連載①は、こちらです。
→【考察】映画「シン・ゴジラ」はなぜ「政治」描写に成功したのか①~「ゴジラ(1984年版)」が描いた「理想の政府」とその限界
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」
クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波書店、2001年、58頁。
第1回では「ゴジラ(1984年版)」が「政治」を怪獣映画へ持ち込んだ先駆作でありながら、「理想の政府」を描いてしまったため現実政治のリアリティには届かなかったことを見てきました。
このゴジラ84から、12年後に公開された「ガメラ2 レギオン襲来」(1996年公開)を今回は取り上げます。
「ガメラ2 レギオン襲来」は、ゴジラ84と同様、過去作を白紙にして、仕切り直しで「ガメラ」という巨大生物を描いた平成ガメラシリーズ3部作の第2作です。
そして、この作品も、「政治」的な要素を盛り込んだリアリティを追求した作品でした。本作は今なお高い人気と評価を誇る作品です。
しかし、「国家」という視点から見ると、まだ決定的に欠けていたものがあった。
「シン・ゴジラ」を論じる前に、是非、確認すべき作品です。
あらすじ「ガメラ2 レギオン襲来」
北海道恵庭岳付近に隕石が落下。
陸上自衛隊化学学校の渡良瀬二佐らは、調査に赴くが、不可解なことに隕石本体を発見できなかった。
それ以降、不可解な事件が頻発し、その現場は、ゆっくり札幌市に近づいていた。
そして隕石落下から5日後、札幌中心部で、正体不明の生物群による地下鉄襲撃事件が発生。
更に、すすきのに巨大植物が出現。
陸上自衛隊は、巨大植物(草体)と不明生物群(群体)の掃討作戦を開始するが、直後、消息不明だったガメラが1年ぶりに出現し、飛来。
草体を破壊、群体と交戦する。
ガメラは再び飛び去り、レギオンと称された群体も夜空に飛び去る。
そして、今度は仙台市中心部に草体が出現。
ガメラが再出現し、草体を破壊しようとするが、巨大なレギオンが出現し、これに阻止されてしまい、草体は種子拡散のための大爆発を起こし仙台市は消滅する。
爆発に巻き込まれ、ガメラも力尽きてしまう。
そして、レギオンは、更に南下し、東京を目指すことが確実視されるに及んで、日本政府は自衛隊に防衛出動を命令する。
かくして北関東にて、レギオンとの決戦の火蓋が切って落とされた。
キャッチコピーは「消滅するのは、日本か、レギオンか」
SFとしての怪獣映画
一言で言えば、宇宙からの侵略ものです。
レギオン(マルコ伝の悪霊、転じてローマ軍団)と呼称される地球に落下したレギオンは膨大な酸素ガスを放出する為、地球の生態系が破壊されてしまう。
また、電磁波を自分たちのコミュニケーションを阻害する「敵」と認識するため、現代文明を攻撃してくる。
そんな感じで、この辺は、本論の論点ではないので飛ばします。
自衛隊映画の最高峰
公開当時、「自衛隊の広報映画か」という程に、他の怪獣映画と一線を画す、脚本と演出が話題になりました。
そもそも幹部自衛官が主人公です。
邦画において、自衛隊が(旧軍ではなく)前面に出てくる作品は、それほど多いわけではありません。
怪獣映画を除けば、「日本沈没」や「首都消失」などのSF作品でしょうか。
そこでも。役割は、怪獣と戦う、救助・救援するという、物語の盛り上げ役です。
主人公というのは、あまりありません。
強いて言えば、映画「皇帝のいない八月」です。
しかし、この作品は、自衛隊のクーデターを主題にしたもので、そこでの自衛隊は、どちらというと「悪役」であり、クーデター側は、軍国主義を夢見るエキセントリックな青年幹部自衛官(演:渡瀬恒彦)であり、片や、政府側・鎮圧部隊も、市民の保護よりも制圧作戦を優先するような行動をしており、どちらも「権力悪」風な描かれ方をしています。
そんな、描かれ方をしてきた自衛隊ですが、このガメラ2では、「権力悪」や「旧軍の末裔」のような、一種イデオロギー的なバイアスは抜きにして、リアルな「平成の自衛隊」で怪獣と戦う映画であることに徹しています。
主人公の1人である渡良瀬 二等陸佐(化学科)も、等身大の男性として描かれ、軍事的プロフェッショナルに徹しています。
「皇帝のいない八月」のようなイデオロギーは皆無です。
次節では、そのリアリティを概観していきましょう。
ちなみに、戦後の映画などメディア作品での自衛隊の描かれ方に関しては、以下の記事をご覧ください
丁寧な軍事プロット
前半の舞台は北海道。
災害派遣でちゃんと出動しますし、地下鉄での群体レギオンの掃討も、普通科(歩兵)の装備(軽火器)で対応します(いきなり戦車!とかありません)。
ここだけでも、他の怪獣映画と一線を画します。
軍事行動というより、ハードルが低い有害鳥獣駆除的な装備・規模・出動です。
ですので、突然現れたガメラなどには、重火器で対抗するなど不可能です。
札幌から飛び立った巨大レギオンを航空自衛隊のF15要撃戦闘機が撃墜します。
航空自衛隊は、24時間365日、日本の領空の防空という任務があり、対領空侵犯措置として、実戦に準じた運用を行っている組織です。
故に、陸上自衛隊と比べて、その武器使用のハードルは低い。
(低いといっても、比較の問題で、自衛隊自体の武器使用のハードルは高いです)
実は、この作品は、終盤まで戦闘シーンが非常に少ないのにお気づきでしょうか?
