「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学 連載③ ~「戦後」のその後~「日本」の退場あるいは解体としての「攻殻機動隊」「雷轟」

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「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学 連載① ~押井守と「戦後」、前史としての『犬狼伝説』~

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「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学 連載② ~「戦後」を終わらせる為の、たったひとつの冴えたやりかた~

近年は東京に対する興味を失ってしまい、自らの住居も東京から熱海に移してしまったほどである。


押井守『雷轟』エンターブレイン、2006年、202頁。

「戦後」論として、それをパトレイバー2で終焉させた押井守にとって、その「戦後」の象徴たる「東京」への興味を失うのは当然であろう。

このライフワークたる課題に決着をつけた彼は、より「普遍」的なテーマに軸足を移す。

その第一は、「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」(1995年)に見ることができる。

「日本の退場」~攻殻機動隊

本作においては、「日本」「戦後」というファクターは執拗に消されている。

作中、「日本」を暗示させるのは、登場人物名(草薙、荒巻)くらいで、それ以外は、東洋・アジアを匂わせるだけだ。

続編の「イノセンス」においても、電子画面上を踊るのは、中国語、英語、ハングル、記号の洪水であり、日本語は顔を見せない。

無論、あの舞台は「日本」なのだが、我々の知っている「日本」ではない。

つまり、あの「日本」は、20世紀後半の「戦後」という特殊空間・特殊条件を排した「アジア」という抽象空間、オリエント的な近未来世界に過ぎない。

我々の知っている「日本」は退場しているのだ。

対して、同じ攻殻機動隊でも、神山健治のテレビシリーズによる「攻殻機動隊 STANDALONE COMPLEX」は、正統に「戦後日本」の延長線上の「西暦2030年の日本」を描いており、結果、この押井版と神山版の2つの攻殻機動隊は、全く別の国、別の世界観に拠っている。押井にとって、「戦後日本」という舞台は、もう必要ないのだ。

では、攻殻機動隊という舞台は、何を演じるのか?

それは、「戦後」という政治哲学的問題ではなく、機械と人間の境界、魂の有無など、形而上学的問題の舞台装置だ。

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そして、この舞台装置は、「政治」の消滅すら俎上に載せている。

作中、「人形使い」は、自らを情報の海から生まれた存在だとし、実体の人間ではないという。そして「現代科学は生命を定義できない」と嘯く。また、「イノセンス」で、草薙素子は、実体を捨て、ネットワークの中で、自我を持った情報体として存在している。

これは、「死」を握るからこそ存在してきた「政治」への強力なアンチテーゼとなる。

電子・電脳によって、肉体的「死」が超越されてしまうと、「死」という「政治」が持つ最後の武器を、失う。そうでなくとも、その力を大幅に失うことになる。

ここに形而上的なるもの(全地球的な情報・記号としての人格)と形而下的なるもの(領域国家)との齟齬が生まれる。

この状況が進行・深化すればするほど、現在のような、領域国家・国民国家は有名無実化していくことになる。

なぜなら、領域国家=国民国家の「国民」たる条件(他国との言語・文化の差別化、往来の制限)がそぎ落とされ、消滅していくからだ。

この属性をはぎ取られた個人の遊弋する電子の海(記号の海)で「国家」ないしは「政治」の余地は?

なるほど、依然、その空間を支える電子計算機群を維持・保守する世界規模での国家として余地はある。

しかし、それは、従来の「国家」ではないし、「政治」ではないだろう。

カール・シュミットは、グローバルな世界国家など論理的に存在しないという。

すなわち友・敵区別がたんなる偶発性においてすら消滅するばあいには、そこに存在するのはただ、世辞的に無色の世界観・文化、経済、道徳、法、芸術。娯楽等々にすぎず、政治も国家もそこには存在しないのである


カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社。2006年、24頁。

確かに、戦争(闘争)は消滅するかもしれないが、管理保守は新たな形の「支配」ではないのか?

しかし、電子の海における自我が、自我として成立するのは何どきまでか?

