★連載①(前回)はこちらです。
→「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学的考察 連載① ~押井守と「戦後」、前史としての『犬狼伝説』~
一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである。
カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社、2006年、61頁。
2つの虚構の戦後史
では、『犬狼伝説』では、「政治」の何が清算されていないのか?
それは、『犬狼伝説』の世界は、「戦後」であって「戦後」ではない、正しく言えば我々現実の日本人が生きている「戦後」ではないからだ。
現実の戦後史は高度経済成長による失業者の群れを生まなかったし(一億総中流化)、自治体警察を凌駕するような反政府闘争も起こらなかった(安保闘争も警察が鎮圧した)。
必然的に、警察軍を抱え込むような社会情勢には至らなかった。
故に、「動乱の戦後史」という虚構の上に成立する。
対して、「機動警察パトレイバー2 the Movie」 (以下、P2)は、現実の戦後史の完全な延長に位置している。
パトレイバーの世界観は、レイバーと呼称される産業用歩行大型機械は存在しているが、それ以外の戦後史・社会情勢は全く現実に依拠しているからだ。
技術上の進歩、あるいは社会・産業の若干の変化が虚構として付加されても、それが「政治」的ないし思想的に影響を与えていなければ、日本論ないしは政治哲学としての「戦後」を語る上で、障害になることはない。
しかし、それが首都警のような警察軍の存在する「日本」では、意味が全く変わってしまう。
畢竟、純粋な「戦後」を舞台にするのならP2という舞台が必要だったのだ。
可能な限りリアルな虚構の中でその主張を展開し、いわば妄想の極点において現実過程に一撃を加えること。
これが『P2』なる作品の目指すところであり、企画の全てであった。
押井守『雷轟』エンターブレイン、2006年、189頁
かくして、「戦後」を主題とした「政治」的作品の結実点としてP2が完成する。
2つのクーデター
本題に入る前に。
自衛隊の「クーデター」を主題とした作品としては、1989年のパトレバーOVA作品「二課の一番長い日」(前後編)が先行して製作されている。
これも押井監督作品。
つまり、押井は自衛隊のクーデターものを、2作もパトレイバーで作っている。
しかし、この作品とP2には大きな違いがある。
「二課の一番長い日」は、後藤と首謀者甲斐との個人的な男の戦い、子弟の戦いの側面が非常に強い。
対してP2は、個人が捨象化され、思想の戦いの面が非常に強い。
甲斐の思想的背景は想像することは可能だが、作品全面に押し出されているわけではない。
逆に言うと、押し出す必要もない、かなり、単純な政治的動機。
戦後の80年代までは盛んに妄想され(恐れられ)、三島由紀夫が市ヶ谷でその一幕を演じて見せた「自衛隊右派によるクーデター」を、そのまま借りてきた形に過ぎない(「皇帝のいない八月」とか『軍靴の響き』とか)。
だが、それは結局、白昼夢に過ぎない。
「そりゃまあ、不平や不満はあるでしょうけど、今この国で叛乱を起こさなきゃならんような理由が、例え一部であれ自衛隊の中にあると思いますか?」
P2本編より。後藤の台詞
このセリフは、P2から「二課の一番長い日」への言葉ともいえる。
「戦後」という時代空間は自衛隊も含めて、それに甘んじてきた時代であり、「戦後」と「政治」の妥協の産物たる自衛隊が、組織として、己の片親ともいうべき「戦後」に、いわば親殺しを行うクーデターは、リアリティを失う。
では、P2は違うのか?