群体レギオンの排除(災害派遣/有害鳥獣駆除)、巨大レギオンの撃墜(対領空侵)くらいです。
あとの場面では、災害派遣や偵察(防衛庁設置法の「調査・研究」が建前)で、部隊が展開しているだけで、戦っているわけではない。
つまり、何がいいたいかというと、限定的な「武器の使用」に止まって、最もハイレベルな「武力の行使」に至っていないということです。
法的には、「武器の使用」、「武力の行使」は明確に区別されています。
武器の使用には、自身を守る、武器等の装備類を守る(「武器等防護」)、対領空侵犯措置。そして、暴動やテロに対して発令される「治安出動」や「海上警備行動」などがありますが、警察官職務執行法の規定が準用されたり、何かと制約が設けられています。
対して、武力の行使とは、本格的な軍事行動を意味しています。
まさに戦争です。
それには、伝家の宝刀「防衛出動」命令が必要です。
※なお、この作品が1996年公開の為、法律は90年代を前提にしています。現在は大きく違います。
第12師団かく戦えり
他の怪獣映画と異なり、本格的な「戦闘」は、ようやく終盤にはじまります。
レギオンの首都圏侵攻の公算が大になったことで、政府は、「防衛出動命令」を決断します。
作中、ニュース映像で、官房長官が防衛出動を下令したことを記者会見するシーンがあります。
怪獣映画で、「防衛出動」が言及されるのは、ガメラ2が初めてではないでしょうか?
自衛隊は、北関東で決戦を企図し、1個師団がレギオンを迎え撃ちます。
おそらく北関東の防衛警備を担任する第12師団でしょう。
師団指揮所(DCP)で師団長以下、幕僚が指揮を執ります。
ちゃんと師団第三部長(作戦運用担当)や第二部長(情報担当)もクレジット付きで登場。
このDCPでは前回詳述した「ラインとスタッフ」がしっかり描かれています。
ライン(指揮系統)である師団長の決心を、スタッフ(幕僚たち)が情報を提供し補佐する構図です。

この描写は、レギオンではなく、普通に仮想敵国の軍隊と戦闘していても違和感がないリアリティがあります。
そして、この場面で、重要なのは、「師団の火力は無限ではない」と言う点です。
冒頭、足利市に出現したレギオンに対して、戦車大隊が攻撃しますが、一撃で壊滅します。
通常、師団が戦闘を行う時は、平時の編成から、戦時のそれに移行するので、隷下の普通科連隊に対して、諸兵科(機甲科、特科、高射特科など)を編入して、諸兵科連合としての連隊戦闘団(RCT)を編成して戦闘に臨みます。それにより、相互に各兵科が連携・補完し合って力を発揮できるからです。
対レギオン戦では、敵が怪獣なので、あえて戦車大隊もそのままで投入したのでしょう。
ともかく、この戦車部隊が壊滅したことで、師団の火力は大幅に低下します。
ちょっと疑問なのは、特科(砲兵)部隊による遠距離射撃が見られない点です。
普通科部隊の火器では、あそこまで巨大な怪獣に対抗するのは難しく、特科に期待するしかないのですが…。
それはさておき、ガメラが仙台から飛来し、レギオンと対峙すると、渡良瀬は、ガメラ支援を具申します。
ここで登場するのが、「師団長の最後の切札」と言われる対戦車隊です。
対戦車隊は、対戦車対舟用のミサイルなどを装備しています。
これをレギオンにぶつけます。
このように概観してくると、他の怪獣映画のように、いくらでもミサイルや砲弾を雨あられのように怪獣に振らせることは、実は困難であることがわかります。
