小松左京『首都消失』読後雑感~「首都消失」様々なる意匠

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「これから日本は、長い長い綱渡りがはじまるわけだな・・・」

(末富海将)
小松左京『首都消失(上)』徳間書店、1986年、232頁。

【あらすじ】

突如、何の前兆もなく、高さ1キロ、半径30キロに及ぶ巨大な「雲」に首都東京は覆われる。

「雲」は、一切の通信・交通を遮断し、何人も寄せ付けない。首都圏2000万人の住民の安否もわからぬまま、首都を喪った日本。

「雲」の外に遺された人々が、それぞれの持ち場で、この国難に奔走する。

果たして、日本の運命は?

日本SF文学界の巨匠小松左京のSF長編小説です。

突然首都東京を失った日本は一体どうなるのか?

本作は、特に、中央政府を失った日本が、国内の混乱をどう収拾し、非情な国際政治の荒波の中を生き残るか?に焦点を当てたポリティカルスリラーの側面が強い作品となっています。

というよりも、ぶっちゃけ、仮想戦記並みに政治・防衛問題に力点を置いた展開が待っています。

臨時政府

「たとえ、正規の日本政府がなくても、日本という国の主権というものは、存在しているわけでしょう。日本という歴史的国土と国民が、実体的に存在しているかぎり・・・。外国による国家の承認という形式的手つづきは、また別の問題じゃないですか?」

(マッコーマー在日米軍司令官)
小松左京『首都消失(下)』角川春樹事務所、1998年、185頁。

本作の力点は、政治・防衛問題ですが、中でも、臨時政府樹立への動きが物語の中核になります。

全国知事会が中核となって、臨時国政代行機関を樹立します。それも「首都消失」から僅か10日余りで。

小松左京作品の政治家は、なかなか豪腕・胆力のある政治家が多いように思います。

例えば『見知らぬ明日』。中国・新疆ウイグル自治区に対して、突如、異星人が侵攻を開始。大混乱の中での国際社会の対応を描いた、SF小説です。

この中でも、米国大統領をはじめ、各国政治家は智謀に優れ、力強く。懸案の「大国連軍」を国連緊急総会は、議長の「大車輪」で通過・成立させ、何とか、世界各国の軍隊が「地球軍」として侵略者と戦える状態になるところで物語は終わります。

更に例を挙げれば、代表作『日本沈没』の政府も、極秘に「D計画」を推進し、何とか、「日本」を「残そう」と、知恵を絞り、苦闘します。

『首都消失』も『物体O』、『日本沈没』も、政治家・官僚、または、それを取り巻く人々(自衛官や財界人・マスコミ人等)が、頼りがいのある「男たち」として描かれています。

首都消失・失政篇

『首都消失』と、ちょっと似たテイストの作品で、『東京地獄変』というのがありました。こちらは、中国の核ミサイルが誤って(核テロにより)東京に発射され、直撃するというパニック小説です。主に、被爆地東京での自衛隊の救出作戦の苦闘が描かれています。(若干、中国や外務省・政治家(道府県知事ら)を醜悪な、戯画化して描いて、逆に自衛官を英雄的に描き過ぎなきらいがありますが)。

こちらは、知事たちの利権争い・主導権争いで、臨時政府が成立せず、日本が、米国の信託統治領となるところで終わります。

ちょうど、この政治家像・官僚像は、小松左京のそれと対極にあります。

『首都消失』が、知恵も胆力もある「男たち」による成功譚であるならば、『東京地獄変』は、愛国心も胆力もない醜悪な「男たち」の失敗譚(失政)です。

リアリティはどちらにあるでしょうか?

