連載①はこちらです。
→①「ゴジラ(1984年版)」が描いた「理想の政府」とその限界
連載②はこちらです。
→②「ガメラ2 レギオン襲来」における自衛隊のリアルが、あと一歩「政治」に届かなかったのは…
「しかし総理。総理には、東京を捨てでも、守らなければならない国民と、国そのものがあります。」
(本編より)矢口官房副長官
怪獣映画は半世紀以上にわたり、未知の脅威である「怪獣」とそれによって引き起こされる危機を描いてきました。
その危機は、あらゆる災害を複合させたような存在であり、まさに国家存亡の危機、すなわち「国難」と言えるものです。
しかし、その多くは怪獣との戦いを描いても、「国家がどう国難にどう対応するか」という「政治」のドラマまでは踏み込めませんでした。
前2回で見てきた通り、「ゴジラ84」は、政治のダイナミズムの片輪を見せてくれましたが、それはある種「理想像」、「理想の政府」を描くことに終始しました。
「ガメラ2」は、現実の自衛隊を前面に押し出すことで、軍事的リアリズムを追求し、その高みに上りましたが、他方、国家のダイナミズムは犠牲になっていました。
この両作品の遂げられなかった点を、見事に救い出し、1つの作品としたのが、映画『シン・ゴジラ』です。
怪獣映画で初めて、「政治」そのものを主役に据えたと評せます。
本稿では、最終回として、前2回で取り上げた問題点との比較を加えながらシンゴジラで描かれた「政治」の意味するところまで、考察していきます。
あらすじ
東京湾アクアラインで原因不明の崩落事故が発生。そして、突如、巨大な生物が姿を現し、蒲田に上陸する。
突然の事態に政府は混乱し、対応は後手にまわる。
都内を破壊しながら進む巨大不明生物に対し、ようやく自衛隊の防衛出動が命令され、対戦車ヘリが出動するが、住民の避難の遅れから発砲に至らず、巨大不明生物は海に姿を消した。
政府は、矢口内閣官房副長官(政務)を筆頭とする特設災害対策本部を設置し、その正体の解明と対応策に奔走する。
だが、巨大不明生物は、さらに巨大化した姿で鎌倉に再上陸。
一路、東京を目指す・・・。
予告動画
「首相官邸のいちばん長い日」
本作は、前半部は、ほぼ首相官邸が舞台です。
その意味では、ゴジラ84と共通しています。
しかし、そこでの描かれ方は大きく違います。
総理以下、関係閣僚、関係各省庁の官僚の動きが延々と描かれ続けます。
刻々と増える死者のボディカウントと被害額のグラフ。
しかし、すわ自衛隊とはいかないのが本作のリアリズムで。。
戦後初の防衛出動命令の是非に総理は狼狽えます。
ガメラはさておき、まあ、他の怪獣映画の自衛隊出動のハードルの低さ。
ゴジラ84では法的根拠は完全スルーでしたね。
諸外国は別として、日本のあまりに特殊な憲法問題を考えたら、そう簡単にいかない。
これに近いのが、有川浩の『海の底』。
これも、一種の怪獣パニック小説なんですが、こちらも、自衛隊の出動を巡って、官邸が逡巡してしまい、結果、怪獣(巨大ザリガニの大群)相手に神奈川県警機動隊が奮戦(!)する始末。
シン・ゴジラでも、この法の壁に苛立つ都知事が、都から自衛隊の治安出動を要請しようとするシーンがあります。
逆に言えば、それだけその決断は重い。
防衛出動は事実上の宣戦布告、治安出動は戒厳状態と捉えられるものです。
防衛出動を決断し、木更津の第四対戦車ヘリコプター隊の対戦車ヘリAH1Sコブラが出動(避難渋滞で、とても地上の重火器は間に合いませんから)。

ところが、スカウトヘリ(偵察・観測ヘリ)から、逃げ遅れの住民発見の報が入り、首相は攻撃を中止します。
直後、ゴジラは東京湾に逃走、捕捉できなくなる。
この場面は、まさに「コラテラル・ダメージ」の問題ですね。
ここで攻撃していれば、あるいは、この後の「最悪の事態」を回避できたかもしれません。
おそらくここは、日本政府が一番苦手な部分でしょう。
「人命は地球より重い」は、政治の論理としては破綻していますから。
そして、手に負えない人類の脅威として、ゴジラは鎌倉に姿を現します。
さて、この一連の首相官邸の動きが、ガメラ2では、すっかり鳴りを潜めてしまい、ゴジラ84ではあまりに理想的に描かれてしまった、「政治」の現実です。
