丸山真男と東京オリンピック~今だからこそ論文「超国家主義の論理と心理」を読んでみる【後編】(「令和」天皇制国家の支配原理)

Nijyu-bashi

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⇒丸山真男と東京オリンピック~今だからこそ論文「超国家主義の論理と心理」を読んでみる【前編】(無責任の体系と多頭一身の怪物)

抑圧の移譲

「個人」が自律的・主体的に意識されないままで、天皇に近い層から最も遠い層に至るまで、全臣民が配置される形を採る「国体」、即ち「天皇との距離」というこのシステムは、上からの圧迫感・重圧を常に感じて、それを己よりも「下」へと移譲するという構造に陥ります。

下へ下へと「抑圧」が移譲されていくことになるのです。

丸山は軍隊生活の過酷さ・理不尽さを想起せよと言いますが、現代人にとってみれば、体育会系の部活動や「ブラック企業」における、あの(・・)上下関係をイメージした方が理解し易いと思います。

強きに(へつら)い、弱きを(くじ)く。

天皇との距離ということで言えば、帝国陸海軍は、華族や官僚と共に天皇に「近い」ことになります。そして、徴兵されて、その帝国軍人に「異例」の昇進をするのが一般国民です。

これが日本の「外」にまで拡大され、最底辺の「卑しい」庶民にとっては、さらに抑圧を移譲する対象が開かれます。

植民地や占領国です。ここに悲劇が生じます。

国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なることによつて限りなき優越的地位に立つ。

丸山真男『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波書店、2015年、34頁。

現代は、もちろん戦時下ではありませんし帝国主義の時代ではありませんから、これがそのまま適用される訳ではありません。

ところが、その相似形は、やはり存在します。

特に、政治権力を「何がなんでも支持する」という行為には、意識的・無意識問わず、この権威と自己を同一化し、「卑しい国民」と一線を画すという、選民的な思考・衝動が見え隠れします。

本来の政治学における「保守主義」というのは、決して体制にべったり(・・・)な訳ではなく、時に政府への厳しい批判者ともなります。

それは、そもそも人間は不完全な存在であり、少なくとも、歴史という審判・フィルターを通してきた歴史的制度は、信頼に値すると考え、それを基盤にして、現実の諸々の問題を、ゆっくり(・・・)()部分的に改善していく政治思想です。

(対して、リベラルは、歴史より人間の計算能力を信頼して、計画的なスクラップ・アンド・ビルドに走りがちです)

故に時の政権を全面肯定する態度は、単なる反動主義です。

ともかく、「オリンピックを支持する」ことで、少しでも「上」に近付こうとする意図が見え隠れします。

ちなみに、この「抑圧の移譲」の現代におけるもっとも顕著な現象は、ネット上(とそこから街頭に溢れだした)での外国人差別、ヘイトクライムです。

「形式的」ですらない国家

国民一般、特に飲食業界への締め付けが厳しくなる一方で、五輪関係者への制限が、なし崩しに緩和されたり、例外化されたりと、その不公平への不満がメディアを騒がしていますが、これも今に始まった事ではないのです。

法は抽象的一般者として治者と被治者を()()制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段にすぎない。だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。軍隊内務令の繫雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどヨリ厳格となる。

『超国家主義の論理と心理 他八篇』26頁。

本来、近代国家は、道徳・倫理・宗教などの「価値」の問題からは中立な存在であることがひとつの特徴です。

国家(政治権力)は、

国家主権の基礎をば、かかる内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置いているのである。(中略)思想信仰道徳の問題は「私事」としてその主観的内面性を保証され、公権力は技術的性格を持った法体系の中に吸収されたのである。