リアルな「首都消失」

『首都消失』のテーマは、実は、わずか10年前に、現実に起こる一歩手前でした。

それは、2011年3月。

そう、東日本大震災での福島第一原発事故です。

この大混乱の中、政府が「首都圏放棄」を検討していたことが明らかになっています。

詳細は、船橋洋一の『カウントダウン・メルトダウン』で描かれていますが、劇作家の平田オリザが、政府発表用の原稿を書いていて話題になりましたね。

その原稿中の、「しかしながら、ことここに至っては、政府の力だけ、自治体の力だけでは、みなさまの生活をすべてお守りすることができません」という文言は、かなりの悲壮感があり、衝撃的です※1

自衛隊が作成していた作戦計画・実施要領では、最悪、福島第一原発から半径250キロ(住民3500万人)圏内での避難及び治安行動(治安出動)を検討していたようです※2

北は盛岡、南は横浜、西は佐渡島まで・・・。

この範囲と人口規模だと、もはや物理的に「避難」は不可能ですし、その能力が日本政府・自衛隊に無い(米軍でも無理でしょう)。

これは、東京を含んだ事実上の東日本放棄です。

この本で記録された政府・官僚・自衛隊の姿は、ある意味、前節の両極端な二つの政府像への答えになるかもしれません。

現実は、小説ほど勇敢でも思慮深くもないかもしれないが、小説ほど怠惰で無知で醜悪でもない。かと。

「道東のいちばん長い日」

さて、ポリティカルスリラーの要素が強い『首都消失』が連載されていたのは、80年代ということであり、今や懐かしき米ソ冷戦の真っただ中。

日本は西ドイツと共に西側陣営の最前線であり、極東ソ連軍と対峙していました。

本作では、中央政府を失ったことで、日本周辺の国際情勢が緊迫。

終盤には、ソ連軍が北海道に侵攻するやもしれない事態に陥ります。

このソ連の北海道侵攻ですが、本作のそれは、想定されたソ連軍侵攻ルートとは大きく外れた「珍しい」形を取ります。

ベトナム・カムラン湾に集結したソ連太平洋艦隊が、太平洋側を北海道の道東南部に向け北上してきます。迎え撃つ陸上自衛隊は釧路―根室を結ぶ国道44号線沿いに2個師団を中核とした大部隊を「訓練」名目で展開(但し、実弾携行)。

果たして、ソ連の意図は・・・。

さて、この「珍しい」侵攻ルートですが、当時、想定された侵攻ルートは、北海道道北(稚内)に着上陸侵攻し、そのまま国道40号を南下、旭川を経て、札幌占領を目指すというものでした。

この辺りを真正面から扱った仮想戦記としては、『スターリン暗殺計画』の檜山良昭による『ソ連軍大侵攻・本土決戦』(全三巻)なんてのがありました。悪鬼のようなソ連上陸軍が雲霞の如く押し寄せる様は、まさに(おそ)ロシアでしたね。

また、コミックでも、戦争劇画の第一者、小林源文の『バトルオーバー北海道』もあります。道北に上陸し、南下するソ連軍に、米軍の来援なしで、自衛隊が単独でソ連軍と死闘を演じます。

虎の子、第七師団と富士教導団の反撃は成功するのか?

「旭川市庁舎に赤旗がたちました」

「赤旗が国会議事堂じゃなくて幸いだな」

(中央指揮所にて)
小林源文『バトルオーバー北海道』日本出版社、1989年、79頁。

もうひとつの「首都消失」

「まるで宝石みたい・・・」

「女とは、わきて罪深き(さが)なるかな・・・」

と教授は呟いた。

「四千万人同胞を破滅の淵に追いやり、何千人の学者に自信を喪失させ、発狂させようという物体を、きれいとおっしゃるんだからね」

小松左京『物体O』新潮社、1977年、118頁。

小松左京の短編『物体O』です。

『首都消失』が、「喪った」側の物語であるならば、『物体O』は「閉じ込められた」側の物語です。

突然、日本列島に落下した異様なリング状の巨大物体(直径千キロ、厚さ100キロ、高さ200キロ、総重量2万兆トン!)は、関東甲信越地方と九州の一部を押し潰し、西日本を世界から孤立させてしまった。