現実の政府は、あまりに巨大かつ複雑な構造を持つために、官僚主義、法令主義、前例主義のシステムの網の目に絡め取られます。
この官僚制の宿命を、第2回で詳述しました。
官僚制については、「パーキンソンの法則にも言及すべきかもしれません。
英国の歴史学者・政治学者シリル・N・パーキンソンは、英国の官僚制(海軍省と植民地省)を研究し、官僚が増加し続ける法則を提唱しました。
例えば、英国植民地省の官吏の数は、管轄すべき植民地の数が減少(独立していく)しているにも関わらず、増加していったのです。
ラインとスタッフは増殖と枝分かれを、さながら細胞分裂のように繰り返します。
その結果、そこでは突出した個人のファインプレーの余地が小さくなり続けます。
官僚制は、英雄を生まない。
それは、行政の最高責任者(執政長官)である首相も含めてです(首相個人の個性は政権のカラーに反映されますが、すべてではない。首相も政府というシステムの一部に過ぎない)。
劇中、一応の主人公である矢口官房副長官も、あくまで、システムの歯車として動いています(その範囲で最善は尽くそうとしています)。
ところで、軍隊というのも、官僚制であることを忘れてはいけません。
作中での、「逃げ遅れの住民発見、射撃の可否を問う」は、観測(偵察)ヘリのパイロットから、延々とラインを昇って、官邸の防衛大臣に到達します。
あの、何回かの「伝言ゲーム」が多ければ多いほど、「パーキンソン」の法則の証左です。
つまり、それは指揮命令系統(ライン)上の中間のポストが多い(軍事学的には指揮結節が多いという)という事であり、時間のロスや指揮の複雑化、非効率などのデメリットを生みます。
この章をまとめますと、シン・ゴジラは、ゴジラ84での官僚制の不在と言う問題を、うまく克服して、政府のダイナミズム・リアリズムを上手くスクリーンに展開できたと言えるでしょう。
ちなみに、シン・ゴジラと似ている作品を挙げるとすれば、麻生幾『宣戦布告』。突然の北朝鮮特殊部隊の敦賀半島侵入で大混乱に陥る政府・各省庁の姿は、シン・ゴジラそのままです。
ゴジラVS.自衛隊
次に、軍事的なリアリティを見てみます。
鎌倉に再上陸し、北上するゴジラに対して、自衛隊は東部方面総監を指揮官とする統合任務部隊(JTF)の指揮の下、武蔵小杉(多摩川河川敷沿い)で第1師団第1普通科連隊を基幹とする第1連隊戦闘団(タバ戦闘団)がゴジラを迎え撃ちます。
ここでこのタバ戦闘団を第1普通科連隊(1普連)だと特定するのは、東京23区の警備隊区(連隊区、管轄)が1普連であることと、それ以上に終盤のヤシオリ作戦の指揮官のクレジットが32普連(大宮)連隊長と明示されているからです。
1普連が損耗が激しく、32普連がヤシオリ作戦の担当になったのでしょう。
ちなみに、「タバ」は多摩川の旧名の「丹波川」(たばがわ)からでしょう。
さて、ここでは、しっかり、指揮命令系統(ライン)が描かれています(首相→防衛大臣→統幕長→中央指揮所→東部方面総監→第1戦闘団)。
指揮結節に、第1師団が漏れていますが(第1戦闘団の親部隊)、おそらく、戦後初の防衛出動を、ガメラ2のように師団長に丸投げできないという政治判断かもしれません(丸投げした方が軍事的合理性はありますが)。
官邸はかなり関与してくるでしょう。(麻生幾の『宣戦布告』は、官邸の介入が現場に悲劇をもたらしますが)
次に、第1連隊戦闘団の作戦運用(戦闘)を見ていきます。
ちなみに連隊戦闘団(RCTあるいはCT)とは、複数の兵種(兵科)を1つの部隊に組み合わせる戦時編成の諸兵科連合部隊です。
劇中では、練馬駐屯地の第1普通科連隊(1普連、歩兵)が母体となって、そこに、第1師団、東部方面隊、富士教導団から必要な部隊を抽出(引き抜いて)、編成しているように推察できます(1普連には、ヘリや戦車も自走砲も配備されていませんから)。
この点は、ガメラ2の第12師団と同じです。
対戦車ヘリによる威力偵察、ミサイル攻撃、特科大隊の射撃、戦車大隊の射撃、近接航空支援。
ここを、ゴジラ84の晴海ふ頭の連隊戦闘団と比較してみましょう。
