機動警察パトレイバー2 the Movie 連載① ~押井守と「戦後」、前史としての『犬狼伝説』~ 

【監督:押井守,1993年,113分】

あらすじ

1999年、東南アジア某国に派遣された陸上自衛隊PKO派遣部隊は、反政府軍の攻撃に対して、一発の応戦も許されずに全滅。生存者1名。

それから3年後、何者かの謀略による横浜ベイブリッジ爆撃事件勃発。

それを機に続発する不穏な事件は自衛隊と警察の対立に発展。遂には、首都への自衛隊の治安出動にまで発展した!

降りしきる雪、折しも2月26日。

米軍の介入の時が迫る中、戦端の開かれた東京で、事態を収束するため、特車二課第2小隊、最後の出撃が始まる!

「パトレイバーではないパトレイバー完結編」あるいは「押井守【戦後論】完結編」

庇を貸して母屋を取られる。

パトレイバーファンはこの作品に度肝を抜かれたのではないか?(かく言う私もその一人)。

「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」を観たうる星やつらファン同様に。

押井守の十八番「庇を貸して母屋を取られる」戦略だ。

彼は「便乗商法」が本当に上手い。その世界観を使って自己の思想を具現化してしまう。

パトレイバーの世界観を使って、自身の政治思想を見事に描いてしまった。これはそんな作品。

押井守という人のある部分は、この作品にすべて体現されている。

ある部分とは彼の「戦後」論であり、「政治」論だ。

「機動警察パトレイバー2 the Movie以前」あるいは「戦後日本への冷笑」

機動警察パトレイバー2 the Movie(以下P2)以前の押井作品は大部分で作品舞台が「戦後」として描かれている。

うる星やつらしかり、機動警察パトレイバーしかり。

ここで言う「戦後」とはきわめて特殊日本的な歴史空間だ。敗戦から半世紀以上、変わることの無い日常の継続という平均的日本人の運命共同体。

もちろん、そこにも数々の事件や変化はあるのだが、それは一過性のもので、刹那的なものに過ぎない。

いずれも「戦後」をひっくり返すものではなかった。「永遠の昨日」と評した中世ヨーロッパのように。

このような「戦後」は、フランシス・フクヤマが提唱した「歴史の終わり」に酷似している。

フクヤマは、「自由」を目的とする歴史の進歩は、西欧のリベラルデモクラシーで理念的には達成されたのであり、個々の事件や政変はこれからも起こるとしても、もはや、根本的変革としての「歴史」は、終焉したのだと論じる。

日本の「戦後」もフクヤマの言う歴史の終わりの世界、「歴史以後」の世界と酷似している。即ち、そこでは「歴史」は止まっているのだ。ないしは、失ったのだ。

「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」で、主人公たちが繰り返す「学園祭前日」の永久運動こそ、「戦後」の暗示ではないのか。

この停止した退屈な「戦後」空間に、突如起こるハプニング(それはミステリアスな事件や怪談などに代表される)を描くという純粋に「遊び」が展開される作品が、押井守脚本で「うる星やつら」「パトレイバー」シリーズに見いだされるのは偶然ではない。

これは一種の歴史を失った戦後日本人への皮肉、冷笑だ。

しかし、この特殊な時代空間である「戦後」への厳粛な問いかけは別の作品でなされる。

政治主義者 押井守

「戦後」を冷笑した押井守は、一体、どの視点からそれを冷笑するのか?

それは「政治」である。彼ほどの政治主義者は、なかなかお目にかかれない。

「政治」とは何か?換言すれば「政治」の純粋な固有領域は?

その本性、最もその本質的なところは、「支配」である。

政治の究極目的とは、いかなるイデオロギーであろうと、どんな形態や、理論的背景を持とうと、それが「政治」現象であれば、何らかの形での、他への「支配」は必然になる。

「政治」という概念には、どこまでも悪魔的要素が付き纏うが、この「支配」との関係が原因である。

「政治」の本質が「支配」であるならば、その過程(手段)とは「闘争」であり、あらゆる政治的存在者(国家であれ、民族であれ、派閥であれ)は、あらゆる手段・資源を用いて、「支配」を達成しようとする。

そして、その手段において最も極端で、絶対的に遂行される闘争とは軍事力・物理的強制装置による「戦争」である。

クラウゼヴィッツが言うように「戦争とは他の手段をもってする政治の延長」なのだ。

軍隊がその政治の究極の担い手たりえるのは、「死」を与えうる力を持つからに他ならない。故に「政治」と「軍事力」とは表裏の関係になる。

「一瞬の死が百年の生を脅かし得る秘密を知って以来、数千年に渡って、嘗て一度たりとも、政治がその掌のなかから死を手離したことはない」

埴谷雄高『幻視の中の政治』未来社

そして人々は、本来の最重要課題である「生活」の頭上には黒い「政治」という存在がある事を、否応なく意識させられる。

「政治の幅はつねに生活の幅より狭い、本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力を持っているからに他ならない。」