P2の物語の、そもそもの発端は、東南アジア某国へのPKO派遣だ。そこで、柘植行人は応戦を許されぬまま、部下を死なせ、戦傷する。
それによって、日本国外に広がる国際「政治」の洗礼を受け、戦後日本に舞い戻ってくる。
我地に平和を与えんがために来たと思うなかれ。
我汝らに告ぐ。しからず、むしろ争いなり。
ルカ伝12章49節
「政治」を視野の外に追いやった「戦後」日本に、外から「政治」の洗礼を受けた政治的存在者たる柘植が、笛を鳴らす。
この国外の「政治」と国内の「戦後」という摩擦が「二課の一番長い日」に無かった思想的発火点だ。
その発火点が無かったからこそ、「二課の一番長い日」は白昼夢だったのだ。
かくして、P2は「政治」と「戦後」の思想的戦いの映画となる。
故にキャラクターも後景化する。
★関連記事:機動警察パトレイバー旧OVA「二課の一番長い日」解説・考察(全2回)
「戦後」への「終幕」と「諦観」と
P2において展開される思想的立場は都合3つある。
即ち「戦後への盲信」「戦後への諦観」「戦後の終幕」である。
「戦後への盲信」とは、言うまでもなく、戦後日本の日常が永遠に続くという日本人大多数の盲信のことである。
「戦後への諦観」とは、「政治」の現実を知りながら、「戦後」という圧倒的な幻想の前に諦めて、妥協する、いわばリアリストの立場だ。
「妥協」とは、戦後の中で、できうる限り、「政治」という現実に対して、「黒子」として戦う、ということだ。
それは秘密的、密室的政治主義であり、「秘密戦争」としての政治である。
これは、「戦後」と「政治」の矛盾を一手に引き受け、その尻拭いを担う、報われない損な役回りだ。
この立場にあるのが、後藤と荒川だ。
片や、かつて「カミソリ後藤」と言われた元公安の昼行燈と、片や陸幕調査部別室(おそらく正しくは「別班」)のスパイマスター。
この両方の立場に対して、「戦後」そのものを終焉させようとするのが柘植行人だ。
彼の名前が「告げ行く人」から来ているそうだが、何を告げるのか?
それは「戦後」の終焉だ。
「戦後」を終わらせるために、最も「政治」的な現象である「戦争」を真正面から叩きつけ、これを「終焉」させようとする。
この三者の構図は、『犬狼伝説』と同じ構図だ。
「戦後への諦観」とは安仁屋と室戸。
「戦後の終焉」とは巽だ。
ただ一つ、『犬狼伝説』では両者は別の道を歩むだけだが、P2では、両者も相争うことになる。
後半に明かされるように荒川も、柘植のかつての同志であった。しかし、本物の戦争を始めようとは企図していなかった(ミグ25の亡命騒ぎの再現で終わるはずだった)。また、後藤は「正義の戦争より、不正義の戦争のほうがよほどマシだ」と言うように、多大な犠牲を強いる「戦争」を忌避している。
後藤「そんなキナ臭い平和でも、それを守るのが俺たちの仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争より、よほどマシさ」
荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのはよく分かるよ。かつてそれを口にした連中にろくな奴はいなかったし、その口車に乗って酷い目にあった人間のリストで歴史の図書館は一杯だ。」
P2本編より(後藤と荒川の密会)
往々にして「正義」は「政治」を隠蔽する為の虚飾に堕する。
また、柘植の「正義」がどれだけ正しかろうと、それによって血を流す人々は確実に存在する。
柘植「ここからだと、あの街が蜃気楼のように見える。そう思わないか。」
南雲「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人たちも幻に見えるの?」
P2本編より(終盤)
「戦後」という幻影であっても、それは大多数の日本人にとっては現実なのだ。
「東京」と「戦後」あるいは「経済」対「政治」
私には、“東京”がどうあるべきかを性急に考えるよりは、“東京”とは何であったかを内側から自覚するほうがはるかに重要であろうと思われるのである。
磯田光一『思想としての東京』講談社、1992年、44頁。
柘植の目的は、「戦後」という惰眠を貪る日本人の前に、「戦争」という現実を具現化して見せることにある。
その舞台は、最も「戦後」的な場所「東京」でなければならない。
なぜ「東京」なのか?