晴海上陸阻止戦では、岸壁沿いに全部隊が並んで、砲列を敷いていました。
ですから、放射火炎の一撃で全滅です。
ゴジラ84では、30年前のゴジラ東京襲撃で熱線の存在が認識されているのに、その射程範囲内に部隊を並べる愚策(指揮幕僚課程からやり直してこい!)。
軍事的リアリティを追求したガメラ2でも、対レギオン戦での戦車大隊の運用は若干首を傾げます。は動かずに砲台状態で、レギオンの一撃で損耗率50%です。
しかし、シン・ゴジラは違います。
行進間射撃(走行射撃)します!「全車、陣地変換!」

戦車は、他の怪獣映画の描写と違って、実はかなりの速度で走行できます。
個人的にいちばん感心したのは、特科(砲兵)の描写です。
砲兵は、遠距離(アウトレンジ)から臨機応変な支援射撃を行ったり、敵の兵力を漸減してくれたりと、大変頼もしい存在で、「戦場の女神」とさえ呼ばれます。
間違っても、敵(怪獣)の目前で、射撃したりしません。
ゴジラ84では、ゴジラの目の前に布陣し、ガメラ2では、なぜか出番がなかった特科(砲兵)
しかし、シンゴジラでは、遠距離射撃をゴジラの頭部に集中させたり、MLRS(多連装ロケットシステム)に至っては、はるか静岡県御殿場(!)から戦術ミサイルを発射したりと、本来の用兵で大活躍です。
防衛ラインを突破されたときも、幕僚から、特科による攻撃続行の意見具申がありました。それも、アウトレンジから広範囲を射撃できる特科のアドバンテージです。
しかしながら、この具申は、都内側の避難が完了していなかったため、見送られました。
また、タバ戦闘団自体も、弾薬が不足しているという通信内容がありました。
マックス・ブルックスのSF小説『ワールド・ウォーZ』も考証のリアリティが卓越していますが、その中で、米軍がゾンビの大群に敗走するひとつの要因が、まさに弾薬です。
十分な備蓄弾薬が自衛隊にある訳ではありません。もちろん、最初のゴジラ上陸以降、東部方面隊に全国から弾薬を集中させていたかもしれませんが、まさか、他の方面隊の弾薬を根こそぎ集中、移動してしまうわけにはいかない。
なぜなら、それは、後述する、国際政治の問題があるからです。
かくして、ゴジラは自衛隊をものともせずに、多摩川防衛線を突破、都内に侵入してしまいます。
「国難」の時

中盤、ゴジラによって都心三区は炎と放射能汚染に見舞われます。
運悪く、官邸を脱出しようとした陸自の輸送ヘリが、ゴジラの熱戦ビームの直撃を受けて、総理以下主要閣僚が全員死亡という事態に陥ります(「内閣総辞職ビーム」とは言いえて妙)。
都心部の壊滅と首相以下重要閣僚の死亡は、まさに「国難」です。
この辺りは、米国と見比べてみると興味深いでしょう。
全面核戦争の可能性が念頭にある米国は、「政府存続計画」(COG)を策定しています。
例えば、首都ワシントンが核攻撃を受けた場合でも、政府を存続させるために、国内数か所に指揮施設を建設していますし、空中から指揮が継続できるように、専用機も配備されています。
また、緊急時に、誰がどこへ、どう退避するかを定めた「統合緊急退避計画」(JEEP)も策定されています。
そして、大統領が死亡あるいは指揮不能と判断された場合の、大統領継承順位も実に18位(職位)まで指定される徹底ぶりです。
ところが、日本の場合、総理大臣臨時代行は5名の閣僚が指名されますが、この少人数だと、一度に執務不能になる可能性は避けられず、実際、シン・ゴジラではそうなりました。
緊急とはいえ、5人全員が同じヘリに乗るのは極めてリスクが高い。
米国でも、正副大統領を同じ航空機に乗せるのを避けていますし、連邦議会で上下両院が一堂に会す場合は、閣僚(大統領継承資格者)の1人は、「指定生存者」として、議会とは別の場所で保護措置が取られます。
都心が壊滅した後、官邸機能は立川広域防災基地にある災害対策本部予備施設に移管され、生き残った閣僚で臨時内閣を直ちに形成します。
作中、泉政調副会長が、立川が都心から30キロしか離れていないことを懸念しますが、その通りです。
本来は、全然違う地方にも、危機管理上のバックアップ施設を設けておくのが適切でしょう。
しかし、広域防災基地は、立川にしかありません。
