宇野重規『民主主義とは何か』読後雑感~改めて「政治学」の王道を問う

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今回、遅ればせながら、宇野重規『民主主義とは何か』を読み終えましたので、その読後雑感を記したいと思います。

日陰者の政治学

とにかく、まず指摘したいのは、今回(2020年10月現在)、この本が、これほど注目され、話題になったことへの「驚き」です。

誤解を恐れずに言えば、()()なければ(・・・・)、こんなに話題になる本ではない(はず)だからです。

そう、「何か」があったわけです。それは、言う間でもなく政府による日本学術会議の任命拒否問題です。

その拒否されたメンバーに宇野重規・東京大学教授が含まれていた事により、本書の内容(民主主義)と任命拒否における学問の自由の問題が相俟(あいま)って、注目され、異例の売れ行きを見せているようです。

先ほど、「こんなに話題になる本ではない筈」と言ったのは、本書の内容・クオリティーとは全く別のお話です。

むしろ、内容としては、良書だと思います。

ですが、良書や名著の類が、いわゆる「売れる」かといえば、そうではない事は、読書家や学芸に関わる方達は嫌という程、ご存じかと思います。

その意味で、日本学術会議の問題で、本書が注目されたことは怪我の功名と言ってしまうのは、言い過ぎか。

しかし、それよりも、強調したいのは、本来は話題にならなかったであろう理由は、政治学という学問の地位に関しての問題です。

日本における諸学において、政治学(あるいは政治学者)の占める地位、あるいは一般からのイメージというのは、一体どうなんでしょう?

かつて、前世紀後半であれば、丸山真男というビッグネーム、戦後民主主義の理論的指導者とまで称された、一般にも名の知れた政治学者がいました。

また、その師で、時の吉田茂首相に「曲学阿世の徒」呼ばわりされた東京帝大総長の南原繁。

そういった一般にも名の知れた政治学者というのは、現在ではあまり見られないような気がします。

もちろん、社会科学・人文系に明るい読書人やインテリ、研究者であれば、福田歓一や佐々木毅など、いくらでも名を挙げられるでしょうが、そうではなく、あくまで、世間一般にすら周知された政治学者という意味です。

「一般への知名度がそんなに問題なのか?」

と言われそうですが、この世間での知名度がそのまま、政治学の日本社会での地位のバロメーターになっていないか、と考える次第です。

このバロメーターが低いことが、何を意味するか。

それは、真っ当な政治学が、その知見が、社会に浸透していない事の証左なのではないのか?

そもそも政治学というのは、今やかなりの日陰者扱いです。

特に19世紀に「社会」が発見され、「社会科学」や「社会学」が登場して以来、その退潮は著しい。もともと、日本では「法学部政治学科」という括りで学科が設定されたり、私立大学でも英国風の「政経学部政治学科」だったり、「政治学部」という括りで高等教育にその地位を占めなかった。

なんとなく、社会科学、経済学、法学の後塵を拝す印象がある。

しかし、政治学は、万人にとって必須のものであり、真っ当(・・・)()政治学の使命は、いささかも揺らいでいない。この点を、本書を出発点にして後々記したいと思います。

教養としての政治学

本書の内容について言えば、ちょうど、政治学科に専門科目として設置されている「政治体制論」とか「民主主義論」「デモクラシー論」といった講義(大学によって科目名は様々ですが)の1年分を、上手くまとめた感があります。

「民主主義とは何か」というド直球の問いかけに、古代ギリシア(アテナイ民主制)、ローマ共和制、三大市民革命、そして現代政治理論におけるデモクラシー論(ロールズやダール)の議論や日本における民主主義を概説していきます。

1年間の真っ当な民主主義論講義を、新書1冊で学ぶことが出来るのは、とても「お得」な事この上ない。

特に、政治学(・・・)()おける(・・・)民主(・・)主義(・・)を全く知らない方には打って付けの本、入門書だと思います。

・・・そう。この政治学(・・・)()おける(・・・)民主(・・)主義(・・)を、全く知らないで過ごせてしまう現代社会が、実は最大の問題なのです。

日本が民主主義国であるならば、その「民主主義」の定義・意味内容がわからずに、民主主義を維持するなど、果たして可能でしょうか?

カレーライスを知らない人に、カレーライスを作らせるようなものです。

この問題は、政治学の地位の低さと無縁ではありません。

例えば、中等教育までの(高校までの)の「社会科」の扱いを思い出してください。

「英数国」並みの重要教科として扱われているでしょうか?

この社会科の延長・専門化に政治学はあるわけです。

憲法にしろ、選挙制度にしろ、その背景・土台となっている「思想」を理解していなければ、まさに、画竜点睛を欠くといわざるを得ません。

それでいて、民主主義国の国民として、民主社会の市民として生きよ、というのは土台無理な話です。

政治学を日陰者扱いにしておいて、その政治学の学識・知見が無ければ容易に崩壊しかねない民主主義を維持・育成しろとは・・・。

もし、民主主義を維持したいのならば、国民全体の教養として、政治学は欠かせないはずです。

本書でも言及されている丸山真男は、民主主義を永久革命であると説いたことで有名です。

それは、以下に要約されるでしょう。

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義()いう(・・)()()制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年、156-157頁。

