二つとも人間の内面に関わる事です。
まずひとつは宗教。世俗権力に抵抗する信仰心。
しかし、「最終的解決策」を決定したワシントンでの国連の極秘緊急理事会の場には、ローマ教皇庁もオブザーバーで出席しているという。
ローマ教会はまたしても過ちを繰り返す訳です。
今一つは、学問です。
本作中盤、南が追う失踪した兵藤博士(演:岡田英次)は、米国の秘密機関「ブルーノート」(実在した米空軍のブルーブックの後継機関という設定)で研究に従事しており、ニューヨークで密会に成功する。
そこで兵藤は、何らかの「謀略」の可能性を南に示唆する。
この危険な行動は、彼の学問的良心からだと思います(これが命取りになり兵藤自身がロボトミー手術を施されます)。
また、国民血液総点検が始まると、学生の反対デモが起こります。それを見降ろすと国営放送の首脳陣の雑談では
「学生てのは不思議な種族だなあ。いつの時代でも彼らの中には何かを予知させるアンテナてのを持っているのかね。」
「常に少しピントを外れているがね」
(本編より)
学問と自由は切っても切れない関係にあります。
学問の徒の嗅覚は侮れません。
しかし、その力も真実を告発することは出来ても、蛮行を止めるには至りません・・・。
後の作品への影響
本作は、後の作品に様々な影響を与えますが、例えばアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督は本作のファンを公言(DVDの封入冊子の寄稿)しており、エヴァンゲリオンの敵性体である「使徒」の解析パターン「BLOOD TYPE:BLUE」は、そのまま「ブルークリスマス」の英題です。
もう一作ご紹介すると、アニメ「ラーゼフォン」にも「ブルークリスマス」のオマージュが色濃く、作中内に「青い血の人々」が登場し、やはり差別・排除の対象として扱われます。