もし、さらに官邸機能を移すとなると、選択肢としては、地方の自衛隊司令部(方面総監部など)に「間借り」したり、ホテルや大規模運動・文化施設を「接収」するという、泥縄式の方法しかなくなります。
また、立川は、その名の通り、「防災」であって、あらゆる緊急事態を想定しているとは言い難いです。
核戦争が念頭にある米国の場合、マウント・ウェザーやレイブン・ロックといった退避施設・指揮拠点は、その名の通り、山中の地下に、核攻撃を想定して作られた要塞構造です。
核攻撃という最悪の状況を想定しているからこそ、他のあらゆる災害に対処できます。
ともかく、このような国難に瀕するということは、ひとつの逆説を生みます。
それは、このような平時ではない、有事こそ、日常では隠された「政治」が姿を見せるという点です。
国難とは何でしょうか?
それは「例外状態」です。
平時ではなく、国家の法秩序そのものが危殆にさらされる状況。
そして、その例外状態にこそ、“誰が支配(主権者)しているのか?”という問いに答えが与えられます。
これは、ドイツの公法学者カール・シュミットの議論しているところです。
赤坂が、米軍の核攻撃に反対する都知事の声に、国家の決定であり、「自治体レベルの話じゃない」と一蹴します
「主権者は誰か」という問いは、「政治の論理」とは何かを、浮かび上がらせます。
「赤坂 秀樹」とは何者か
では、国難を前にして、その力が最大限に発揮されるであろう「政治の論理」の正体とはいかなるものなのでしょうか。
この作品でこの種の思想を一身に体現しているのが、国家安全保障問題担当総理補佐官である赤坂秀樹(演:竹野内豊)です。彼は、何を背負っているのでしょうか。
それは「国家理性」(レーゾン・デタ)という政治学上の概念です。
「国家理性(レーゾン・デタ)」という概念は聞きなれないかもしれませんが、人口に膾炙する言葉でいえば「国益」と、ほぼ同じ概念です。正確には「国益」の元になる概念でしょう。
フリードリッヒ・マイネッケは『近代史における国家理性の理念』で次のように言います。
「国家理性」と呼んだもの、つまり各国家は自己の利益という利己主義によって狩りたてられ、ほかの一切の動機を容赦なく沈黙させる、という一般的な規則から生ずるものである。しかしそのさい同時に、「国家理性」は、つねにただ適切に理解された利益、つまり、単なる貪欲の本能から浄化された合理的な利益のみを意味する
『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1964年、148頁。
国家が国家自体の生存を何よりも優先するというこの論理は、ほとんどの、国家・政治にとっての宿命のような響きがあります。
国家理性とは、国家行動の基本原則、国家の運動法則である。それは、政治家に、国家を健全に強く維持するためにかれがなさねばならぬことを告げる
『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1964年、49頁。
赤坂の行動・言動は、この「国家理性」に基づいています。
例えば、ゴジラが蒲田から上陸してからの官邸での議論を思い出して下さい。
彼は、自衛隊の防衛出動を強く進言しています。
そして、逃げ遅れた住民や私有財産への被害は、許容すべきとも進言しています。
この「多少の犠牲は甘受すべき」というのを、「コラテラル・ダメージ」(付随的被害・巻き添え被害)といいます。
これは、何も赤坂が特段、冷酷な人間ということではありません。
そうではなく、その方が、最終的な損得勘定として、損失を上回っているからです。
国家の生存が優先された方が、より多くの国民の利益に結果的になる訳です。
これは、よくテロ対策で「人質がいようと、テロリストには屈しない」と言われるのと同じです。
そこに、遠慮して、倫理や善意は顔を出しません。
マイネッケもこう指摘します
国家は罪を犯さずにはいられないように思われる。もちろん、このような異常にたいして道徳的感覚は再三再四反抗する―しかし、歴史的な効果はない。
『 世界の名著54 マイネッケ』 63頁。
