映画「パトリオット・デイ」~対テロ戦争とアメリカ警察を知るために

2016年(米)、ピーター・バーグ監督

「テロだと決めた瞬間に何もかも一変する。この街の問題だけじゃなくなるんだ。マスコミが大騒ぎして、株価にも影響が出て、政治家がしゃしゃり出てきて、お決まりのイスラム教徒への反発も起こる。間違えたら取り返しがつかない。」

本編より(R・デローリエ FBI特別捜査官)

2013年に発生した、ボストンマラソン爆弾テロ事件を題材にした映画です。

ゴールポスト直前で、2度の爆発の映像をニュースや動画サイトでご覧になった方も多いはずです。

実在の人物(テロリスト、警察関係者、行政当局関係者、FBI捜査官、被害者etc.)が多数登場する群像劇で、事件発生直前から犯人逮捕までの102時間(4/15~4/19)を描きます。

全編ドキュメンタリータッチで、ボストンマラソン爆弾テロ事件の顛末を再現しています。

この映画の視点は色々あるでしょうが、テロ事件の「記録」であると同時に、リアルな「アメリカ警察」を知ることが出来る「教材」としても有益でしょう。

あらすじ

2013年4月15日「愛国者(パトリオ)(ット)(ディ)」。

快晴の中、マサチューセッツ州ボストンでは「ボストンマラソン」が開催されていた。

その最中、ゴール付近2か所で連続爆弾テロが発生。

現場にいた市警のトミー・サンダース巡査部長は、凄惨な現場で直ちに救護活動と退避活動を開始したが、子どもを含む3人の死者、多数の重軽傷者を出す惨事となる。

FBIも加わり、テロリストの捜索が開始される。

果たして犯人は複数か単独犯か?

第二、第三のテロはあるのか?

犯人はボストンにまだいるのか?

長い長い102時間の物語。

※以下ネタバレあり

アメリカ警察の雰囲気

本作、テロの直前まで、それぞれの「日常」のシーンが続くのですが、主人公にあたるベテラン警察官トミー・サンダース巡査部長(演:マーク・ウォールバーグ)が上司や同僚と交わす他愛無い会話・やりとりが描かれています。

このような警察官のフランクな姿は、日本人にとっては、かなり違和感を持つのではないでしょうか。

日本での警察官、というよりは「制服」の公的職業のイメージは、もっと規律の取れた「硬い」ものでしょう。

ここに日米の警察観の違いが現れています。

そもそもアメリカ建国の事情を考えていただければわかりますが、

独立心が強く、自由をことのほか強調するアメリカ人には権力に対する強い憎悪と不信の念があり、有能な警察に脅威を感じ、弱い警察を理想としているところがあります。

(中略)個人の自由と財産はすべて自分の力で守るという伝統に立つ米国においては警察に対する国民の期待は必ずしも日本と同じではありません。

上野治男『米国の警察』良書普及協会、1981年、序3頁。

米国においては、「必要こそが権力」。つまり、その問題の必要に応じて、その機能の権力装置を、その都度作るということが自然な形になります。

権力はいわば必要悪です。「制服」は嫌悪、あるいは警戒すべきものです。

つまりボトムアップ型な警察であり、言ってしまえば、警察が「乱立」します。

事件の捜査を最初に行うのが、ボストン市警察です。これはわかります。

しかし、物語中盤、犯人によって、マサチューセッツ工科大学(MIT)構内で、パトカーに乗った警察官が殺害されますが、この警察官はどこの所属か?

答えは「マサチューセッツ工科大学警察」。この「大学(キャンパス)警察(・ポリス)」は、大学が独自に設置した合法的な警察機関です。

これは、大学所在地のケンブリッジ市警察の下部組織ではありませんし、ましてやマサチューセッツ州警察の下部組織でもありません。

これら警察は、全て別個の独立した対等な警察です。

つまり、あらゆる自治組織が、合法的であれば警察を作れるので、結果、全米で、15000もの独立した警察機関が「乱立」することになります※1

これと対極にあるのが、最初から全てを包括する権力機関をトップダウンで作るという発想で、大陸系の国家(日本も含む)です。日本には、乱暴に言えば警察はひとつ「日本警察」しかありません(警察庁及び47都道府県警察が実質的には一体化している)。

権力が必要悪という意識は薄い。むしろ「制服」が好き。

このような警察観、というか権力観の違いは、前述したような、米国の、ラフで、フランクな警察を生み出す土壌となったのでしょう。

日本の警察官僚が、ニューヨーク市警の高官らに、警視庁警察学校の卒業式の映像を見せた所、その規律正しい集団行進を見て、「あれで市民の信頼を得られるのか?」と意見されたいう逸話があるそうです※2

まさに日米の権力観の違いを象徴するエピソードでしょう。

混乱と調整

「どう対処しようと、どうせ責められる。」

本編より(R・デローリエ FBI特別捜査官)

