「日本沈没」後の政治学【後編】~日本国の存続と国外退避計画で語られなかったもの(カルネアデスの舟板)

jizo

「ユダヤの民二千年の、漂白の体験が、この島国の民、二千年の閉ざされた幸福な体験と、すぐにおきかえられるとも思えません。ディアスポラののち、何年たって、何を学びとるか・・・それまで日本人は、まだ日本民族であり続けるかどうか・・・」

小松左京『日本沈没』(下)小学館、2006年、109頁。

★前編はこちら

→「日本沈没」後の政治学【前編】~日本を喪った後の国際情勢はどうなるか?(小松左京)

前編では、主に米国と日本周辺国に関して、また、日本の軍事力(自衛隊)をどうするのか?という点について見てきました。

後編では、日本沈没後を見据えた、日米による「国外退避計画」の深謀遠慮を探っていきます。

日米による「ペーパークリップ作戦」

退避の費用を確保する為、あるいは難民受け入れ国への手土産として、文化財が各国に流れていく様子が原作や映画版ではありますが、それと同時に、「頭脳」そのものの「移転」も進められるでしょう。

第二次大戦でドイツが降伏した直後、米国は、占領地のドイツ人の科学者・技術者を確保して、米国に移送・協力させようとする「ペーパークリップ作戦」を実施しました。

米国の宇宙開発に大きく貢献したフォン・ブラウンもその一人です。

おそらく日本沈没前後には、対日版「ペーパークリップ作戦」が実施されるでしょう。

科学・技術(つまり広義の理系)の各分野の優秀な人材を、家族帯同と衣食住の保証を条件に、どんどん引き抜いて、渡米させるはずです。

彼らが最終的に米国に帰化してくれれば万々歳です。

(中国もやるでしょうが、同盟国である米国の方がはるかに有利です)

他方、日本政府は、沈没後も「日本」のアイデンティティを存続させる道として、文化人・文系の学者を優先的に脱出させるかもしれません。

その際には、文化的な資料も一緒に。

できるなら、せめて旧帝国大学6大学をそのまま、海外のどこかに移転させ、何とか存続させたい。

更には、国立国会図書館の蔵書も避難させたい。

日本もいわば日本版「ペーパークリップ作戦」を実施することになります。

「人の生くるはパンのみに由るにあらず」(マタイ伝)

国民が着の身着のままで、難民状態で、世界中に散り散りになっている訳ですが、教育や文化の火種を残しておかなければ、早晩、歴史的な、観念の共同体としての「日本」は溶けてしまうでしょう。

こうして、日米は、全く違う思惑から共にペーパークリップ作戦を実施するのです。

天皇・皇室

天皇・皇室はどうでしょうか?

先述した通り、日本の主権は極めて曖昧な、実態のないものになる可能性があります。

そうすると、「日本」というアイデンティティを保つにはどうしたらいいか?

政治学において、「ミランダ」という概念があります。

米国の政治学者チャールズ・E・メリアムが提唱した概念です。

これは、政治権力が被治者からの服従を得るために行う権威化の手段の内に、情動的・感傷的・非合理的・非理性的なもののことを総称しています。例えば、儀式、栄典、国旗、国歌、軍事パレード、王制などが挙げられます。

(逆に、理性的なものはクレデンダと言われる)

もはや、合理的な手段や実際の統治能力を示せないなら、何とか、天皇という「シンボル」の求心力で、それを凝集するしかないでしょう。

小松左京の原作では、

「で―皇室はやはりスイスに・・・」

「はあ・・・」と小柄な人物はいった。「皇族のお一人はアメリカに、お一人は中国に、できればもうお一方、アフリカに・・・」

小松左京『日本沈没』(下)小学館、2006年、108頁。

世界中に散らばった各地(の難民キャンプ・居留地)の日本人に皇族が行幸・慰問することによって、そのアイデンティティを保持させようとする苦肉の策です。

(現在のように男性皇族の減少、宮家が減る一方では、分散は最早困難でしょうが)

国家単位のトリアージは行われるのか?

おそらく、どのメディアミックス作品も言及していないと思いますが、日本沈没の国外退避計画における最大のタブーは、果たして、退避対象者のトリアージ(選別)を行うかどうかでしょう。

「トリアージ」とは、災害現場などで、一斉に大量の傷病者が発生した際、明らかに医療資源(医師、医薬品、搬送手段等)がそれに対して不足している場合、その治療の優先順位を選別することを意味します。

そして、その最も過酷な状況(大災害等)においては、助ける人間と助けない人間を選別することまで含まれます。

通常医療なら助けられる人も、医療資源の不足から、止む無く治療されない可能性がある。

日本沈没は、日本から脱出しなければ死が待っています。

しかし、全国民の脱出は物理的に不可能でしょう(船舶・航空機の物的限界、受け入れ先の限界)。

すると、トリアージの問題は避けて通れなくなります。

いわば、国民退避計画とは最初から「カルネアデスの舟板」なのです。

哲学者カルネアデスは、海での遭難で、自分が一人分しかない舟板に運よくつかまった時に、別の人間が泳いできて、つかまろうとした。しかし、板に2人分の浮力はない。

彼は、もうひとりを犠牲にして自分は助かるべきか?という問いかけをします。

先述した、日米の「ペーパークリップ作戦」は、実質的に、その第1段階の選別になります。

残る国民をどうするか?

