アメリカの警察が知りたい【後編】 ~米国警察を知る秘訣は日本の消防制度?

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アメリカの警察が知りたい【前編】~警察を廃止したり、作ったりできるの?

日本の消防制度との類似

米国の警察制度を理解する上で、日本人にとって、一番身近な存在は日本の消防制度です。

警察は都道府県警察ですが、消防は都道府県消防ではないですよね。

札幌市消防局があったり、長岡市消防本部やら大阪市消防局やら・・・etc.

各市町村が設置している消防本部(局)のオンパレードです。

これは、消防の設置が市町村の権限だということです。ですから独自の消防本部を設置している。

また、市町村同士が連合して(事務組合を作って)消防を設置する自由もあります。これが、埼玉東部消防組合消防局、久慈広域連合消防本部など、市町村が複数含まれた消防です。

連合して消防組織を作る形以外にも、複数の消防本部の119番通報受理・消防救急指令業務のみを1本化して運用する試みなどもあります(千葉県の「ちば共同消防指令センター」、沖縄県の「沖縄県消防指令センター」等)。

「東京消防庁は?」という疑問が出てくるでしょうが、これも、23特別区が連合して設置している消防本部であり、23区外の自治体は、消防委託している形になります。実際、東京都稲城市は、独自の稲城市消防本部を設置しています。

このように、日本の消防は基礎自治体(市町村)の意志で設置されます。

奈良広域消防組合消防本部のように奈良県を1県1消防本部にしようとする試みもありますが(これは、奈良市と生駒市の不参加で実現せず)。

これは、細部はともかく米国警察制度と似ていませんか?

自治体による自由度が極めて高い。

それもそのはず、この消防制度を作ったのは米国です。つまり占領軍です。

敗戦時に、占領軍・GHQは、日本にアメリカンデモクラシーを「移植」しようと様々な制度改革を行いましたが、米国の警察・消防制度も移植したのです。

この内、警察制度は、国家地方警察本部と自治体警察(市町村警察)の2本立てでスタートしました。人口5000人の市町村は自治体警察を設置、それ以外の地域を国家地方警察本部が担当するという、米国式に極めて近い制度が導入されます。

これにより全国は国家地方警察本部と対等な関係の1600あまりの独立した自治体警察に分割されます。

しかし、この制度は、1947年に始まりましたが、1954年に早々に廃止されます。

これを、「そもそも欠陥のある制度であり、失敗だった」と捉えるか、「民主主義を育てる上で重要で、廃止は残念無念」と捉えるかは論者によって違うようです。

そして、1954年の新警察法により、警察庁と都道府県警察の事実上の1本化された準国家警察制度が成立して、現在に至ります。

他方、消防は、警察と正反対の道を歩み今日に至ります。

警察庁が事実上、都道府県警察を統制(指揮監督)し「日本警察」という一つの警察を形成しているのに対し、総務省消防庁は、あくまで自治体消防本部の「調整」役に過ぎません。

消防庁長官が●●市消防局を「指揮」することは出来ません。

消防に関しても、警察のような集権的な形式を採用する道もあったでしょう。

大陸系の国家だと、やはりその傾向は強い。

例えば、フランスの消防は内務省に属し、それを各県に委任。首都パリの消防はパリ警視総監の監督下に、フランス陸軍パリ消防工兵旅団が担当するという、極めて「中央集権国家」的な形です※2

