「王は帰還したのか?」賛否両論、三省堂書店リニューアル騒動記~2026年春

かつて読書家といわれた人々の許に「本」は届いているのだろうか。そして「本」というメディアの異変はわれわれをどこへ連れて行き、どんな世界をみせようとしているのだろうか

佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』プレジデント社、2001年、14頁。

2026年3月19日に、三省堂書店神田神保町本店がリニューアルしました。
2022年5月の一時閉店からおよそ4年。
三省堂のビルと言えば、神保町のランドマークのような存在で、それが取り壊されていく様には、一抹の寂しさを覚えました。

しかし、三省堂書店はパワーアップして帰ってきました!
「王の帰還」だ。

…パワーアップ?

賛否両論、波乱のリスタート

もうこれが、賛否両論、波乱の船出になってしまっています。
まず第一に、在庫数の「激減」。
そう、激減なんです。
旧本店の在庫冊数は140万冊とも言われていました。
それが、今度の新本店では、なんと50万冊。
半分どころか、4割を切っています。
ちょっと、これは只事ではない。


「知の渓谷」?


確かに渓谷のような作りです。
しかし、それはある意味、遭難してしまいそうだ。悪い意味で。
単純にあの複雑な棚の配置。
デザインの意図はわかるのですが、本棚としての機能といて必要か、と思う訳です。
本を、読書を至上の目的とする人ならば、必要なのは、本の種類(冊数)と探しやすさです。それを犠牲にしたデザインは、書店のデザインとして適切なのか。
しかしながら、何か物珍しいアイデア、工夫をしなければ、客数を増やせないという理屈はわかります。
図らずも書店業界の厳しさを証明してしまう
つまり、純粋に、「本屋」ではなく、「観光地」化しなければ、やっていけない、ということが如実に表れています。
これは、少し前に各地の書店がこぞって導入した「ブックカフェ」ブームと同じです。
(詳しくは下記の記事で)

「知の渓谷」ではなく「知の警告」です。
誤解して頂きたくないのは、別に、三省堂が悪いという次元の話ではないということです。
そうではなくて、三省堂がこのような経営判断をしなければ、生き残れない判断した、社会状況こそ、真の問題なのです。

旧店舗が、ひたすら、「普通」の書店の延長の大規模書店を志向していたのとは、大きな違いです。
見方を変えましょう。
今回のリニューアルは、自資質的には、新しい店舗がオープンしたと思えばいいんです。

王は帰らなかった。
あの、屋上に「辞書はコンサイス」の王冠を戴いた王は崩御したのです。
こう考えましょう。

三省堂


神保町というのは、この街がひとつの「書店」として機能しています。
であるからこそ、全く変わってしまった三省堂も、その巨大書店の一角として受け入れましょう。
無くなるよりは、遥かに良い。
しかし、この一連のリニューアル前後での業界の盛上り方には、やはり不自然なものを感じざるを得ません。

最後の花火


いま、出版不況や書店の大量閉店がニュースになってします。しかし、不思議なことに動画配信サイトでは書評配信は人気を博し、書評家や読書系の発信者が、各種メディアに引っ張りだこです。
出版不況など、質の悪いフェイクニュースのようです。
でなければ、まるで、不思議の国のアリスになった気分。
これはなんなんでしょうか?
歴史上、古いメディアは、ただ静かに衰えて消えていくとは限りません。

グーテンベルクの活版印刷術が登場したときも、写本文化はすでに死に絶えていたわけではありませんでした。
普通、ひとつの文化形態が終焉するのは、緩慢な死への過程をイメージしませんか。
しかし、現実は、そうとは限りません。
中世末期には、大学や都市の発展、紙の普及を背景に、なお盛んに写本が作られていたのです。
新しい時代の到来を前に、古い文化が最後の活況を呈する。
だとすれば、現在の書評ブームも、「紙の本」の復活を告げるものではない。
もし、本当に、本が読まれているなら、出版不況も、書店数の減少も、何らかの歯止めがかかっているはずです。数字は無情です。
ならば、いま、おこっている社会状況は、本が読まれているのではなく、「本を読むというイメージ」が消費されているだけなのではないでしょうか。
本の内容が要約され、発信され、消費される。
古書店街の風景が文字通り「風景」としてだけ消費される。
本や知識というものが、ファッションとして消費される。
はっきり言えば、「紙の本」という世界、いわゆるグーテンベルク銀河系は、終焉に向かっているのでしょう。グーテンベルク銀河系が暮れようとする空に上がった、最後の花火なのかもしれません。
ええじゃないか
世の中が大きく崩れようとしているとき、人々はかえって熱狂し、踊り、祭りを始めることがある。みんなで必死に「本は素晴らしい」「読書は面白い」と声を上げれば上げるほど、私はどこか虚しさを感じてしまいます。
この一種の「お祭り騒ぎ」が、幕末の「ええじゃないか」、「踊念仏」のようなものを想起してしまいます。

こう、問いかけたくなるのです。
「いや、皆さん、本当は分かっているんですよね」

そう問いかけながら、私はどこか、この時代の終わりを見送る者としての寂しさを覚えるのです。

ちょっと風呂敷を広げ過ぎましたが、この国に神保町が残っている内は、本土決戦まで、まだ猶予はありそうです。

…とはいえ、紙の本がこのまま本当に絶滅するのかは分かりません。ウンベルト・エーコは、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で、新しいメディアが現れても、本という形態はある意味、知の「最終形態」「完成形」と言っており、簡単には滅ばないと、勇気づけてくれます。

私の見立てが外れ、紙の本がしぶとく生き残るなら、それに越した僥倖はありません。