この場合、2つのケースが考えられます。

  • 国外退避が秩序だって整然と行われる。
  • 国外退避が大混乱の中で行われる。

国外退避が秩序だって行われる

国外退避が秩序だって計画的に行われる場合、トリアージも行われる可能性が高いです。

映画「ディープインパクト」は、1年後に迫った巨大彗星の地球衝突を描いた作品ですが、米国政府は100万人を収容できる地下都市を建設します(政府が彗星衝突の可能性を知ったのは2年前)。

ここに収容される人々は、まず人類復興に貢献できる人々(科学者・技術者、文化人、軍人等)を選択、次にコンピューターによる無作為抽出で国民から選ばれます。

しかし、無作為抽出では、高齢者は最初から対象としない旨が宣言されています。トリアージです。

同じようなことが、日本沈没の国民退避計画にも織り込まれるかもしれないのです。

受入国側も労働力としてなら若年層を欲しがるでしょう。

いわば「切り捨て」が行われる可能性がある。

「人道」という言葉は「国益」の前では見て見ぬふり、切り捨てられることを思い知ることになります。

問題は「全員助かる事は絶対不可能なので、トリアージを実施する」と、政府が、国民に説明して納得させられるか?

しかし、この心配は無用かもしれません。権力の(さか)しさは、「実際にトリアージを行っても、それは一般国民には気づかれない形で実施してしまう」ということをやりかねません。

どちらにしろ、事ここに及んで、政治は、その最も陰鬱な、デモーニッシュな本来の顔を否応が無しに見せることにならざるを得ないでしょう。

国外退避が大混乱の中で行われる

更に言ってしまえば、上記のような心配は無用かもしれません。

なぜなら、国外退避は、現実に実施する段階では、大混乱の中で行われる可能性が高いからです。

そもそも1億2000万人を整然と避難させるなどという芸当ができる国家が、この地上にあるのでしょうか?

計画といっても、「日本沈没」は、わずか1年後という短期間で発生してしまうのです。

否、日本列島の各地が海に没し始めるのは、その以前からであり、1年後には日本列島は消えている。

(ディープインパクトの世界は、まるまる2年間の準備期間がありました)

そんな短期間で計画立案し実行できる規模の計画ではありません。

それでも、なんとか強行するでしょう。座して死を待つよりは。

しかし、国民に対して「日本が沈没します」と公表した瞬間から、途方もないパニックが始まります

そんな中での退避です。

とてもトリアージなどできないでしょう。

目の前に押し寄せる群衆を、とにかく船に詰め込み、飛行機に押し込み、着の身着のまま、ピストン輸送するのが関の山です。

分け隔てなく。一見、「人道的」ですが、この無秩序な退避は、それはそれで悲惨な状況を各地で引き起こすでしょう。

船や飛行機に詰め込まれて、とりあえず難を逃れても、辿り着いた仮の地での生活は、沈没前の日本での生活とは雲泥の差です。

医療・公衆衛生、食料、住居、気候、水・・・すべてが、かつての水準に届かない筈です。

高齢者や傷病者に多くの犠牲が出るのは避けられない。

第三の選択・・・

実は、デモーニッシュなトリアージも、大混乱の阿鼻叫喚の無秩序な退避も行わずに済む、第三の選択肢があります。

映画版(1973年)では、それが語られています。

退避計画に関して、山本首相(演:丹波哲郎)が政財界の黒幕である渡老人(演:島田正吾)と密会する場面です。そこでは、渡が内密に三人の有識者に書かせた日本沈没()の日本人に関してのレポートに関して山本に伝えます。

そのレポートには、三人一致の意見書が添えられていました。その内容とは・・・

渡 「このまま、なにもせんほうがええ」

山本「なにも・・・せんほうがええ?」

渡 「そうじゃ。1億1千万の人間が、このまま日本と共に沈んでしまうのが、日本および日本人には、一番ええことじゃ。とな」

山本「・・・しかし渡さん」

渡 「それは付属的意見じゃ、気にせんでええ。ただそいういう意見があったことを、総理にも知っておいてもらった方が、ええと思ってな。」

山本役の丹波哲郎の名演が光る邦画史屈指の名場面です。

一種の「滅びの美学」です。

潔く、動じることなく、運命を受け入れて入水する。

しかし、それは国家の自殺です。

この地上の政府で、それを選択することは許されないでしょう。

政治は美学ではなく生存と秩序の為にあるはずです。

ならば、日本政府は、どんな艱難辛苦の旅路であろうと、ディアスポラを歩むしかないのです。

【了】