『2人のローマ教皇』実話に基づく映画~プラトンとダモクレスの剣~

映画「2人のローマ教皇」

【監督:フェルナンド・メイレス、2019年、英米伊亜合作、125分】

あらすじ

2005年。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の崩御に伴うコンクラーベ(教皇選出選挙)で、ドイツ出身で保守派のヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(アンソニー・ホプキンス)は、改革派のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(ジョナサン・プライス)らなどを抑え、念願の第265代ローマ教皇ベネディクト16世に即位する。

2012年。

度重なるスキャンダルに見舞われていたベネディクト16世は、ベルゴリオ枢機卿を遠くアルゼンチンからローマに呼び寄せる。

立場も思想も違う彼ら二人。

しかし、共に神に仕える二人の間で交わされる言葉とは?

Flag of the Vatican City

何人も苦悩する。カソリックの頂点でも・・・。

本作は、実在の2人の新旧ローマ教皇を描いた作品です。

ダイアナ妃事故死の最中の英女王エリザベス二世の葛藤を描いた映画「クィーン」(2006年)もそうでしたが、つい数年前の出来事を、存命中の人物を出して制作してしまう海外の映画にはいつも驚かされます。

日本だとちょっと考えられない。

あなたはペトロ(岩)である。

この岩の上に私の教会をたてよう。

死の力もこれに勝つことはできない。

わたしは天の国の鍵を授ける。

あなたが地上で縛るものは天でも縛られ、あなたが地上で解くものは天でも解かれるだろう。

マタイ伝

上の引用は、ローマ教皇(法王)の権威の根拠とされる聖書の一説です。

かくして、ローマ教皇は「キリストの代理者」(神の代官)として、12億のカトリック信徒の頂点に君臨します。

しかし、そんな人臣を極めた教皇も、やはり「人」だということが描かれる。

キリスト教の教父とは誰か?

2005年のヨハネ・パウロ二世の逝去から物語は始まります。

コンクラーベの最中の枢機卿らの昼食会の折、友人の枢機卿がホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿にこう言います。

「なりたがらない者こそ、指導者に相応しい。プラトンだ。」

プラトンを引用して教皇になるように促すシーンです。

本作では、ラッツィンガーは教皇座を狙う野心家として描かれ、ベルゴリオは質素清貧でかつ改革派として登場します。

ここで、プラトンが登場するには二重の意味があります。

第一に、プラトンは、キリスト教の教父ではありませんが(イエス誕生の400年前の人物ですが)、極めて重要な人物であること。

異教の哲学者で最高と見なされます。

まあ、それは当然で、教父アウグスティヌスはプラトン哲学の強い影響を受けていますし、ニーチェに言わせれば「キリスト教はプラトン主義の俗流化」です。

ちなみに、スコラ哲学の大成者である「天使博士」トマス・アキナスは、アリストテレス哲学によって、自身の哲学を形成しています。

作中には、博学なラッツィンガーが、ラテン語を話せない枢機卿たちを嘆くシーンもあり、ギリシア・ローマの遺産が、キリスト教にもたらしているものの大きさを教えてくれます。

こうなると、キリスト教の教父というのは、実はギリシアの哲学者たちともいえるのです。

教皇と哲人王

第二に(こちらが本題です)、哲人王(哲人統治)の思想が、映画の主題のひとつなのではないか、ということ。

プラトンは哲学者が支配者になるべきだと、主著『国家』でソクラテスに語らせます。

ここでの「哲学者」とは一般的な意味ではなく、定義がなされますが、その中で、「哲学者は強制的に、支配者にさせられる。」つまり嫌々させられる、のが重要だとします。

哲学(真の実在を見極める営為)を至上とする哲学者には、地上の政治支配は魅力ではありません。

彼にとっては、哲学することこそ至上価値です。

世俗のことを行う気にならず、彼らの魂はいつも上方で過ごすことを切望する


プラトン『国家』(下)、岩波書店、1999年、102頁。

しかし、彼こそが、真理を知るからこそ、あえて支配者にならなければならない。

本作で言えば、「哲学」を「信仰」に言い換えれば良いのです。

支配者の地位につく者は、けっして支配権力に恋いこがれるような者ではあってはなないのだ


プラトン『国家』(下)、111頁。

ローマ教皇という、「王」を通して、「支配者なぞなるものではない」を描いているように見受けられます。

ダモクレスの剣

本作では、現教皇の孤独が描かれています。

念願の教皇になったラッツィンガーは、数々のスキャンダル(聖職者による性的虐待や汚職)に煩わされます。

また、自身も、「ナチスの教皇」などという最大の侮辱を浴びせられています(ヒトラーユーゲントに在籍していた過去から)。

プラトンが、哲学者は権力者になることを忌避すると言いましたが、その理由の一つに、権力などというものには大きな孤独と苦悩がつきものであることも喝破していたからでしょう。

「ダモクレスの剣」というのをご存じでしょうか?

古代ギリシア、シラクサの僭主ディオニュシオス二世を羨む家臣のダモクレスのお話。

ダモクレスの心の内を見抜いたディオニュシオスは、彼を玉座に座らせてやる。

ダモクレスが喜んでいると、「頭上を見てみろ」とディオニュシオスが言う。

彼が見上げると、そこには糸一本で吊るされた剣の切っ先が煌めいていた・・・。

これは権力者というのが、いかに危うい立場であるのかを伝える故事です。

教皇という権力の重圧からか、ベネディクト16世は「神の声が聞こえなくなった」と嘆きます。

なぜ「沈黙」するのか?

一方、ベルゴリオも苦悩しています。

彼は、アルゼンチンが軍事政権の時代に、イエズス会のアルゼンチン管区長であったため、当時の政権との関係によって微妙な立場にありました。

ベルゴリオは、イエズス会を守るため、独裁政権ともパイプを持ちましたが、それが「妥協」であるとの批判も浴びせられ苦悩します。

実際、彼と、袂をわかった聖職者は、軍事政権に逮捕され拷問を受けます。

彼は自分の判断とその時に、神が「沈黙」していたことに苦悩します。

「拷問の時、神はどこにいたのか?晩餐会にいたのか?それとも共に拷問を受けていたのか・・・?」


本編より(ベルゴリオ枢機卿)

あらゆる地上の不正と悲惨に神が「沈黙」することへの神学的苦悩が顔を出します。

それこそ、十字架上のイエス(「神よ、なぜ私を見捨てられたのですか?」)から始まって、アウシュビッツに至るまで・・・。

Jesus

「沈黙」はさておき、ここで一つ言えることは、独裁・恐怖政治と哲学者・宗教者の関係という大きなテーマです。

1930年代のドイツでは、知識人はナチスに背を向けてしまいました。

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。


マルティン・ニーメラー
※丸山真男の訳(『増補本 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、475-476頁。)

抵抗か、妥協か、服従か?

この選択は簡単に決めることは出来ないし、どう評価すべきなのかも一筋縄ではいかない。

ベルゴリオの評価もアルゼンチン本国では二つに分かれています。

人は「神」に頼らざるを得ないのか?

この2人を通して描かれているのは、『あまりに人間は弱く、「何か」にすがらなければ生きていけない』というテーマです。

本作では、2人はキリスト教的「神」にそれを求め生きてきて、また、生きていくのですが、結局、人は何らかの超越的な存在としての「神」を想定しなければ、あまりに弱いのではないか?と思わずにはいられませんでした。

最後に一つ言えるのは、アンソニーホプキンス主演にハズレなし!