いずれ、肉体なき自我は、電子の海に溶けていくかもしれない。それは、真の意味での「政治」の消滅の可能性を孕んでいるのかもしれない。

「日本の解体」~『雷轟』、パックス・ヤポニカ

攻殻機動隊は「日本」を退場させるうえでの作品であったが、逆に、歴史上の「日本」(戦後日本)を解体し、全く違う世界線で「日本」を論じてみる試みが、小説『雷轟』(2005年)である。

「戦後」という特殊条件(歴史的経緯)がそもそもなかった「日本」。

米国が南北戦争で分断したまま休戦し、覇権国として台頭してこなかった20世紀。日英同盟により、日本がドイツに対して勝利した第二次世界大戦後の世界。

敗戦も占領も平和憲法もない日本は、その代わりに「覇権」を手にする。日本は戦勝国として「太平洋の覇権(パックスヤポニカ)」を手に入れる。そして、日本は、朝鮮戦争を戦い、ベトナムの泥沼に陥り、湾岸戦争を戦う。史実でアメリカが担った(背負わされた)、地位と責任と艱難辛苦を味わうことになるのだ。

現実の日本が戦争に値せず、まして勝利に値する国でもなく、むしろ戦争という行為から自身を疎外して生きようとするなら、虚構のなかで不相応な勝者の試練を与えてみよう-そう思ったことが、企画の発端でした


『雷轟』、171頁(あとがき)

パトレイバー2の中で、荒川が言う。

この街の平和が偽物だとするなら、奴が作り出した戦争もまた所詮は偽物に過ぎない。・・・この街はね、リアルな戦争には狭すぎるんだよ。

「戦後」に「政治」(戦争)を投げ入れてみても、この国には不相応な「現実(リアル)」だった。日本人に「政治」を担う資質が無い。ならば、「政治」(戦争)の跋扈する国際政治の表舞台に無理やり引き摺り出す。それも「主役」として。

故にその舞台は、「戦後」の象徴である「東京」ではなく、「外」の世界たるベトナム、日本が北爆するベトナム戦争である。

woods and plants

パトレイバー2までの「戦後日本」論は、より普遍的な「政治」論・「日本」論へと転換したのだ。

日本が普遍的な政治存在者たりえない理由を、押井は、この企画の当初、「武装市民」の問題として語っている。

曰く、西洋においては、都市は常に「戦争」の主体であった。市民は常に戦ってきた(アトランタ、レニングラード、ベルリン・・・)。

対して、

日本の都市住民が「市民」であったことなど未だかつてなかったし、今もなく、そして今後もない。したがって、彼らが歴史を担ったことなど一度もないし、今後もないに違いない。


『雷轟』180頁

古代ギリシアにおいて、政治的権利と軍役は不可分であり、「市民」とは同時に兵士であったことは、一つの象徴である。

国家(政治的共同体)が、「政治」的であることを冠する以上、国家は軍事と不可分にならざるを得ない。故に、その構成員は兵士たる宿命を持つ。

歴史(政治史)の過程は、その国家に様々な権能を継ぎ接ぎしていく過程(福祉国家、国家の便利屋化)とも言える。

しかしながら、20世紀の二つの世界大戦は、「戦争」「支配」の極点として、総力戦という形で、その「政治」の本性を余すことなく暴露した。

誤解を恐れずに言えば、国家とは軍隊であり、国家の常態とは戦争である。

ところが、日本においては、この伝統が欠落している為、「政治」の絶対性がついぞ認識されなかった。“「政治」を認識できない「政治的共同体」”という矛盾。

歴史的に「武装した市民」の伝統を経験しなかったこの国の民衆にとって、反軍感情は親しむべき伝統であった。為政者がその民衆と偽善に満ちた契約を交わし、しかも軍に信をおくことなく、その政治の最終手段たる戦争を指導するとき、その国はいかなる意味においても勝利に値しない


『雷轟』57-58頁

反軍感情は、反「政治」とほぼ同義である。

「政治」から逃れられない「国家」の構成員たる国民が、その「政治」を否定するとどうなるのか?

パトレイバー2では、「政治」を忘れた「戦後」日本人であったものが、パックスヤポニカでは、「政治」を正しく認識できないにも拘わらず、「覇権国」になってしまった日本人として置き換えられている。

「政治」の絶対性を認識できないという事態は、日本における「政治」に負の部分(支配、戦争、軍事)を欠落させてしまう。

日本人が「政治」の本性を知らないのであれば、国際政治の深刻な対立や国内政治の葛藤といった、優れて「政治」的な現象も、リアリティを持つことは出来ずに、無意識にただの傍観者になってしまう。時々の状況や他国の思惑に流されるだけだ。

この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにして、観ることも触れることもできないあらゆる現実を知る・・・。何一つしない神様だ。


「パトレイバー2」より(荒川)