「乱立した警察」が、如何に捜査を展開していくか。これが、テロ事件直後から展開されます。

現場にFBI(連邦捜査局)が到着し、マサチューセッツ州知事やボストン市警察コミッショナーなどが一堂に会して話し合いが行われます。

管轄的にはボストン市警察ですが、連邦法に抵触していれば、FBIが介入してきます。

テロ事件として、FBIが「仕切る」ことになりますが、ここでのポイントは、別にFBIが、ボストン市警やマサチューセッツ州警察より「偉い」訳ではない点です。

これは、連邦と州の関係を考えると分かります。

「州」は日本人の感覚だと「都道府県と同格だろう」と思い込みがちですが、実際は、「州」は国です。

日本の都道府県は大雑把に言うと、州の中の「郡」と同格です。

「州」という国が連合して「アメリカ合衆国」という連邦国家を形成している訳です。故に、州は権限の一部を連邦に委任している訳です。

本来、治安責任は州知事や自治体の首長のものであり、連邦政府は当初、それになかなか介入できませんでした。

ところがアメリカ現代史の「怪物」とも言うべきジョン・エドガー・フーヴァーによって、司法省捜査局がFBIに発展拡大し、強力な捜査機関として様々な犯罪に対応することになります(同時に地元の法執行機関との軋轢も生じます)。

この辺りの事情は、クリントン・イーストウッド監督の映画「J・エドガー」(2011年)などを見ると面白いでしょう。

捜査本部が立ち上がり、犯人を追い詰めていく過程が克明に描かれていますが、日本の捜査本部とは大分様相が違います。

FBI特別捜査官が主導しますが、ボストン市警コミッショナー(この“コミッショナー”がまず日本に馴染みが薄い。コミッショナーはボストン市長による政治任命職※3)に加えて、ボストン市長やマサチューセッツ州知事も加わっていました。

これは、日本の感覚だと、かなり奇異に見えるかもしれません。

日本でテロ事件の捜査本部が立ち上がれば、地元の都道府県警察と警察庁、規模や性格によっては、内閣官房あたりが出張ってくるかもしれませんが、自治体の首長・知事は、直接関わってこないでしょう(自治体は自治体独自の対策本部を設置するでしょうが)。

なぜ、ここまで違うかと言うと、先述した通り、アメリカの警察は自治体が設置したものだからです。

日本が、日本政府(官邸)の介入を受けるように、米国では、国でもある州政府、自治体の首長が介入します。

ボストン市警のコミッショナー(作中の「警視総監」が適訳か微妙かもしれませんが)は、そもそもボストン市長が人事権を持っていて、任命するものです。

日本警察は、先ほど、「1つしかない」と書きましたが、都道府県警察本部長は、都道府県知事が人事を決めている訳ではありません。

それは、警察庁が人事権を持っているからです。

警察官は警察庁採用を除けば、全員、地方公務員です。ところが、日本警察の人事システムの妙は、警視正になると、例外なく、全員、国家公務員に鞍替えするという制度になっています。

警視正以上は全員、国家公務員ということは、言うまでもなく、日本警察の本質(少なくとも指揮統制の面)は、国家警察だということになります(うーん、地方自治とは・・・)。

米国の場合、その州政府と州法とは別に、連邦政府と連邦法があるので、二重にややこしくなります。

結果、事件捜査は、一元的ではなく多元的な様相を呈します。混乱もありますが、調整しつつタスクフォースで対処していく。

殺到してくるバラエティに富んだ「警察」

中盤以降、犯人の兄弟は追い詰められていき、ボストン近郊のウォータータウンで、警邏中のパトカーに発見され、文字通り「激しい銃撃戦」になります。

ここで、犯人と銃撃戦を展開するのがウォータータウン警察ですが、ボストン市警のトミー・サンダース巡査部長も緊急走行で駆け付けてきます。

一人を確保、もう一人は逃走した為、ウォータータウンとボストンを含む周辺自治体には、住民の屋内退避が勧告され、警官隊が虱潰しに大規模捜索を開始します。

そして、住民からの「誰かが、庭のボートに隠れている」との911番(米国の緊急通報番号)により、事態は、いよいよ最終局面となります。

ウォータータウンの銃撃戦もさることながら、終盤の犯人包囲には、様々な「警察」が殺到してきます。

混乱の中、サンダースが「無線を聞いてないのか!?」と怒鳴ると、「あちこちから警察が来ていて、無線の周波数が違うんだ」という答えが返ってきます。

管轄が重複していたり、応援に来ていたりと、この大規模捜索には、様々な「法執行機関」が参加しています。

ウォータータウン警察やボストン警察は言うまでもなく、マサチューセッツ州警察やマサチューセッツ湾交通局警察、マサチューセッツ州兵(州の軍隊)、そして連邦レベルからのFBI。

