シン・ゴジラの考察~怪獣映画の「政治」の描き方~連載③最終回 【「シン・ゴジラ」、正しい「国難」の描き方】

連載①はこちらです。

シン・ゴジラの考察~怪獣映画の「政治」の描き方~連載① 【「ゴジラ(1984年版)」の挫折】

連載②はこちらです。

シン・ゴジラの考察~怪獣映画の「政治」の描き方~連載② 【「ガメラ2 レギオン襲来」の誤算】

さあ、前置きが長くなりましたが、いよいよ本連載の主題、「シン・ゴジラ」における「政治」の描き方を見ていきましょう。

「しかし総理。総理には、東京を捨てでも、守らなければならない国民と、国そのもがあります。」

(本編より)矢口官房副長官

あらすじ

予告動画

東京湾アクアラインで原因不明の崩落事故が発生。そして、突如、巨大な生物が姿を現し、蒲田に上陸する。

突然の事態に政府は混乱し、対応は後手にまわる。

都内を破壊しながら進む巨大不明生物に対し、ようやく自衛隊の防衛出動が命令され、対戦車ヘリが出動するが、住民の避難の遅れから発砲に至らず、巨大不明生物は海に姿を消した。

政府は、矢口内閣官房副長官(政務)を筆頭とする特設災害対策本部を設置し、その正体の解明と対応策に奔走する。

だが、巨大不明生物は、さらに巨大化した姿で鎌倉に再上陸。

一路、東京を目指す・・・。

「首相官邸のいちばん長い日」

Prime Minister's Office

ゴジラ84でのリアリティの不徹底とガメラ2の政府の不在という問題を克服した怪獣映画、否、ポリティカルフィクションが本作です。

とにかく、前半の舞台は、首相官邸ばっかり。

そこでの総理以下閣僚、それに官僚の動きが延々と描かれ続けます。

巨大不明生物(ゴジラ)上陸から2時間に及ぶ「政治」の戦場がそこにはあります

刻々と増える死者のボディカウントと被害額のグラフ。

しかし、すわ自衛隊とはいかないのが本作のリアル。

戦後初の防衛出動命令の是非に総理は狼狽えます。

ガメラはさておき、まあ、他の怪獣映画の自衛隊出動のハードルの低さ。

ゴジラ84では法的根拠は完全スルーでしたね。

諸外国は別として、日本のあまりに特殊な憲法問題を考えたら、そう簡単にいかない。

これに近いのが、有川浩の『海の底』。

これも、一種の怪獣パニック小説なんですが、こちらも、自衛隊の出動を巡って、官邸が逡巡してしまい、結果、怪獣(巨大ザリガニの大群)相手に神奈川県警機動隊が奮戦(!)する始末。

riot police

シン・ゴジラでも、官邸に苛立つ都知事が、都から自衛隊の治安出動を要請しようとするシーンがあります。

逆に言えば、それだけその決断は重い。

防衛出動は事実上の宣戦布告、治安出動は戒厳状態と捉えられるものです。

防衛出動を決断し、木更津の第四対戦車ヘリコプター隊の対戦車ヘリAH1Sコブラが出動(避難渋滞で、とても地上の重火器は間に合いませんからね)。

AH-1S
(出典:陸上自衛隊ホームページ)