それは「東京」に隠された象徴が「経済」だからだ。
「経済」というのは、つまるところ古代の「家政学」、つまり家の「日常」の「生活」に関することにある。
ここで対比したいのは、古代ギリシアにおける「政治」の優位性・卓越性だ。「経済」が卑しいこととして、私的領域に閉じ込められたのに対し、「政治」は、公共のものとして、自由市民がなすべきことと扱われた。
しかし、近代以降、資本主義の興隆は、「経済」の勝利をもたらした。逆に「政治」はパイの配分の調整役のような立場に甘んじることになる(英米政治学、特に行動論政治学)。
ところが、事はそう単純にはいかない。
なぜなら、「政治」には最後の一手が残されるからだ。
それは「他者の手段化」である。
「政治」は「支配」の為にあらゆるものを動員、即ち手段化するのだ。
「経済」も究極的には手段に過ぎない。なぜなら、「経済」自体の「利潤」という目的も、「政治」にとっては、手段化する対象の一つに過ぎないからだ。
例えば、ある経済的行為者が、「利潤」を超えて、市場の「支配」を望んだその瞬間に、「政治的行為者」に変質してしまうからだ。
もちろん「経済」だけではない。科学、技術、文学・・・等々、これらの固有領域を侵犯して、「政治」は彼らを使役する。
「政治」は本質的に全領域の支配者であり、その意味では、正しく「マスターサイエンス(諸学の王)」だ。
宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。
こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。
丸山真男『政治の世界 他十篇』岩波文庫、2014年、91頁。
「政治」は「経済」に仕えているように見えるだけに過ぎない。
ところが、その「政治」を忘却してしまったのが、この「戦後」日本なのだ。
この「政治」の忘却こそが高度経済成長、経済大国の要因であろう。
そして、この「経済」の全面的勝利という虚偽を徹底した都市こそ「東京」なのだ。
「生活」と「日常」を追求した「経済」都市「東京」。
押井守の都市観は、次の台詞に端的に表れている。
「生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとするなら社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし都市は巨大な外部記憶装置ってわけだ」
バトー (映画「イノセンス」より)
東京は、まさに、この「経済」と「戦後」を記憶したシステムそのものと言える。
故に、「東京」論とは「戦後」日本論とイコールであり、そこが戦場となる。
「政治」と「法」の狭間で
では、その「経済」都市=「戦後」都市において、いかに「戦後」を終焉させるのか?
それは、即ち「戒厳」である。
例え成文法として「戒厳令」が無くとも、広義の「戒厳」(いわゆる「国家緊急権」)は存在する。
たとえ成文化されずとも、緊急の事態に際して、戒厳を望むものは、自らを審く覚悟と引き換えにそれを布告することができるという考え方が存在する。
不文法としての非常法、あるいは軍法と呼ばれるものがそれである。
これは一種の自然法として適法であり、その必要性の判断の適否が発動の正当性を決定するという考え方に立脚している。
押井守『TOKYO WAR』エンターブレイン、2006年、184-185頁
「政治」には、この権能が「自然」に備わっている。それは実定法以前の自然法としての権能である※1。
なぜなら、「憲法」は、自然・所与のものではなく、人為的なものでしかありえない。憲法以前の状態というのが、必ず存在するのであり、その憲法を「作った」者がいる。
その憲法を作った「場」は政治的な場(非法・無法)であり、政治的決断の賜物である。政治権力(=憲法制定権力)の存在は欠かすことが出来ない。
実定法としての最高法規たる憲法は、「政治」が本質的に法以前の「状態」「現象」であり、かつ最終的に憲法そのものを誕生させる「憲法制定権力」と同義である以上、これを覆すことはできない。
法秩序の枠組からはみ出る「政治」的な力としての側面だけとれば、それは「非法」の世界の「事実」の問題でしかないように見える。したがって、超法規的な狭義の国家緊急権について、これを実定法学の範囲外の問題として、考慮の外におく者が少なくないのも、決して不思議ではない。
小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年、22頁。
ここに古くから議論されてきた問題、「合法性」と「正統性」、更には“「法」と「政治」の対立”という問題が頭を擡げる。
ある意味、政治主義者たる押井守は、この「戒厳」で、法に対しての政治の優位を表現しているともいえる。
通常法、立憲秩序を例外状態として乗り越えてしまうこと。
少なくとも、極限的な緊急権の行使をも、「法的」に正当化するという場合、「法」の意味が、立憲法治主義におけるそれとは全く異質のもの-つまり自然法のそれ―になっているということは、はっきり認識しておく必要がある。
小林、同上書、53-54頁。
ここでの「法」(自然法)は、限りなく、「政治」と紙一重ではないだろうか。
防衛出動であろうと、治安出動であろうと、P2の警備出動という強弁であろうと、自衛隊の国内への軍事的出動は、「戒厳」の発動を意味する。
最も「政治」的な政治的存在者たる「軍隊」がその力を万能に振るうことができる状態。
何のために?