「政治の論理」、すなわち「国家理性」は、シン・ゴジラの作品全体に通底しています。
そして、各国家が、国家理性に基づいて行動するのです。
ゴジラを国際政治の渦に叩き込む

ゴジラ出現に対して、各国は、自らの国益=国家理性によって行動し始めます。
都心壊滅後に、「佐世保からです。対馬沖で不穏な動きがあるそうです。」という1シーンも、それを象徴しています。
先述した、弾薬の件になりますが、東部方面隊に弾薬を集中できないのは、たとえ関東で異常事態が起こっていても、国際政治の力の論理は揺るがないからです。
他の方面隊は抑止力として厳然と存在していなければならない。
故に、東部方面隊に全力を注ぐわけにはいかない。全ての弾薬を、他の方面隊(特に北部、西部)から引き抜くわけにはいきません。
ゾンビを国際政治学に持ち込むというユニークな専門書では、こんな指摘があります。
人肉喰らいの食屍鬼の登場は、国際政治にどのような影響を与えるのだろうか。リアリスト の解答は、驚くべきものではあるが、いたってシンプルである。すなわち、そこでの国際関係には、何らの変化もないというのだ。このパラダイムは、人類に対する新たな実存的脅威が人間の行動に対して何らかの劇的な変化をもたらすと主張するような人々にとっては、どちらかというと感銘を与えないものであろう。
D・ドレズナー『ゾンビ襲来』白水社、、2012年、58-59頁。
ゾンビだろうとゴジラだろうと、それでも国家は政治の論理で動くというのです。
ゴジラが日本限定の危機ではなく、地球的見地での危機だと認識され、国連安保理が核使用を決定。日本は首都放棄という事態に見舞われます。
ゴジラ84では、米ソが戦術核の「実験」という観点から、核使用を日本政府に受け入れさせようとします。これはこれで説得力はありますが、シン・ゴジラの方が、人類の存続そのものという緊迫感があります。
しかし、それでもなお、国家は政治の論理で動こうとします。
ゴジラという驚異的な生物のデータは、各国にとって重要な情報でもあります。故に、日米(というか米国ですね)の独占を阻止しようと、中露は国際管理を主張する。
フランスもその狙いは同じで、そこに日本政府は目を付けます。
ガメラ2では、外国政府の関与は無く、わずかに、米国の支援が新聞紙上の見出しに見られるだけでした。国家が国家である、つまり、国家理性を発揮しなければならないのは、他の国家が存在するからです。
ゴジラのような正体不明の脅威が極東の経済大国に現れたら、即、国際社会のあらゆる分野に影響が波及するでしょう。リーマンショックや東日本大震災級を超えるかもしれない。
そんな状況に周辺国が黙っていない。
ガメラ2では、仙台が消滅するような事態です。
あれほど軍事的リアリティに、こだわった作品で、国際軍事情勢が描かれなかったのは、惜しい限りです。
アメリカの呪縛
そして、国際政治を導入する以上、避けて通れないのが、日米関係です。
本作では、たった1日たらずで、総理大臣臨時代理が決定できたのは、僥倖以外の何ものでもありません。
なぜなら最も恐ろしいのは、誰が、国政を担っているのかを、内外にはっきり示すことが出来ない状態です。権力機構(官僚制)という手足だけでは、国家は体をなさず、頭たる指導部、政治学では「権力核」と称しますが、そのようなトップがいなければ、すぐに機能不全に陥ります。
統治不能を宣言するに等しい。
そもそも近代国家の目的とは何でしょうか。
それは、秩序の維持です。秩序が維持できなければ、他の手段でそれをやらねばならない。
権力の空白は、別の権力で埋めようとするのは、政治の本能であり、野生の掟です。
小松左京のパニックSF小説『首都消失』では、正体不明の全ての交通通信を遮断する「雲」(半径30キロ・高さ1キロ)に、首都圏が覆われてしまい、日本政府も事実上、消えてしまいます。
この作品では、全国知事会を中心に臨時政府を創設する方向に、向かいますが、かなりの日数を要しています。
この時間を要するというのは、それだけ、権力の空白時間を長引かせ、有象無象の影響を生んでいきます。
秩序の維持、それを至上命題とする国家には、それが耐えがたい。
それは、日本を勢力圏におさめている米国にとっては、尚更です。
