1981年(日本)、132分、降旗 康男監督
「樺太まで聞こえるかと思ったぜ」
(三上刑事)
あらすじ
北海道警察本部の刑事・三上英次(演:高倉健)は、オリンピックの射撃選手に選ばれ、国中の期待と警察官としての職責の両輪の重責を負う中で、妻・直子(演:いしだあゆみ)とのすれ違いの末、妻と一人息子は、銭函駅のホームで、三上から去っていく。
そんな折、信頼する上司・相馬(演:大滝秀治)を警察官連続射殺犯に、目の前で殺される。
度重なる不幸、傷心を抱えながら、三上は刑事として数々の事件に立ち向かっていく。
そんな無骨な男の10年間の軌跡。
一貫する刑事像
高倉健が刑事役に扮する作品としては、日米合作映画「ブラック・レイン」(1989年)の大阪府警刑事部捜査共助課の刑事・松本警部補が有名ですが、今回の三上刑事役は、NHKドラマ「刑事」(1995年)の警視庁捜査一課の秋庭実警部補と共通点が多いです。
秋庭は、かつて検挙した男の「お礼参り」で妻を殺される過去を持っています。
そして、今、交番襲撃事件で可愛がっていた後輩の村沢巡査(演:石原良純)を殺され、深い悲しみを背負いながら、捜査に臨んでいく。
この2つの役柄は非常に似通っている。その一貫しているキーワードは「十字架」です。
※以下、ネタバレあり
警察官の十字架
本作は、刑事・警察官である三上が背負う十字架をひたすら描いていきます。
第一部では、オリンピック射撃選手候補であることを優先され、目の前で殺された相馬の捜査に参加できない悔しさ。
そして、そんな時に、テレビが伝える自衛官・円谷幸吉(東京五輪・銅メダリスト)の自殺の報。オリンピックという国威発揚の重責に耐えることの苦しさが伝わってきます。
第二部では、連続強姦殺人犯・吉松五郎(演:根津甚八)を追いますが、足取りを掴めない為、増毛町の食堂で働く妹・すず子(演:烏丸せつこ)を行確(行動確認)下に置く。
すず子を使って、五郎を誘き出すという街のチンピラ・好色漢、木下雪夫(演:宇崎竜童)の提案に、渋々乗ってしまいます。
そして、深夜の駅での、すず子と五郎の再会の場面、隠れていた警官隊に五郎は取り押さえられ、彼には死刑台が待っています。
第三部の冒頭、札幌市内での立てこもり事件が描かれます。
この場面は、1979年の梅川事件(三菱銀行北畠支店人質事件)そのままと言えます。犠牲者は警官2名を含む5名にも及び、大変凄惨な事件でしたが、劇中の事件も5名でした(機動隊員が致命的な銃撃を浴びるシーンもあり、それも2名で同じ)。それどころか、第三部は「1979年」と明記されています。
明らかに本作の2年前の事件を意識しています。
梅川事件では、非公表の特殊部隊であった大阪府警第二機動隊零中隊(後のSAT)数名が突入し、犯人を射殺、その際、世論を考慮して自動拳銃や短機関銃ではなく、回転式拳銃(!)を使用しています。
本作では、ラーメン屋に扮した三上が単身で犯人を射殺しています。
三上の所属は道警本部刑事部捜査第一課なので、現在で言うと捜査一課の特殊班(警視庁のSIT、大阪府警のMAATが特に有名)のメンバーではないでしょうか。
任務を終え、外に出る三上の背後で、犯人の老いた母親が、「警察の人殺し!」と罵声を浴びせてきます。
警察官は、生き死にのやり取りをすることだという、厳しさが随所に訴えられている作品と言えます。
国家の命令で行われる危害行為は、それが適法・正当であるならば、正当行為として違法性が阻却されます(刑法35条)。
例えば、警察官の発砲、刑務官の死刑執行、防衛出動下の自衛官の武力行使。いずれも「正当行為」として、なんら責めを負うものではありません。
しかし、実際に、それを行為するのは、生身の人間であり、機械ではないのです。
この十字架の重みを描くうえで、北海道というのは、最適な地に感じられます。
冬の北海道、厳しい寒さと、吹きすさぶ雪・・・、そして冬の日本海。北の大地で生きる苦難は、そのまま警察官人生の苦難の暗喩のようです。
刑事と恋路は両立しない
そんな十字架を背負うが故に、三上の個人としての、私的な幸福・安寧は訪れません。
第三部で、十字架に疲れ、警察官を退職しようと考えていた矢先。
増毛の小料理屋の女将・桐子(演:倍賞 千恵子)と恋仲になりますが、彼女のかつての情夫は、警察庁特別指名手配22号、かつて相馬を殺した連続警察官射殺犯(演:室田日出男)でした。
22号が、道警のパトカーを襲撃した後、桐子の家に潜伏しているのを知った三上は、単身、桐子の家を訪ね、その彼女の前で22号を射殺します。
(ここまで執拗に警察官を襲うというのは、当時だと、まだ極左過激派の猛威の記憶もあるからの設定でしょうが、時代を感じます)
これで、三上と桐子の間に、破局が訪れ、三上は、札幌に発つ増毛駅のストーブに、退職願を投じます。
刑事は最後まで刑事でしかない・・・。そんな声が聞こえてきそうなラストです。
『北の無人駅から』
余談ですが、この作品をはじめて知ったのは、渡辺一史のルポタージュ『北の無人駅から』においてです。
同書は、北海道の様々な町を訪れ、その町の歴史や抱える問題を探っていく社会派のルポタージュです。
サントリー学芸賞を受賞した秀作ですが、その第5章が増毛町でした。
その章で、一つのキーワードになってくるのが、今回の映画「駅STATION」でした。
『北の無人駅から』に関しては既に記事として取り上げていますで、そちらに譲ります。
(★関連記事:「渡辺一史『北の無人駅から』読後雑感~“試される大地・北海道”、本当に試されているのは誰なのか?」)
ともかく、この本を読み進める内に、この映画のことが気になりだして仕方なく、鑑賞する運びになりました。
「駅STATION」は、三部構成なのですが(各章には三上に関わる女の名前が冠される)、その第2章、3章は、増毛が主な舞台となるからです。
本書の取材時には健在だった留萌本線増毛駅は、2016年に廃止されています。
北海道の過疎化、それに伴う鉄道の廃線は留まるところを知りません。
「駅STATION」では、過疎や衰退といった兆候は見えず、まだ「元気だった」頃の北海道を見ることが出来ます。