世界との通信・交通の一切を遮断された西日本は、何とか、生き残る道を模索する。

井戸の中、コップの中に閉じ込められた西日本が何とか生き残ろうとしながら、同時に、このリングの正体(物体Oと呼称)を究明しようと苦闘する姿を描いた短編作品です。

こちらでも、西日本の知事たちが中心となって臨時政府が樹立されますが、本作では、国際政治は埒外(どことも連絡が取れない!)で、閉じ込められた中で、どう生き残るか(輸入できないので、即、食料や燃料の危機!)が、ほとんど唯一の課題です。

両作は、内(物体O)と外(首都消失)の物語です。

ちなみに、物体Oの正体・原因は、一連の小松作品の中でも、いちばん気にいっています。まったく「―女の気まぐれによって、世界が破滅したとしたら―何と美しいことだろうか。」※3

首都消失と天皇制消失

小松作品の特徴かもしれませんが、あまり、「天皇」に関しては触れないですね。

東京が消えてしまえば、当然、皇居におわす天皇もいなくなってしまうのですが、ほとんど触れられません。

『日本沈没』でも、天皇・皇室に関しては、描写はわずかで、沈没後に演説しているのも、首相でした。玉音放送なし。

対照的なのが、コミックの一色登希彦『日本沈没』です。こちらでは、天皇が「極めて」重要な役割を物語の終盤で担っています。

(しかし、一色版は、原作に対して、かなり独自の道を行った、全く別の作品として高く評価されるべきものです。詳しくは、こちらの記事を→一色登希彦『日本沈没』は、日本版『地球幼年期の終わり』か?

先述の『物体O』では、その災厄の日が、4月28日(!)。当時の天皇誕生日というブラックユーモアみたいな展開で、かつ、災厄後に関しての記述でも、

東京とともにほろび去った天皇制について、人々はさしたる感慨を抱いていないようだった。

同上書、123頁。

という一文が見え、やや皮肉めいています。

『首都消失』に至っては、天皇制・皇室に関しての記述は、ほぼ皆無です。

このまま雲が晴れなければ、特に躊躇いもなく共和制でいけそうです。

とはいえ、皇室が突然失われた時、その後の「日本」の国の形はどうなるのか?

共和制になるのか、それとも遠い血筋を辿ってでも天皇制を再興するのか・・・。

思想的次元での「首都消失」

『首都消失』は、政府喪失直後の政治的混乱を描いている為、より長期的に影響を与えるであろう、文化・思想的な「東京」の喪失問題をあまり描いていないかもしれません。

「東京」なしで、日本がそのまま「続く」のかどうか?

これは私の恩師がよく言っていたのですが、「東京」というのは一種の「抽象空間」である。と。

つまり、曲がりなりにも、近代日本は、西洋からあらゆるものを受容(輸入)してきた。特に、その果実、学術・学芸・芸術・文化といった極めて「抽象的なるもの」は東京を中心に受け入れられ、集積し、培養されてきた。

生活や土地(地縁)、血縁といった日常的なもの、いわば「具象的なもの」と一線を引いた空間がそこにはあるのではないかと。

地方と東京を両方経験した方だと、これは実感として感じるのではないでしょうか。

ただ単に、「人口が多い」とか、そういったものとは違う唯一無二の「何か」が、「東京」にはあるのではないか。

換言すれば「近代なるもの」が。

この東京的「近代」が所詮(しょせん)「疑似近代」である。という批判は成り立つでしょうが、疑似であろうと、それは、他の日本の「地方」とは、やはり一線を画すものだと言えます。日本国内に限っては。

そんな、抽象空間たる「東京」が失われたとき、日本は、その思想、政治文化、エートスにおいて「近代」にとどまれるのか、どうか?

『日本沈没』が、現代のディアスポラによって、現代のユダヤ人となった日本人が、なお「日本人」たりえるのか?を根底で問うている作品ならば、『首都消失』は、「東京」を喪った日本が、なお「近代」国家として成立するのか?を問う射程を秘めていると思います。

【脚注】

※1.船橋洋一『カウントダウン・メルトダウン(下)』文藝春秋、2012年、200頁。

※2.同上書、189-195頁。

※3.小松左京『物体O』新潮社、72頁。