日本は警察は大陸型、消防は米国型という別々の道を歩みました。

「効率」よりも「警戒」を

詰まるところ、「警察」観といいますか、「警察」原理というのは、そのまま「国家」観に拠ってきます。

米国の場合、英国の圧政から、独立した人工国家というのは見逃せません。

その理論的支柱は、社会契約論(特に、ジョン・ロック)に求められます。

政治社会(国家)は人民の契約によって創設されたものである、と。

なので、極論では、その改廃もあり得ます。

そこには、「政治権力」への不信というものが根強くあります。

アメリカは「政府諸部門」をもつものではあるが、主権国家や絶対主義的政治などはもたない政治社会であるとして、みずからを世界に示したのである。

したがって、アメリカの政治的伝統は、反国家的伝統であったし、今日まで間断なくそうであると解釈されてきた。

シェルドン・ウォリン『政治学批判』みすず書房、2004年、262頁。

この国家観からは、対国内の物理的強制装置(暴力装置)である警察は、極めて「危険」な存在と捉えられます。

もし、警察活動の「効率」を考えるなら、このような警察の形式ではなく、トップダウン型の警察機構を作って、全米を管轄地域にくまなく分割してしまった方がいい。

しかし、それは同時に、強大なひとつの警察権力を作りあげ、それがいつ自分達に牙を剥くか分からないリスクでもあります。

それならば、権力機構は分割・分立・細分化した方がいい。

「効率」か「危険回避」か。

米国の答えは後者です。

自警主義と銃規制問題

この政治権力への不信と、改廃の可能性が、いわゆる「抵抗権(革命権)」の論理です。

万が一、ワシントンの連邦政府が暴政を行った時に、いざとなれば、人民は抵抗し、革命を起こす(アメリカ独立革命の再現)可能性が残されている。

その為の手段として、人民の武装権(銃器所持)は禁止されていません。

おそらく、アメリカがアメリカである以上は、銃規制は不可能なのではないかと思います。

そして、このような考え方は、自警主義に繋がります。

自分の身は自分で守る。

それは、社会契約論の自然権(生存権)です。何人も、自己の生存を守る権利を奪えない。

合衆国憲法も、人民の武装権を認めていると考えます。

結局、自治体を作って、警察を作る自由(権利)も、これに由来するのでしょう。

西部劇などで、選挙で選ばれた保安官は、何か事があれば、村の男たちの協力を仰いで、彼ら自身が銃を手に、戦います。自分たちの共同体は自分で守る。

先ほどの「消防」を例に言えば、

「消防本部を筆頭に常勤の消防士を置く消防署・消防隊(総じて「常備消防」と言います)は、いつ起きるかわからない火災・災害に備えていて、税金の無駄遣いだ。もし、火災が起こったら、非常備の消防団(つまり、市民が自主的に、ボランティアで)が対応すればいいだけだ。」

これを警察・軍隊に適用しますと、

「常勤の警察官・軍人を置く警察機関・常備軍は、いつ起きるかわからない犯罪や侵略に備えていて、税金の無駄遣いだし、逆に市民に牙を剥くかもしれない。もし、犯罪や侵略が起こったら、市民の自警団や民兵(銃を持ったボランティア)を組織して対応すればいいだけだ。」

この辺の政治思想では、リバタリアニズム(自由至上主義)が代表的です。彼らは、無政府主義一歩手前です。

連邦政府と連邦軍

ここまで、アメリカの警察の背景・原理を見てくると、映画や刑事ドラマでFBI(連邦捜査局)などの連邦法執行機関が乗り込んでくると、地元警察や保安官に蛇蝎の如く嫌われる理由が、おわかり頂けると思います。

しかし、そうならば、

「じゃあ、あの強大なアメリカ軍やらCIAやらはなんで存在しているんだよ?」と疑問が出てきますよね。

警察ですら、こうなのに、世界最強の軍隊持っているのは、矛盾しないか?と。

その通り、大いなる矛盾なんです。

「アメリカは軍事戦略について、あるいは国民生活の構造の中の軍事力の位置について、伝統的な観念をもたない国である。(中略)またわれわれにとって軍事的問題をアメリカ社会の内部的問題に関連づけるのが難しいのは驚くべきことではない。アメリカは平和時に常備軍を維持する伝統をもったことは一度もなかった。」

ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』岩波書店、2000年、266-267頁。

もし、アメリカの建国の理念通りであれば、有事に召集される民兵(人民が武器を携えて立ち上がる)か、せいぜい、州の軍隊「州兵」で十分ではないのか?

それを大統領が、「その時だけ」指揮すればいいのではないか?

現在の強大な米軍(連邦軍)というのは、最初から、「外征」を念頭に置いた矛盾した存在と言えるかもしれません。

※1 上野治男『米国の警察』良書普及協会、1981年、6頁。

※2 東京消防庁海外消防研究会『世界の消防』全国加除法令、1974年、45-54頁。

【参考文献】

上野治男『米国の警察』良書普及協会、1981年。

鈴木卓郎『警察庁長官の戦後史』ビジネス社、1984年。