小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』~巨大資本は国民国家を解体するか?

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【あらすじ】

後に日本国の独立をも脅かす存在となる『ゼウスガーデン』の前身『下高井戸オリンピック遊技場』が産声をあげたのは一九八四年九月一日のことである。

小林恭二『ゼウスガーデン衰亡史』福武書店、1991年、4頁。

場末の遊園地が、双子の天才によって、急成長を遂げ、「ゼウスガーデン」として、世界最大のテーマパークとしてその名を轟かせた。

快楽の王国として絶頂を極めながら、やがて滅亡していく「遊園地」の21世紀後半までの100年間を描いた怪作。

一体私は何を読んでいるのか?

この作品をどう分類すればいいのか、戸惑いを覚えます。

遊園地の経営小説?全然違う。

SFといえばSFかもしれない。

偽史小説といえば、そうだが、少し首を傾げてしまう。

そんな捉えどころのない作品です。

表題の通り、この作品は、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を念頭に書かれています。そもそも、ゼウスガーデン創始者たる二人の双子藤島兄弟。これってローマ建国神話のロムルスとレムスですよね。

途中から、最高幹部会は「元老院」に改名されるし、「第一人者(プリンケプス)」「尊厳者(アウグストゥス)」の称号も登場します。

政略謀略に明け暮れる奇人怪人のオンパレード。

ゼウスガーデンはGAFAか

ゼウスガーデンは日本国内において治外法権を獲得し、事実上の独立国として認められることになる。

同上書、113頁

ゼウスガーデンは、その圧倒的な集客力と資本力は、杉並区南方を買い占め、代々木公園を政府に払い下げさせる。更には、全国各地にゼウスガーデンの支部が建設されていく。

やがて2012年の大震災をきっかけに、その海外からの復興資金を一手に吸収し、ゼウスガーデンは日本国からの治外法権を獲得する、と。

一遊園地、テーマパークが治外法権を獲得し、事実上の国家内国家となるなぞ、一見、与太話に聞こえるかもしれませんが。

しかし、企業が国家を凌ぐ力を持っている近未来像というのは、SFではそれほど珍しくないかもしれません。

特にアメリカ映画ではよく見る光景です。例えば、「ロボコップ」のオムニ社や「バイオハザード」のアンブレラ社etc.

果たして、現実はどうでしょう。

例えば、GAFA(「Google」「Apple」「Facebook」「Amazon」)のようなボーダーレスな巨大企業。もはや市民生活のインフラであり、凄まじい影響力と資本力を有しています。

これらの企業が、10年、20年後一体どうなっているのか・・・

米国政府が、独占禁止法(反トラスト法)を時折、巨大資本に適用しようとしたり、各国政府が課税を強化したり、国家の側がその力を削ごうとしていますが、果たして、巨大資本の膨張の流れ自体を止められるものなのか・・・。

国民国家」が唯一の答えではない

現代の国民国家(ネイション・ステイト)は決して永遠でありません。

そもそも、「ネイション(国民)」というのは、近代に人工的・作為的に作られたものです。

慣習・文化・言語の違いを矯正・統合して無理に「フランス人」とか「日本人」という単位を創出(イメージさせ)し、これを、「ステイト(秩序状態・権力機構)」と結び付けた政治概念が「ネイション・ステイト」です。

従って、この「ネイション・ステイト」以外の国家形態(政治社会の態様)は、当然存在する訳です。

(古代のポリス=都市国家や、中世ヨーロッパを考えてみて下さい)

すると、前節のように、企業が、新しい政治社会の形になることも、長期的視野(世紀単位)で見れば、決して荒唐無稽な話ではないのです。

神林長平のSF連作小説「火星三部作」の『帝王の殻』では、100年以上振りにコールドスリープから目覚めて、火星の政治代表に面会した地球の将校が、火星の統治体制が「企業制火星政府体」と説明され、やや困惑する場面があります。

このギャップは、『ゼウスガーデン衰亡史』の世界観と現実の我々の政治社会観のギャップでもあります。

もはや「企業」(本作ではテーマパーク)が、経済的機能集団ではなく(それを超えて)、ひとつの政治的共同体を形成していることになります。

主権国家・国民国家を脅かす存在となったゼウスガーデンは、ある意味21世紀を予見しているとも言えます。

話は逸れますが、独立国家たる「ゼウスガーデン」が下高井戸を本拠として、全国各地にまだら模様のように点在している様。

同じような形で、日本が事実上分裂している世界観なのが、恩田陸の『雪月花黙示録』。

こちらは、日本が、伝統主義の「ミヤコ」と消費資本主義「帝国主義」の二つの領域に分断され、その各地域が綺麗な境界線ではなく、日本列島に、まだらの様に入り交じっている近未来冒険小説です。