また、もう一点、付言すれば、第12師団は、本来、ここまで充実した戦い方はできないはずです。
実は陸上自衛隊の部隊というのは、装備も定員も満足に満たせていません。
火力と同様に、防衛予算にも限りがあります。
陸上自衛隊(陸自)で優先されるのは、当初からソ連(ロシア)の脅威に備える、北海道の部隊であり、内地(本州以南)の部隊は、南へ行くほど、装備も人員も心もとない状態になっていきました。
したがって、第12師団も、作中のような充実した戦闘は、本来行えない筈です。
おそらく、第12師団には、他の師団や、特に最新鋭装備を有する富士教導団から、部隊を抽出し、師団としての体裁を整えたのでしょう。
その証拠に、群体レギオンを迎撃する87式自走高射機関砲も、道路を疾走する90式戦車も、本州では、富士教導団にしか配備されていない「希少種」です。
本来、「師団」とは、独立して大規模な戦闘を継続できる諸兵科を抱えた作戦単位であり、通常、1万人前後の部隊です。米軍だと1個師団2万人に達します。
ところが、陸自は、6000人から9000人とかなり偏りがあります。
その師団が13個編成されていました。
本来、師団数を減らして、1個当たりの師団の規模を充実させた方が合理的なのですが、そうはできない「大人の事情」(三軍の予算の奪い合い、高級ポストの席数確保…etc.)から、このような状態が続きました。
しかし、対レギオン戦に臨むにあたって、さすがに尻に火が付いたのか、慌てて第12師団に部隊を増強したというのが、事の真相ではないでしょうか。
まだ、自衛隊は、縦割りの際たるもので、三軍トップの統幕議長も調整役に過ぎません。
この期に及んで、三軍の垣根を超えた統合任務部隊は編制されていないので、空自に対して近接航空支援を「要請」している有様です。
ともかく、本作の軍事的なリアリティは、裏事情や欠点まで加味されて描かれていると、評価できます。
ここまで、ガメラ2を、手放しで賞賛してきたように見えるでしょう。
しかしながら、本稿のテーマである「政治」の観点から見ると、苦言を呈さざるを得ないのです。
「将軍たちの夜」
それは、本作のリアリティは、「軍事」のリアリティではあるが、「政治」のリアリティとは言えないのではないかという疑問です。
ここでひとつ、軍事学における用兵思想について論じます。
軍隊を動かす用兵には、3つの次元・層があります。
- 戦略(戦略次元)
- 作戦術(作戦次元)
- 戦術(戦術次元)
これらは、作戦術を除けばよく耳にする言葉ではないでしょうか。
しかし、それが何を意味するかを、明確に説明できる人となると、グッと減るはずです。
ここで、それを解き明かせば
- 戦略:戦争目的を達成すること
- 作戦術:戦略目的を達成する為に戦術と戦略を架橋すること。
- 戦術:実際の戦闘での戦い方
これを対レギオン戦に当てはめると、
- レギオンからの首都防衛
- 第12師団は最終防衛ラインを維持すること
- レギオンを具体的にどう攻撃するか
軍隊(自衛隊)の部隊はそれぞれの規模・目的で、1~3に分類されます。
例えば、大隊は戦術単位、師団は作戦単位(時に戦略単位の時もある)です。
そして、その指揮官も、その単位に、ほぼ比例します。
大隊長は二佐、師団長は陸将です。
(つまり渡良瀬二佐は戦術次元、または作戦次元です)
こう整理してみると、戦術から作戦術までの次元(戦術次元~作戦次元)は、非常に丁寧に描かれているのがわかります。
では、1.戦略はどうでしょうか?