あまりに、もたもたしているのなら、米国は日本を保障占領しかねないでしょう。
つまり、日本政府に代わって日本を統治する、権力(パワー)の空白を埋めようとする。
おそらくは、それを恐れて、特に「政治主義者」である赤坂を中心に、臨時内閣の組閣を急いだのではないでしょうか。
そもそも、ゴジラという国家的脅威を出す以上、米国を描かないというのは、ナンセンスです。
日本の安全保障を米国抜きで語るのは、麺のない拉麺に等しい。
「戦後日本は常に彼の国の属国だ。」
「戦後は続くよ、どこまでも」
(本編より)
日米関係の実相を、怪獣映画に持ち込んだのは、本作が初めてでしょう。
ゴジラ84で、三田村首相が米ソの要請を撥ねつけます。
しかし実態は、、大河内総理大臣も里見総理臨時代理も。米国大統領からのホットラインに、唯々諾々と従う。これが国際政治の、日米関係の現実です。
もっとも象徴的なのは、米軍がほぼ事前承認なし、勝手にB2戦略爆撃機を飛ばしてくるシーン。
それに対して、内閣は事後に「日米安保で要請した」形に取り繕います
(まあ、グアムから戦略爆撃機飛ばすより、三沢、嘉手納、岩国、厚木の在日米軍の航空戦力を使いそうなものですが・・・)
その後も、内閣の意思決定の場に軍官の専門家を常駐させろ(!)などという主権侵害な要求までされてしまいます(これはさすがに赤塚官房長官代理が拒否)。
このように、シン・ゴジラには、日米関係の厳しい現実が織り込まれている。
政治の論理はゴジラでも破壊できません。
「ここがニューヨークでも同じ決断をするそうだ」
「こんなことで、歴史に名を残したくは、無かったなぁ・・・」
(本編より)里見首相臨時代理
詰まるところ、国家理性に従って国家・政治権力は自己の存続のために、より多くの構成員を生存させなければなりません。
日本政府にとっては、それは日本国民です。
最初のゴジラ上陸で、政治責任を負ってでも対戦車ヘリ隊による攻撃を実行していれば、再上陸の数千人の死者は防げたかもしれない。
いわゆる「大の虫を生して小の虫を」です。
国際社会にとって、人類の脅威になるゴジラを殲滅することと、東京という大都市の犠牲は、それこそコラテラル・ダメージといえます。
但し、赤塚が官僚を窘めたように、そこには、人種差別やらアジアへの見下しではなく、純粋に、故に冷徹な国家理性による政治的判断があるだけです。
そう、ニューヨークでも彼らは同じ決断をするのです。
映画「クローバー・フィールド」では、ニューヨークに突如出現した「怪獣」を通常戦力では殲滅できず、マンハッタンごと核攻撃します。まさにこれです。
「政治」が宿命的に持っている、このような悪魔的な論理は、忌避されがちですが、忌避したところで、それは無くなるわけでも、避けて通れるわけでもありません。
一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないし意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである。
カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社、2006年、61頁。
庵野秀明の躊躇い
ここまで国難を描いておいて、でも、そこにはやや「躊躇い」みたいなものが感じられます。
本作はあらゆる過去作品のオマージュを散りばめた感がありますが、例えば先述した、小松左京のSF小説『首都消失』や『見知らぬ明日』を例にとると、『首都消失』では、首都圏消失に対して、全国知事会議が組織しようとする臨時代行政府の樹立は難産ですし、『見知らぬ明日』の終盤、都民全避難は多くの死者を出しながら進められる。
シン・ゴジラでの臨時内閣は惨劇の翌日には成立していますし、都民360万(!)の避難も、凄惨な形では行われていない(ように見える)。
カットされた映像の中には、ゴジラの放射火炎に焼かれる地下街の避難民の映像もあったが本編では使われなかった。

シン・ゴジラの最期の避難所の希望が見いだせる光景・・・。
これらの意味するところは、製作者の躊躇いがあったのではないか?