日本人にとって「政治」的現実は画面の向こう側のものであり、直接に見ることも触れることもできない。否、それを欲しない。

ここでの「神」とは、トマス・ホッブズが言うような、被治者・国内に対して神の如く何事もなし得るような権能(主権)を有した全能の政治的存在者(主権者)である。

本来、何事もなしえる能動的な政治的存在者が、こと日本においては、日本においては「現実(リアル)」に対して、何もなし得ない「神」として現出している。

日本人にとって「政治」がリアルであったことなど一度もない。

決断と責任の狭間で

「支配」を希求する「政治」が現実に表出(政治現象)するには、二通りの形態がある。

第一に、潜在的な「政治」への欲動を意識的・自覚的に表出する形態。これは、明確に政治的支配を実行しようとしている「意志」によってなされるので、その当人が政治的存在者として「決断」と「責任」を負う主体的な「政治」的な行為である。

このような人間は、自らが選択肢の中から選び決断する行為故に、その「自由」を自覚し、己の主体性を自覚する。この自由な主体(個人)としての自覚が、「政治的個人」の誕生に繋がる。

一方、第二のものは、潜在的な「支配」への欲動を無意識に、無自覚に表出する形態であり、当人とっては、そこから生じた「政治」現象が「政治」現象だとは自覚されない。故に、政治的存在者としての自覚が希薄あるいは最悪皆無であり、第一の形態で見られた決断も責任も生じ得ない。この全く「政治」に関しての無責任さ故に、「政治的個人」としての自覚・尊厳になり得ない。

これはモデルなので、前者と後者は混在しているが、その濃淡は、国民より政治家が、平時より戦時が、党派政治家より独裁者が、より濃く第一の形態に近い。

さて、上記の議論から何を述べたいかというと、現実の日本人は、この第二の形態に安住してきた稀有な存在である、と。

それは最大の国難においてもまさにそうだった。

ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に対する明白な意識を持っているに違いない。しかるに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしたという意識がこれまでのところ、どこにも見当たらないのである。


丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、24頁。

戦争において、「政治」は最も純粋な形で顕現される。

総力戦・絶対戦争であった第二次大戦はその典型だろう。そこでは、「支配」(勝利)のためにあらゆる動員を決断しうる「政治的自由」としての戦時独裁と、独裁者が登場するが、日本においては、ついぞそれは現れなかった。

ここでの要点は、表面的(現象的)に日本が軍国主義・全体主義であった事ではなく、特殊時代的な「戦後」ではない1945年以前においてもこの在り様であった事だ。

「政治」と「正義」

こと「政治」に関して自覚的営為を避け続ける「日本」に「正義」がないのは当然の帰結になる。

主張があるからこそ実力行使が必然化され、実力行使をすることで主張はより強化される

『雷轟』124頁

「戦争」が「政治」の具現化されたものであるならば、「政治」においても「正義」は不可欠なものになる。「決断」するということは、政治的個人が「正しい」ことを選択した事だ。

その「正しい」の基準・動機を究極的に基礎づけるものが「正義」にあたる。

「正義」はその概念上の必然から、他の「正義」を認められない。それは「不正義」だから。

「正義」とは、本質上、「多」ではなく「一」。

しかし、政治的存在者は無数に存在する為、畢竟「正義」も無数になる。

故に、政治上の「正義」は他の「正義(不正義)」を抹消しようとする絶対戦争の様相を帯びてくる。

戦争とはそもそも二つの異なった正義の衝突を出発点とするものである以上、客観的、普遍的な見地からいずれの正義が正当であるかを証明することは、ア・ポリオリには不可能だ


『雷轟』124頁

「政治」決断の根拠源泉である「正義」こそ、国益、「国家理性」のそのものと言える。

ところが日本の場合、「正義」が存在しない故に、国家理性なき国家という、ジレンマに陥いり続けることになる。

「政治の逆襲」としての押井守論

以上、見てきたように、押井は、「政治」なるものが、「日本」において正しく認識されてきたか、存在を許されてきたか?ということを、執拗に追及した作家だ。

その頂点にパトレイバー2という作品は存在している。

序説としての犬狼伝説があり、本論たるパトレイバー2、そしてあとがきとも言える雷轟。

ここに通底している、押井の企図は「政治の逆襲」である。

「政治」から逆襲され続ける「日本」を描いて、押井守は「政治」概念を我々に自覚させようとしている。

「政治」を認知できない病は、日本特有のものではない。

翻って、それは歴史的にこの時代特有のものとも言える。

政治的なるものと一般的なるものとの乖離は、繰り返し、現代の思想家たちを不毛の脇道に導いてしまっている。これによって私が指摘したいのは、彼らが、政治問題を本質的に非政治的枠組みであるもののうちに試みているということである。そしてその結果は行き止まりの繰り返しであった。


シェルドン・ウォーリン『西欧政治思想史』福村出版、1994年、497-498頁。

ただ、日本がそのもっとも重篤な、象徴的な存在であることは言うまでもない。

【完】