それは政治的存在者が、その理性(国家理性)において「支配」を貫徹するための「決断」をし、その障害たる「敵」を撃滅するために。「敵を殺せ」と。
即ち、「内敵」を「撃滅」する意志を露わにする狼煙なのだ。
軍隊の出動とは、その意味で全く最後の手段、「ウルティマ・ラティオ(最後の理性)」である
(そして、「ウルティマ・ラティオ」は後藤と荒川の電話のシーンで、擦過してゆく、あの「黄色い飛行船」に刻まれている)。
そして、そのような明確な「敵」の認知とは「敵」を認知することを避け続けてきた「戦後」にとっては、自らの存在理由の否定に他ならない。
東京に、実弾を装填した戦車が現れたとき、街頭に完全武装の自衛隊員が立った時、「戦後」は終わったのだ。
戦後論の終焉と「何か」の始まり
押井は、P2によって、「戦後」を終わらせた。
と、同時に押井にもパトレイバーの続編を製作することを不可能にした。
なぜなら、自衛隊の出動(戒厳の発動)を描いた以上、「戦後」日本は終わってしまい、その翌日から、まったく違った「日本」が始まるからだ。
荒川「この国は、もう一度、戦後からやり直すことになるのさ」
P2本編より
米軍介入のタイムリミットを知らせ、不敵な笑みを浮かべる荒川のこのセリフは、どちらにしろ実現されてしまう。
真相がテロ、偽装クーデターであったにしろ、自衛隊が「敵」に対して軍事的に出動した事実は消えない。それは歴史の決して戻れない地点。
「戦後」の「反政治」に対しての究極の否定であり、それは、「戦争」という「状況」が起こったことと同義だ。
半世紀以上に渡った「戦後」は、もう終わったのだ。
「政治」はその翌日から日本人の眼前に隠れることなく立っていることだろう。
故に、パトレイバーの世界観が「戦後」を前提にする以上は、この続編は作られない。
無理やりにでも東京を戦場にしたかった。架空でもウソでもなんでもいいから。あれはそういう映画。逆に言うとあれしかできなかったし、あれが限界だと思っている。
押井守・岡部いさく『戦争のリアル』エンターブレイン、2008年、49頁。
この「戦後」の終焉というP2の完成は、押井のライフワークのひとつの決着をもたらし、P2以前以後で、大きく作品性を転換させることになる。
【続】
追伸。・・・え?パトレイバー実写版?
それは知らない(笑)
【続きはこちら】
→「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学的考察 連載③ ~「戦後」のその後~「日本」の退場あるいは解体としての「攻殻機動隊」「雷轟」
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【脚注】
※1.いわゆる「戒厳(令)」や「国家緊急権」と呼ばれる強権には、二つの潮流がある。一方は、大陸法系(独仏)の「合囲法」、他方は英米法系の「非常法(軍法)」である。前者は、実定法・成文法としての戒厳であるのに対し、後者は慣習法・不文法としての性格が強い。詳しくは、小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年。または、大江市志乃夫『戒厳令』岩波書店、1978年。