振り返ってみると、昭和の特撮映画は悲惨というか、どこか薄ら寒い終局を描くものが多かった。
映画版『日本沈没』(1973年版)のラストは散りじりになっていく日本難民の姿(雪の中のシベリア鉄道!)、『ブルークリスマス』の権力に無残に虐殺されてゆく人々・・・。

これが平成に入ると、リメイクの『日本沈没』(2006年)は、日本列島は最終的に助かっちゃいます・・・。
この「躊躇い」は一体何なのか?
おそらく、シン・ゴジラに限って言えば、現実の日本社会が暗中模索な前途の多難を感じさせる「空気」であることが、関係するのかもしれません。
現実の日本が周辺情勢の緊迫化(「政治」の現実に決断を迫られる)や原発事故の処理に不安を覚える中、せめて、それらを暗喩として織り込んだシン・ゴジラにおいては、希望を残しておきたかった、のかな?と。
そもそも官房副長官の矢口蘭堂という人物の存在でしょう。
矢口も、国家理性で判断するような、政治的にスマートな人物として描かれていますが、赤塚とは微妙な異同があります。
その違いはどこにあるのか。
実は「国家理性」論のなかには、「クラートス」(権力)と「エートス」(倫理)の拮抗・緊張関係があります。
確かに、国家理性は、自己の存続の為に、手段を選ばない性格を有しますが、なおエートスという歯止めは存在し得るのです。
野獣ではないのですから。ステイツマンとして。
このエートスの部分こそ、矢口が体現した部分ではないでしょうか。
「諦めず、最後までこの国を見捨てずにやろう」
シン・ゴジラのその先に・・・
ゴジラ誕生以来、半世紀以上を経て、ようやく、怪獣映画で真正面から「政治」を描けた作品が完成したことになります。
「政治」というのは、忌避されやすく、かつ誤解と偏見にさらされ、また、その知的難易度から、大衆娯楽との相性は極めて悪いと言わざるを得ません。
そのような背景の中、本作が世に出たことは快挙であり、また、それが大ヒットした事実は、日本の文化・世相、特にサブカルチャーの知的性格を考える上で示唆に富むものでした。
問題は、今後、これに追随する特撮作品が出て来るのか、はたまた、本作が突然変異の二度と無い傑作であったのか・・・。
【付論・おまけ】あえてのツッコミどころ
さてさて、ここからは、そんな傑作シン・ゴジラに突っ込みを入れるという、完全な蛇足、おまけです。
災害緊急事態宣言は適切か?
最初のゴジラ上陸で、政府は防衛出動と共に災害緊急事態を宣言します。災害緊急事態は、激甚災害に対して、物資の統制、物価の凍結、債務の延長、医療や埋葬の特例など、なかなか大変な代物です。
ただ、この宣言。過去一度も発令されていない。
あの東日本大震災でさえ、見送られた経緯があります。いくら、巨大生物の上陸とはいえ、これを布告する必要があるか?
むしろ、この布告は、ゴジラ再上陸による都心部壊滅の時が、最も時宜に適っているのではないでしょうか。
官庁街炎上、放射能汚染、帰宅難民とパニック、首相の死亡と、ここまで来れば、布告せざるを得ない状況でしょう。
官房長官は同じヘリに乗らない
本論でも触れましたが、首相と官房長官が同じヘリに、ましてや総理大臣臨時代理就任予定者5名全員が同じヘリには乗らないのでは・・・。
これでは何のために5人指定しているのかわかりません。
先日、皇族の海外訪問で皇位継承第1位と第2位の方が別々の飛行機で同じ訪問先に向かうのが話題になりましたが、当然、内閣もそうするのでは?
5人のうち、一人くらいは、別のヘリか緊急車両の先導で、念のため市ヶ谷の中央指揮所に向かうのが筋かな・・・。
ところで、なんで統幕長は助かったんだろう?
近い将来の日系の女性大統領はあり得るか?
これが一番リアリティない(笑)
「ガラスの天井」です。
統幕長と統幕副長が同じ陸ってありえる?
統幕長が陸の時、副長は海か空から出るのが慣例じゃなかったっけ・・・。
てか、統幕副長が海幕長より偉そうなのおかしくない?
同じ将でも、海幕長は四つ星(大将級)で統幕副長は三つ星(中将)じゃないのか・・・。
了
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【参考文献】
カール・シュミット/田中浩、原田武雄・訳『政治的なものの概念』未来社、2002年。
カール・シュミット/田中浩、原田武雄・訳『政治神学』未来社、2005年。