『超国家主義の論理と心理 他八篇』14-15頁。

つまり、近代国家は、技術的・形式的な「合法性」の問題に終始することになります。

(なお、これがナチスの場合には大きな禍根を残すのですが、それはこちらの記事を

ところが、日本においては、合法性どころか、「天皇との距離」に全てが還元されてしまうので、法が万人を制限・規制する抽象的一般者として捉えられません。

あくまで、為政者の統治の技術・手段です。

コロナ禍における「上」の緩さ(ルーズさ)は言うに及ばず、この感覚は現代でも見られます。例えば、憲法改正議論ひとつとってみても、近代憲法というよりも、そこに一種の「道徳」を書き込もうとするような言説など。

ひとつ注意しておきたいのは、「天皇からの距離」が全ての源泉であるならば、その天皇個人は、日本で唯一の自由な「個人」なのか?という事ですが、これは丸山が明確に否定しています。

天皇自身も、過去の皇祖・皇宗という「過去」(伝統)に依存することなり、決して「自由」な「個人」ではないということになります。

天皇に対しても、圧迫・抑圧の移譲はかかることになる。

時には、今上天皇そのひとが誤っていて、皇祖・皇宗の「遺訓」から外れているならば、それを正す(諫める)ことも必要という論理も存在しています。

これを考える時、終戦の際のいわゆる「聖断」というものが、極めて脆い、危ない橋であったことがわかりますし、今回のオリンピックで、(宮中の相当な深謀遠慮によるであろう)宮内庁長官の「ご拝察」発言に対して、政府がほぼゼロ回答であったこと。また、平成の天皇退位(譲位)を巡って、宮中と政府(官邸)の鍔迫り合いなど、天皇の難しい立場が推し量れます。

むしろ、この「ご拝察」発言で注目すべきは、それに対して必死で火消しを図ろうとするオリンピック賛成派と、錦の御旗の如く扱おうとするオリンピック反対派(その中には反天皇制の論者も含まれる)の光景であり、戦後76年経った現在でも、天皇制の持つ力の大きさを証明しています。

その意味で、やはり日本は「天皇制国家」なのです。

スポーツと国体

国家が「国体」に於て真善美の内容的価値を占有するところには、学問も芸術もそうした価値的実体への依存よりほかに存立しえないことは当然である。

『超国家主義の論理と心理 他八篇』15頁。

念のためですが、「国体」といっても、「国民体育大会」のことではなく、近代日本の国家体制を現した「国体」についてです。

丸山が指摘するように、国家が全てを内包するということは、スポーツもその例外ではありません。

いわゆる「日の丸を背負う」に端的に見られるように、本質的には。スポーツ選手個人の才能や技能の問題という極めて属人的な、私的な事柄が、国家的な、公的領域の問題に転嫁しています。

勿論、オリンピックが国別に対抗し、国別にそのメダル数が競われる事実がある以上、全参加国は大なり小なり、オリンピックの「勝ち点」を政治的資源(国威の道具)として利用している訳ではあります。

しかしながら、日本の場合は、そこに「日の丸を背負う」というナショナリティな性格が色濃く表れ、例えば、純粋に、「私的」なものとしてプレイするには、相当な障壁があるように思われます。

我が国では私的なものが端的(・・)()私的なものとして承認されたことが未だ(かつ)てないのである。(中略)従って、私的なものは、即ち悪であるかもしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさ(・・・・・・)を絶えず伴っていた。

『超国家主義の論理と心理 他八篇』18頁。

また、今般のコロナ対策にまで話を進めれば、「あらゆるものが国家に内包される」ということは、科学も内包されているということです。

科学(コロナ禍では、医学・公衆衛生学)も、国家に内包されているのであり、科学的判断よりも国家の都合が優先されることは、当然起こりえます。

オリンピックとミランダ

ここで丸山から離れますが、政治学において、「ミランダ」という概念があります。

米国の政治学者C・E・メリアムが提唱した概念です。

これは、政治権力が被治者からの服従を得るために行う権威化の手段の内に、情動的・感傷的・非合理的・非理性的なもののことであり、例えば、儀式、栄典、国旗、国歌、軍事パレード、王政などが挙げられます。

(逆に、理性的・合理的なものは「クレデンダ」といわれ、合法性やイデオロギーなど)

