本の為に殺される?~『図書館戦争』&『華氏451度』のあらすじと教訓?~

T-shirt saying Fahrenheit 451

活字離れが叫ばれる昨今ですが、「とにかく本が好き!」という読書家の方は、まだまだいらっしゃいます。

ところが、これが、「その本を命がけでも読みたい、守りたい!」となると、なかなか・・・。

今回は、命がけの本好きのための物語を2冊ご紹介。

有川浩 『図書館戦争』シリーズ 

はい、みんな大好き有川浩(改名されて現在は「有川ひろ」)の大人気シリーズです。

あらすじ

昭和が終わり、正化の時代。メディア良化法の成立により、法務省の強制執行機関メディア良化隊は恣意的に不健全図書を没収・破棄する権限を用い、事実上の検閲制を実施していた。しかし、これに反発する地方自治体・公共図書館は広域地方行政機関として防衛組織「図書隊」を設立。

警察・自衛隊が静観する中、武装化した第三・第四の暴力装置たるメディア良化隊と図書隊は、抗争を繰り返し「奇妙な内戦」を展開していくことになる・・・。

時に正化31年(2019年)。

なんか、あらすじをこう書くと、超ディストピア小説感満載なんですが・・・。

そんなことはありません!

なんといいますか、「ディストピア×ミリタリー×ラブコメ」という異色の掛け合わせが功を奏した快作です!

『1984年』を読んでいる時のような陰惨な気分は皆無です。

等身大の女性新入隊員の仕事や恋への葛藤、成長が有川浩節で描かれていて、色々赤面しちゃいます(あ、ちなみに図書隊への新入隊員ですよ!良化隊ではないです(苦笑))。

しかしながら、ラブコメ満載なんですが、ちゃんと本を巡る問題にもスポットを当てています。

図書館の情報の秘密と犯罪捜査の問題、本の汚損(切り抜き)、表現の自由と人権の問題etc.

何より問題なのは、「メディア良化法」を成立させてしまった現代日本の世論や政治。

自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を恐れる。


バーナード・ショー

責任を取れなかった日本人の姿がそこにあります。

今回の記事は「本の為に殺される」ですが、この奇妙な内戦では、当然、両機関に死傷者は出ます。また、図書隊の武装化路線を決定づけた事件として「日野の悪夢」という事件が過去(正化11年)に起きています。

日野市立図書館が武装したテロリストに襲撃され、死者12名、蔵書全損というテロです。まるでイスラム過激派ですね。

前者は「本を守るため」に死に、後者は「焚書の巻き添え」に死ぬ。

やり切れませんね。

読書することが命がけになる世界だけは、ご免こうむりたいものです。

『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ

さて、アニメ版の『図書館戦争』第6話では、「予言書」と呼ばれるある1冊の本を巡って、図書隊と良化隊が争奪戦を繰り広げます。

その本こそ、この章でご紹介する米国のSF作家レイ・ブラッドベリィのディストピア小説『華氏451度』です(明示はされていませんが暗示されています)。

『図書館戦争』はこの作品へのオマージュだと思います。

書名の華氏451度とは、摂氏233度であり、それは、紙が自然発火する温度です。

flame

あらすじ

その国家では、一切の書物の所持が禁止されている。もし、書物の保持が発覚すると、赤い消防車放火車に乗ったファイアーマン(消防士焚書官)がすべて焼き払う。

焚書官モンターグは、ある日、自分たちが焼いている本に、何が書かれているのか興味を抱くようになり・・・。

本好きにとっては悪夢以外の何物でもありませんね。

読書家と本は容赦なく狩りたてられていきます。

救いはあります。

人は誰しも、生まれながらに、知ることを欲す


アリストテレス

それはモンターグの知的好奇心です。

彼は、本に何が書かれているのか、どうしても知りたくて、焚書現場から本をひそかに持ち帰ります(重罪です)。

徐々に読書の喜びと重要性に気付いていきますが、上官に疑われ始めます。

一体、モンターグの運命は?

『1984年』との異同

後は、あなたが読んで結末を見届けてほしいのですが、一点だけ。

同じくディストピア小説の双璧を成すジョージ・オーウェルの『1984年』。

この作品と比較すると、明らかに違うことは、『華氏451度』のこのアメリカ合衆国には、選挙があることです。

驚くべきことに、民主制の体裁を保っている!

しかし、そこで描かれる大統領選挙は、やれどちらがハンサムだの、名前ががカッコイイだの・・・。

現実の我々も、まったく笑えないのですが、それはさておき・・・

この選挙戦自体が権力側の体裁、プロパガンダだったとしても、この本の焼かれる国で、民主制がポーズとして残っているというのは、大きな含意があるでしょう。

それは、オーウェルの剥き出しの専制ではなく、ブラッドベリイが衆愚制を描いたこと。

つまり、民衆が自ら、進んで、本を捨てていったことを意味します。

本を読む「自由」、学問への「自由」ではなく、快楽・享楽への「自由」を選んだ末の大衆。その知性への無関心への警告と恐怖が読み取れるのではないでしょうか。

側聞するところによると、ブラッドベリィは国家による弾圧というより、オートメーション、テレビ・ラジオがもたらす大衆の反知性的風潮を本書の主題にしていたようです。

つまり、専制ではなく、衆愚制に危機感を持っていた訳です。

それに、結局、専制を生むのもその国の国民自身ですし・・・。

思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ


プラトン『国家』(下)岩波文庫、2000年、222頁

「本を焼く者は・・・」

私が、この2冊の本から感じた教訓は「自由の使い方」です。

それは、「自由」を何に使うか?

それを人間の成長、社会正義の実現、学問の自由として使うのか。

経済至上主義の実現や肉欲の為に自由を使うのか。

あなたも私も、日々、その選択をしながら生きているのであろう、と。

そして、皆が、後者を選んだ時、悪夢は始まるのです。

焚書は序章に過ぎない、本を焼く者はやがて人を焼く。


ハインリヒ・ハイネ

本には人の魂が宿ると言います。

その本の著者の思想、情念、思い。文学であるなら別の世界と登場人物たち。

それを焼くのです。

抽象的な人を焼くことは、やがて、具体的な人々も焼きます。

そこに本質的な差異はないのだから。

私やあなたが、焚書に対するどうしようもない嫌悪感と恐怖を抱く理由はここにあります。

幸い、どちらの作品も、読後感は心地良いものになっています。

しかし、現実もそうあり続けるのかは、私たちすべての選択にかかっています。

↑アイキャッチのTシャツです。