ところが、スカウトヘリ(偵察観測ヘリ)から、逃げ遅れの住民発見の報が入り、首相は攻撃を中止します。

直後、ゴジラは東京湾に逃走、捕捉できなくなる。

この場面は、まさに「コラテラル・ダメージ」の問題ですね。

ここで攻撃していれば、あるいは、この後の「国難」を回避できたかもしれません。

おそらくここは、日本政府が一番苦手な部分でしょう。

「人命は地球より重い」は、政治の論理としては破綻していますから。

そして、手に負えない人類の脅威として、ゴジラは鎌倉に姿を現します。

さて、この一連の首相官邸の動きが、ガメラ2では、ぼやかされてしまい、ゴジラ84ではあまりに理想的に描かれてしまった、「政治」の現実です。

現実の政府は、あまりに巨大かつ複雑な構造を持つために、官僚主義、法令主義、前例主義のシステムの網の目に絡め取られます。

そこでは突出した個人のファインプレーの余地が極めて小さい。

それは、行政の最高責任者である首相も含めてです(首相個人の個性は政権のカラーに反映されますが、すべてではない。首相も政府というシステムの一部に過ぎない)。

劇中、一応の主人公である矢口官房副長官も、あくまで、システムの歯車として動いています(その範囲で最善は尽くそうとしています)。

シン・ゴジラと似ている作品を挙げるとすれば、麻生幾『宣戦布告』。突然の北朝鮮特殊部隊の敦賀半島侵入で大混乱に陥る政府・各省庁の姿は、シン・ゴジラそのままです。

ガチの「自衛隊vsゴジラ」

鎌倉に上陸し、北上するゴジラに対して、自衛隊は東部方面総監を指揮官とする統合任務部隊(JTF)の指揮の下、武蔵小杉(多摩川河川敷沿い)で第1師団第1連隊戦闘団(タバ戦闘団)がゴジラを迎え撃ちます。

ここでは、しっかり、指揮命令系統(ライン)が描かれています(首相→防衛大臣→統幕長→中央指揮所→東部方面総監→第1戦闘団)。

おそらく、戦後初の防衛出動を、ガメラ2のように師団長に丸投げできない(丸投げした方が軍事的合理性はありますが)。

シン・ゴジラのように、官邸はかなり関与してくるでしょう。麻生幾の『宣戦布告』も、官邸の介入が現場に悲劇をもたらします。

次に、第1連隊戦闘団の戦いを見ていきます。

ちなみに連隊戦闘団(RCTあるいはCT)とは、複数の兵種(兵科)を1つの部隊に組み合わせる戦時編成の諸兵科連合部隊です。

劇中では、練馬駐屯地の第1普通科連隊(1普連、歩兵)が母体となって、そこに、第1師団、東部方面隊、富士教導団から必要な部隊を抽出(引き抜いて)、編成しているように推察できます(1普連には、ヘリや戦車も自走砲も配備されていませんから)。

対戦車ヘリによる威力偵察、ミサイル攻撃、特科大隊の射撃、戦車大隊の射撃、近接航空支援。

ゴジラ84の32連隊戦闘団のような戦い方はしません。

港に並べて、1発でやられるとか・・・。

ゴジラ84では、30年前のゴジラ東京襲撃で熱線の存在が認識されているのに、その射程範囲内に部隊を並べる愚策(指揮幕僚課程からやり直してこい!)。

ガメラ2では、戦車大隊は動かずに砲台状態であぼーん。

しかし、シン・ゴジラではちゃんと動きます!

行進間射撃(走行射撃)します!「全車、陣地変換!」

Type 10 Tank
(出典:陸上自衛隊ホームページ)

しかしながら、ゴジラはこれをものともせずに、防御線を突破、都内に侵入してしまいます。

攻撃を続行にも・・・そう、弾薬が足りません。

「国難」を描く

都内再侵攻の物語中盤、ゴジラによって都心三区は炎と放射能汚染に見舞われます。

運悪く、官邸を脱出しようとした陸自のヘリがビームの直撃を受けて、総理以下主要閣僚が全員死亡という事態に陥ります(内閣総辞職ビームとは言いえて妙)。

最悪の事態に、官邸機能は立川広域防災基地にある災害対策本部予備施設に移管され、生き残った閣僚で臨時内閣を直ちに形成します。

the Major Disaster Management Headquarters
(災害対策本部予備施設・外観)