政治権力の視点から見ると、メディアで配信され、国別に対抗するオリンピックは、国民の帰属意識、ナショナリズムを鼓舞する絶好の「ミランダ」、政治的手段な訳です。

「スポーツによって感動を届ける」とは、政治の視座に立てば、「スポーツによって服従を調達する」という全く違った側面を見せるのです。

そう考えると、日本政府、少なくとも現政権・与党にとっては、オリンピックの開催によって、国民からの服従(支持と言い換えても構いませんが)が得られると考えているから開催する訳です。

政治権力側がスポーツをミランダとして有効と「確信」(少なくとも疑っていない)しているからこそ、こうした現象は生起します。

2つの「勝利」の決定的差異

日本政府は、コロナ禍でのオリンピック開催を、一種の政治的成功に繋げようとしている訳ですが、これが難しいのは、日本帝国の場合、「万にひとつ」米英に勝った場合は、そのリターンは、物理的にも精神的にも「巨大」な訳です。俗な言い方をすれば宝くじの1等高額当選。

アジア・環太平洋地域は言うに及ばず、おまけに北米大陸が手に入りその富は莫大ですし、いわゆる西洋への劣等感は吹き飛び、日本人すべての戦時下の労苦は、全て贖われて、尚お釣りが来る勢いです。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』の世界ですね。

ところが、東京オリンピックは、まずインバウンド効果がない以上、物理的なリターンは殆ど望めない(むしろ先行投資でマイナス)。残るのは精神的なものですが、テレビで放映される無観客のスポーツが、どの程度まで、このコロナ禍の苦境に大なり小なり苦しむ日本人の「救い」になるのでしょうか?そしてミランダとしての政治的効果の程は?

同じ「打ち勝つ」理想値でも、「太平洋戦争に打ち勝つ」、と、「コロナ禍に打ち勝つオリンピック」、では、雲泥の差が、最初からある訳です。

これは勝負を「賭ける」にしても余りにも分が悪いのです。

「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」

「令和」天皇制国家の支配原理

脱線しつつ色々と「超国家主義の論理と心理」に絡めて書き連ねてきましたが、現代日本の政治文化を丸山の分析した戦前の天皇制国家にそのまま結び付けるのは、牽強付会との御批判もあるかと思います。

しかしながら、少なくとも戦前の「日本的なるもの」の本質の一部が、戦後日本、現代においても水面下に伏流しており、新型コロナ禍という危機故に顕現していることは一概に否定できないように思われます。それが、民主主義と一種の緊張状態にあることも否定できません。

もし、特に違和感を持たれるとしたならば、「過去はともかく、現在の象徴天皇制にそのような影響力があるのか?」という点ではないでないでしょうか。

確かに、「天皇との距離」という要素は、戦後、大きく変質したのかもしれません。

しかしながら、戦後は、それに「米国との距離」という新たな優劣の規準が加わったように見受けられます。

また、令和になると、平成の皇室が圧倒的な支持・親近感を得たのに対し、令和の皇室は、コロナ禍の影響で、平成と比べて「隠れた」印象が拭えません(あるいは意図的に?)。

その反動か、政府、というよりは時の政権との「距離」というものを意識した行動が、ちらほら見受けられるようになりました。

どちらにしろ、天皇という存在は、日本の形を決めるキーストーンたり続けるでしょう。

丸山真男は、

大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。※2

と表明していましたが、現在の我々は、オリンピックの「実在」よりも民主主義の「虚妄」に賭けるか、どうか、試されているのかもしれません。

【参考文献】

丸山真男『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波書店、2015年。

丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年。

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年。

【脚注】

※1.ゲーリングのような国家首脳と、日本のBC級戦犯を比較すること自体の問題点や背景に関しては、田頭慎一郎「「青ざめ」たのは何者か?―「超国家主義の論理と心理」の一文めぐって―」『丸山眞男手帖』35号、2005年10月。

※2.丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、585頁。