日本の警察イメージだと上意下達、指揮系統はしっかり末端まで決められており、こういう光景は想像し難い。

例えば、埼玉県内でテロ事件が起きれば、埼玉県警のみが管轄するでしょうし、警視庁から応援部隊が来ても、それは県警の指揮下に入るでしょう。県に警察はひとつですし、日本警察の実態はひとつの国家警察ですから。

ところがアメリカは複数の警察が並立しています。時に管轄を重複しつつ。

混乱回避の為、捜査本部は、犯人逮捕(制圧)をFBIの特殊部隊HRT(人質救出班)に一任。

ところが屋根に狙撃手が到着して、配置に付こうとすると、そこには「先客」がいました。

「あんた一体誰?」

「FBIだ、ここからは俺たちに任せてくれ」

「FBI?ボストンのかい?」

「いや、クワンティコ(FBIアカデミー所在地)だ」

「あたしゃ、地元フレイミングハムから来たんだ。ここを動くつもりはないよ。」

「君がいて心強い」

この豪胆な女性警官と特殊部隊のやりとりなどは、「典型的」なアメリカ警察の気質を表現していると言えるでしょう。

また、最後、犯人逮捕に沸き立つボストンの様子、パトカーとそれを歓喜で迎える市民の姿が流れますが、これも日本では想像し難い光景です。

日本警察は淡々と職務を遂行し、国民も淡々とその様を見届けるのみでしょう。

そこには権力作用に対して、主と従のはっきりした区別があります。

日本警察の父である川路利良(大警視/1834-1879年)は『警察手眼』で、「政府が父母、人民が子なら、警察はその守役」と書いていますが、この権力観・警察観は現代でも生きています。守役が提供してくれる治安を子供は受け取るという一方通行な関係です。

ある意味で他力本願です。

対して、アメリカは、その建国以来の反政治権力的・自警主義的な国民性から、一方通行で、強大で、単一の、効率的な警察を望んでいません。

政府は父でも母でもなく、社会契約の産物に過ぎません。警察もそうです、一方的な保護者とは思っていません。

ある意味、自力本願です(銃規制反対にも繋がってきます)。

ケルベロスのトリレンマ

「『もうそれは必要ない』と言って、その3週間後に何かが起きたらどうするんですか?誰もそんなリスクは負いたくないですよ。規模を縮小するなどありえないでしょう」

(テロ対策について/J・ジョーンズ元米海兵隊司令官)※4

9.11以降、本作のボストンマラソン爆破事件まで。

いわゆる「対テロ戦争」は終わりが見えません。

そこにはテロが発生する必然性があります。

米国は文字通り世界最強の軍事大国であり、世界覇権を手にしています。

その軍事力は、大きく3つに分かれるでしょう。

第1に核戦力。

第2に通常戦力。

前者の核戦力に関しては、核保有国間の相互(M)確証(A)破壊(D)が成立して、固定化・不動化しています。

後者の通常戦力(アメリカ陸海空軍・海兵隊)は、米国が群を抜いており、これに立ち向かえる国は現状ありません。

つまり、この二つによって、米国による世界覇権、国際秩序は一応(・・)、固定化・安定化してしまっている訳です。

そうすると、中露のような大国を別にすれば、それ以外のファクターが、この米国の「体制」「秩序」に不満を抱き、挑戦しようとすると、必然的に、第3のものに手を出さざるを得なくなります。

それは、低強度紛争(LIC)です。

通常兵力の正規戦(戦場での軍隊同士の戦闘)ではなく、ゲリラやテロといった手段で、米国の意図・士気を挫く。

対テロ戦争とは、このLICのことに他なりません。

これには前2者のような米国の優位性がありません。前線と後方の区別も、軍事活動と警察活動の境も曖昧になります。

LICは3つの内で、唯一の米国の弱点です。

通常戦ではイラク軍を圧倒したイラク戦争でも、その後の治安戦(LIC)は泥沼になりました。最初からゲリラ戦であるアフガンもそうです。

そして、米国内のソフトターゲットが狙われる。

予算も規模も際限なく広がります。それでいて、核戦力と通常戦力は維持し続けねばならない。更には、テロ対策は市民社会の「自由」も浸食する。

ケルベロスというギリシャ神話の怪物がいます。3つの頭を持つ犬です。

米国の軍事力はこの3つの頭のようなもので、それぞれ、核戦力、通常戦力、LIC(対テロ)です。

しかし、米国といえども、この3つすべてを満足にするほどの国力はないでしょう。

前2者はともかく、LICは底無し沼のようです。この底無し沼が前二者にも影を落とすでしょう。

ケルベロスはトリレンマに苦しみ苛まれているようです。

【脚注】

※1. 上野治男『米国の警察』良書普及協会、1981年、6頁。

※2. 同上書、134頁。

※3. 同上書、77頁。

※4. D・プリースト/W・アーキン『トップシークレット・アメリカ』草思社、2013年、8頁。

【参考文献】

上野治男『米国の警察』良書普及協会、1981年。