このあたりの臨時内閣組閣は上手くいきすぎ(早すぎ)の感もありますが、もたもたしているとアメリカに保障占領されちゃいますからね(ニコッ

ゴジラが日本限定の危機ではなく、地球的見地での危機だと認識され、国連安保理が核使用を決定。日本は首都放棄という事態に見舞われます。

まさに国難です。

ゴジラと国際政治

White House

「この地上には我が国だけが存在するわけではない」とは、映画「パトレイバー2」の海法警視総監の名言ですが、ガメラ2で外国政府の関与は無く、わずかに、米国の支援が新聞紙上の見出しに見られるだけ。

しかし、ゴジラのような正体不明の脅威が極東の経済大国に現れたら、即、国際社会のあらゆる分野に影響が波及するでしょう。リーマンショックや東日本大震災級でしょう。

そんな状況に周辺国が黙っていない。

また、ゴジラ84では、三田村首相が米ソの要請を撥ねつけます。

しかし、日本の外交力というか、国際関係の現実から言って、拒否できるでしょうか?

現実は、大河内総理大臣も里見総理臨時代理も。米国大統領からのホットラインに、唯々諾々と従う。これが国際政治の、日米関係の現実です。

もっとも象徴的なのは、米軍がほぼ事前承認なし、勝手にB2戦略爆撃機を飛ばしてくるシーン。

それに対して、内閣は事後に「日米安保で要請した」形に取り繕います(まあ、グアムから戦略爆撃機飛ばすより、三沢、嘉手納、岩国、厚木の在日米軍の航空戦力を使いそうなものですが・・・)。

B2 Bomber

まあ、その後も、内閣の意思決定の場に軍官の専門家を常駐させろ(!)などという主権侵害な要求までされてしまいます(これはさすがに赤塚官房長官代理が拒否)。

このように、シン・ゴジラには、日米関係の厳しい現実が織り込まれている。

「戦後日本は常に彼の国の属国だ。」

「戦後は続くよ、どこまでも。」

(本編より)

また、都心壊滅後に、「佐世保からです。対馬沖で不穏な動きがあるそうです。」という1シーンも、ゴジラによる災厄で極東のパワーバランスに綻びが生じているのを示唆するものです。

「ここがニューヨークでも同じ決断をするそうだ」

「こんなことで、歴史に名を残したくは、無かったなぁ・・・」

(本編より)里見首相臨時代理

マキャベリズムや国家理性、コラテラル・ダメージやら近年流行のトロッコ問題まで。

詰まるところ、政治権力は自己の存続のために、より多くの構成員を生存させなければなりません。

日本政府にとっては、日本国民ですが、最初のゴジラ上陸で多少の犠牲を政治責任として背負ってでも攻撃していれば、再上陸の数千人の死者は防げたかもしれない。

大の虫を生して小の虫を・・・。

国際社会にとって(国際社会という言葉には抵抗がありますが)、人類の脅威になるゴジラを殲滅することと、都民の犠牲は、それこそコラテラル・ダメージである。

但し、赤塚が官僚を窘めたように、そこには、人種差別やらアジアへの見下しではなく、純粋に、故に冷徹な国家理性による政治的判断があるだけです。

そう、ニューヨークでも彼らは同じ決断をするのです(映画「クローバー・フィールド」では、まさにそうでした)。

「政治」が宿命的に持っている、このような悪魔的な論理は、忌避されがちですが、忌避したところで、それは無くなるわけでも、避けて通れるわけでもありません。

一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないし意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである。

カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社、2006年、61頁。

庵野秀明の躊躇い

ここまで国難を描いておいて、でも、そこにはやや「躊躇い」みたいなものが感じられます。

本作はあらゆる過去作品のオマージュを散りばめた感がありますが、例えば小松左京のSF小説『首都消失』や『見知らぬ明日』を例にとると、『首都消失』では、首都圏消失に対して、全国知事会議が組織しようとする臨時代行政府の樹立は難産ですし、『見知らぬ明日』の終盤、都民全避難は多くの死者を出しながら進められる。

シン・ゴジラでの臨時内閣は惨劇の翌日には成立していますし、都民360万(!)の避難も、凄惨な形では行われていない(ように見える)。

カットされた映像の中には、ゴジラの放射火炎に焼かれる地下街の避難民の映像もあったが本編では使われなかった。

Fire

シン・ゴジラの最期の避難所の希望が見いだせる光景・・・。

これらの意味するところは、製作者の躊躇いがあったのではないか?