歴史学では、歴史学者ではない作家などの「歴史書」がヒットし、その考証の不正確さ、イデオロギー性などが時折、問題になっていますが、政治学に関しては、それ以前の段階にあるとも言えます。

言うなれば「無風」状態。

誰も、見ない聞かない読まない。

このような状況は、早晩、大きな禍根をもたらすでしょう。

ちなみに、この「日陰者の政治学」という問題。事情は、哲学にも言えます。否、もっと酷いかもしれない。

哲学は、本来、学問そのものであり、その根本・土台であるはずですが、それが中等教育までは、ほぼ登場しない(!)。やっと、高等教育(大学)で顔を覗かせる。

これは政治学以上の扱いの酷さであり、より深刻な問題を孕みます。

これについては別記事に譲ります(「道徳」の教科化を嗤う~教育の目的とは何か~)

マスターサイエンスとしての政治学

「真っ当な政治学」、と散々書いてきましたが、一体、何をもって、「真っ当」なのか?

これを王道と言い換えてもいい。

答えを言ってしまうと、「政治哲学を踏まえた上での政治学」です。

色々誤解を招きそうなのですが、「政治哲学」というのは、「政治家の●●先生の政治哲学は~」みたいな、個人の政治的信念・教条のような俗な意味では勿論ありません。

学問としての「政治哲学」は

政治哲学は、政治的事柄の自然と、正しいあるいは善い政治秩序の双方を真に知ろうとする試みである。

レオ・シュトラウス『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』早稲田大学出版会、2014年、4頁。

という、レオ・シュトラウスの定義に見られるような営みです。

政治的事柄の自然、つまり本性・真理を見出す。

正義と善の政治秩序を見出す。

共に、極めて、哲学的(形而上学的)であり、倫理的・規範論的(~べき)になります。

政治学科の科目の例を挙げれば、「政治哲学」「政治学原論」「政治学史」「政治理論史」「政治思想史」「政治体制論」「日本政治思想史」「国際政治理論」といった科目が思い浮かぶと思います。

本書も無論、こちらの科目に相当する内容です。

一方、広義の「政治哲学」に対して、政治学には「政治(ポリティカル)科学(サイエンス)」と呼ばれる実証研究・政策科学の潮流があります。

政治学科の科目としては、「政治過程論」「計量政治学」「政治社会学」「比較政治学」「国際政治学」「政治行動論」「行政学」「西洋政治史」「日本政治史」「地域研究」「政党論」といった科目が分類されると思います。

前者と後者を見比べてもらえば、後者は、形而上的考察や規範論が取り除かれて、現実の政治社会の分析・研究に特化されていることに、容易に気づけると思えます。

詳細は省きますが、これは、19世紀以降の科学実証主義の影響・導入によるものでしょう。

この二大潮流自体が問題ではありません。

問題は、前者(政治哲学)が凋落あるいは無視・排除される傾向の存在です。

しかし、それは、現状分析に終始するだけの、本来の力を失った政治学の姿です。

本来の政治学には、強大な、あまりに強大な「政治」という怪物を制御する役割があります。

「政治」という怪物とは何か?

宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。

こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。

丸山真男『政治の世界 他十篇』岩波文庫、2014年、91頁。

「政治」(国家)のこのイメージを、トマス・ホッブズは聖書に登場する怪物リヴァイアサンに例えました。

そんな「政治」(国家、政治権力)を縛る手綱こそ、政治学の本来の姿であり、その意味で、政治学はやはりマスターサイエンスなのです。

その政治学は、政治哲学を基盤にした「真っ当な政治学」でなければ無力です。

そして、その政治哲学において、有効な処方箋なのが、本書で紹介される民主主義政治理論であることは言を俟たないでしょう。

あらためて日本学術会議任命拒否

なぜ任命拒否されたのかは、執筆時点では、依然明らかになっていません。

ぶっちゃけ、「宇野重規ほどのレベル・業績でNGならば、政治学者は全員任命無理だろ・・・」というのが、一政治学徒としての偽らざる心境なのですが。

今回、政府に任命拒否されたメンバーは、安全保障関連法制に反対であった為だとの憶測が飛んでいますが、ミクロ的にはともかく、もしかすると、もっとマクロな問題なのかもしれません。

メンバーの専攻は、政治思想、日本近現代史、行政法、刑法、憲法学、キリスト教神学。

いわゆる文系(人文・社会科学系)です。

理系の研究者はおりません。

これは、現代文明が、文化芸術や美、規範といったものの価値を打ち棄てて、経済的・物質的なものにのみ価値を見出そうとする歴史の潮流が顕現した一つの事例と言っては深読みし過ぎでしょうか。

しかし、そこに残されるのは反知性主義とモッブの残骸でしょう。

(この問題に関しては、以下の記事をご覧ください↓)

完全に余談ですが、筆者は、宇野先生の講義を1年間受講した経験があります。

(大教室の一学生でしたので、御面識があるわけではありません)

その講義での「古代ギリシア政治思想」の回で、先生が「哲学と政治の緊張状態に、もっとも極端な回答を出したのがプラトンで…」云々(うんぬん)と、講義されておられましたが、まさか、その先生ご本人が、その「哲学(学問)と政治の緊張」の渦中の人物になられるとは、歴史とは皮肉なものだなぁ、と感じる今日このごろ。