埴谷雄高『幻視の中の政治』未来社

ところが、この「政治」をほとんど意識せずに、「生活」を没思考的に、あたかも自然のように、その頭上に戴いた国こそ、この「戦後」日本であった。

そこは「政治」が消えたユートピアの如き歴史空間だった。

しかしそれは、ただ単に、日本人が、見ないふりをして、忘却しようとしただけだ。

依然、「政治」は厳然と存在しているのだから。

いくら忘れようと、見ようとせずとも、日本の外には国際「政治」の荒野は広がっているのだ。

つまり、「戦後」とは「政治」と最も対極にあるような対立する存在である。

そして、この「政治」の冷酷な現実を知っている押井守にとって「戦後」は清算されるべき対象であった。

犬たちの戦い~前史としての『犬狼伝説』

「戦後」と「政治」の対立の臨界点を描いたのが押井守原作/藤原カムイ画の『犬狼伝説』(ケルベロス・サーガ)である。

この作品は、第二次大戦の日本が過激な左翼闘争・反政府闘争に対して、準軍隊(警察軍)たる「首都圏治安警察機構(首都警)」を発足させ、重火器を含んだ武力鎮圧に向かった、もう一つの「戦後」を描いた偽史である。

首都警の実戦部隊「特機隊」(通称:ケルベロス)は、過激な武力鎮圧によって、世論・社会からの孤立を深めて行く・・・。

同作の中で、「立ち塞がる者あらば、これを撃て」を掲げる特機隊と対立する自治体警察(警視庁)の関係は、ある意味「政治」と「戦後」の対立の暗喩である。

後者の警察力(司法警察)とは、日常の延長(生活)の中の秩序を守る最低限の実力行使を許された護民官である。その警察作用は、社会構成員への懲罰と矯正に過ぎない。

対して、特機隊は、政治警察として、政治体制という政治単位を守る政治的存在者そのものであり、その矛先が向けられるのは、もはや同一の政治単位の構成者というよりは、別個の政治存在者(テロリスト、反政府組織)であり、その強制作用は、軍のそれと変わらない「平時の軍隊」である。

特機隊の行動は内敵の撃滅であり、「平時の戦争」「内戦」なのだ。

かくして、ケルベロスの体現する「政治」は、「戦後」に突如、「戦争」という空間をもたらす不吉なものであり、自治体警察や公安委員会、政府、ひいては世論全体(=「戦後」)から孤立し、叩かれ、ますます突出する。

そして、その、緊張の臨界点が訪れる。

作品は、最後、特機隊の武装解除命令、首都警の解体が決定されるに及んで、特機隊はこの命令に服さず、叛乱・決起。警視庁機動隊を壊滅せしめ、桜田門の警視庁本庁舎を占拠する。

そして、治安出動した陸上自衛隊に特機隊は鎮圧されるという「ケルベロス騒乱」で幕を閉じる。

主権と分権のはざまに

「治安出動・・・、占領軍の押し付けた自治警もこれで終わりか。親父(ベーレン)の目標はとりあえず達成できたわけだ」

『犬狼伝説 完結篇』166頁

上は、包囲された特機隊の古参教官の台詞だが、親父(=特機隊長 巽志郎)の目的は、自衛隊を治安出動させ、「戦後」に「戦争(内乱)」を引き起こし、「政治」の現実によって、「戦後」を葬る。

分権化された自治体警察制度が、ここでは、「戦後」の一つの象徴として語られる。「政治」が「支配」を貫徹しようとするなら、それは、自らに他が究極的に結集・同一化することを意味する。その支配権を分割し、拮抗・均衡、あるいは、多元化することは「支配」の本質からは、理論的には合致しない。

現実の議会制や権力分立といった制度は、理論と現実の妥協に過ぎない。

主権国家が純粋な意味で主権を確立する、1つの政治存在者であるなら、理論的には、絶対主義しか考えられない。

故に、分権化された物理的強制装置などはナンセンスなのだ。

巽は決起によって、「内乱」という時間を演じることで、「戦後」を清算しようとした。

だが、それは完全ではない。

【続きはこちら】

機動警察パトレイバー2 the Movie 連載② ~「戦後」を終わらせる為の、たったひとつの冴えたやりかた~

【参考文献】

埴谷雄高『幻視の中の政治』未来社、1971年

藤原カムイ/押井守『犬狼伝説』日本出版社、1993年

藤原カムイ/押井守『犬狼伝説 完結篇』角川書店、2000年