振り返ってみると、昭和の特撮映画は悲惨というか、どこか薄ら寒い終局を描くものが多かった。

映画版『日本沈没』(1973年版)のラストは散りじりになっていく日本難民の姿(雪の中のシベリア鉄道!)、『ブルークリスマス』の権力に無残に虐殺されてゆく人々・・・。

train

これが平成に入ると、リメイクの『日本沈没』(2006年)は、日本列島は最終的に助かっちゃうし・・・。

この「躊躇い」は一体何なのか?

おそらく、シン・ゴジラに限って言えば、現実の日本社会が暗中模索な前途の多難を感じさせる「空気」であることが、関係するのかもしれません。

現実の日本が周辺情勢の緊迫化(「政治」の現実に決断を迫られる)や原発事故の処理に不安を覚える中、せめて、それらを暗喩として織り込んだシン・ゴジラにおいては、希望を残しておきたかった、のかな?と。

あえて、あえてツッコミどころ

さてさて、そんな傑作シン・ゴジラ。

蛇足ですが、あえて、ツッコミどころを挙げていきます。

災害緊急事態宣言は適切か?

最初のゴジラ上陸で、政府は防衛出動ともに災害緊急事態を宣言します。災害緊急事態は、激甚災害に対して、物資の統制、物価の凍結、債務の延長、医療や埋葬の特例など、なかなか大変な代物です。

ただ、この宣言。過去一度も発令されていない。

あの東日本大震災でさえ、見送られた経緯があります。いくら、巨大生物の上陸とはいえ、これを布告する必要があるか?

むしろ、この布告は、ゴジラ再上陸による都心部壊滅の時が、最も時宜に適っているのではないでしょうか。

官庁街炎上、放射能汚染、帰宅難民とパニック、首相の死亡と、ここまで来れば、布告せざるを得ない状況でしょう。

官房長官は同じヘリに乗らない

首相と官房長官が同じヘリに、ましてや総理大臣臨時代理就任予定者5名全員が同じヘリには乗らないのでは・・・。

これでは何のために5人指定しているのかわかりません。

先日、皇族の海外訪問で皇位継承第1位と第2位の方が別々の飛行機で同じ訪問先に向かうのが話題になりましたが、当然、内閣もそうするのでは?

5人のうち、一人くらいは、別のヘリか緊急車両の先導で、念のため市ヶ谷の中央指揮所に向かうのが筋かな・・・。

ところで、なんで統幕長は助かったんだろう?

近い将来の日系の女性大統領はあり得るか?

これが一番リアリティない(笑)

統幕長と統幕副長が同じ陸てありえる?

統幕長が陸の時、副長は海か空から出るのが慣例じゃなかったっけ・・・。

てか、統幕副長が海幕長より偉そうなのおかしくない?

同じ将でも、海幕長は四つ星(大将級)で統幕副長は三つ星(中将)じゃないのか・・・。

シン・ゴジラのその先に・・・

ゴジラ誕生以来、半世紀以上を経て、ようやく、怪獣映画で真正面から「政治」を描けた作品が完成したことになります。

「政治」というのは、忌避されやすく、かつ誤解と偏見にさらされ、また、その知的難易度から、大衆娯楽との相性は極めて悪いと言わざるを得ません。

そのような背景の中、本作が世に出たことは快挙であり、また、それが大ヒットした事実は、日本の文化・世相、特にサブカルチャーの知的性格を考える上で示唆に富むものでした。

問題は、今後、これに追随する特撮作品が出て来るのか、はたまた、本作が突然変異の二度と無い傑作であったのか・・・。

今後の特撮映画界に注視していこうと思います。

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【参考文献】

カール・シュミット/田中浩、原田武雄・訳『政治的なものの概念』未来社、2002年。