実は、ここの場面と言うのは、非常に少ないかアンバランスなのです。
東京の防衛庁陸上幕僚監部(陸幕)で、ヒロインの穂波 碧を招いて、レギオン対策を話し合う場面があります。
陸幕は、全陸上自衛隊を統括する機関であり、いわゆる陸軍参謀本部です。戦略次元です。
しかし、ここで会話している自衛官は第一作から続投の佐竹一佐と同僚の佐官です。
ここに違和感があります。
それは、戦略次元で主たるプレーヤーにあたる将官(陸将補、陸将)らが、ほとんど顔を出さない点です。
ゴジラ84では、戦略次元は、そのトップである統幕議長を筆頭に三軍の幕僚長(いずれも星4つの最高級将官)が居並びます。
ゴジラ84もガメラ2も、実は、自衛隊の戦略目標は、同じ首都防衛です。しかし、その戦略次元の描き方、登場人物の職位・階級が、ガメラ2のそれに見合っていないのです。
「国難」と「大戦略」
総合すると、戦術・作戦次元は見事なまでに描き切ったガメラ2が、戦略次元になると、その構図を誤ってしまい、観る人に、リアリティとダイナミズムを失わせています。
もしすると、
「いや、札幌では、北部方面総監が出て来てたよ」
と指摘される方もいるかもしれません。
確かに、北部方面総監は、北海道全域の陸上自衛隊を指揮する、星3つの陸将です。
ここも実は大変、違和感を感じる箇所なんです。
あの北部方面総監部で議論されていたのは、宇宙からの異星体レギオンに対して、どう対応するかという点でした。
これに渡良瀬二佐は「殲滅戦も止む無し」と具申します。
この会議の光景は、明らかに場違いなんです。
なぜなら、宇宙生物などという歴史的かつ、全地球的問題、あるいは国家的な対処、国際社会との連携が必要な次元は、戦略次元ではないんです。
このレベルの判断はここではしません。
「え?戦略次元が一番上位なんだから、問題ないでしょ?」
と、尋ねられそうですが、答えはイエスでありノーです。
イエスというのは、軍事面における最上位としては、「戦略」ということです。
ノーというのは、その軍事面を超えた上位概念が存在するからです。
それは、「大戦略」(グランドデザイン)。「国家戦略」とも言います。
これは、軍事の上位概念であり、政治の領分です。
軍事とは、クラウゼヴィッツのいうところの政治の延長なのです。
いいかえれば、あくまで政治の手段ということです。
「大戦略」は、軍事のみならず、経済や国際関係、正統性や国是など、あらゆる面を総合した上で決断する最上位の階層です。
国家には政治・外交・経済・軍事という複数の手段があり、それらを統合して国家目的を実現するのが「大戦略」であり、軍事はあくまでその中のひとつです。
「レギオンをどうするのか?」は、このレベルで決定すべきであり、一方面隊において議論すべきことではありません。
仮に、あの北部方面総監部での会議内容を、大戦略次元、つまり、首相官邸に置き換えて想像してみてください。
おそらく違和感がないでしょう。
そして、それは、そのまま、ゴジラ84の描いた光景ですし、更に言えば、「シン・ゴジラ」での官邸の総理執務室での議論に重なりませんか?
しかし、なお、
「でも、ちゃんとテレビ中継で官房長官が防衛出動を発表したりして、その大戦略の次元も挿入しているんじゃないかな」
それはその通りです。描かれる物語のバックグラウンドで、政府が、そのダイナミックな動きをしているのは確かでしょう。
しかし、何か緊迫感に欠けませんか?
それは、作戦次元以下を描きすぎるあまり、自衛隊の動きのみが突出してしまったことです。
結果、渡良瀬二佐の周りだけの物語に見えてしまう。
これでは、国家全体のダイナミズムを怪獣と結びつけることができません。
この点なら、ゴジラ84の方が、緊迫感も緊張感もあって、結果、ダイナミズムも感じることができました。
シン・ゴジラを待ちながら
本作のキャッチコピーは「滅びるのは、日本か、レギオンか」でしたが、このキャッチコピーは、即ち「国難」です。
国難とは、国家危急存亡の時です。明らかに大戦略、の次元、内閣が対応する事態です。
しかし、そこに首相も閣僚も姿は見せません。
完全にキャッチコピー負けです。
というわけで、怪獣映画に「政治」を持ち込んだ2作品の特徴とその失敗を見てきたわけですが、ようやく、これらを克服した怪獣映画に我々は出会えるわけです。
今度のキャッチコピーは「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」
【続きはこちら】
→【考察】映画『シン・ゴジラ』はなぜ「政治」描写に成功したのか③(完)――怪獣映画が描いた「国難」と「国家理性」
★huluの無料トライアルでも「シン・ゴジラ」「ゴジラ1984」が見られます。(2020年7月現在)
3分で登録可能、無料トライアル期間に解約しても無料!↓

