砂川文次『小隊』(芥川賞候補)読後雑感~「北海道戦争文学」の新たな地平

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【あらすじ】

突如始まったロシア軍の北海道侵攻。

釧路で防衛線を構築する陸上自衛隊第27連隊戦闘団の小隊長、安達三尉は、最前線でロシア軍と対峙することになる。

※以下、ネタバレあり

北海道での自衛隊とロシア軍の地上戦を、若き自衛官を通して描いた小説です。

本作が、2020年下期の第164回芥川賞候補作となった事に驚きの声も聞こえますが、かつて、東ドイツによる西ドイツへの軍事侵攻を描いた中村正䡄『元首の謀叛』が直木賞を受賞(1980年)している位なので、前例がないわけではない。

(にしても、この作品のホーネッカー議長と、史実での彼の晩年・末路は好対照でしたね)

それはともかく、今回は、この作品を読んでの、雑感を書き連ねたいと思います。

「奇妙な戦争」

国政や外交といった国家戦略級のお話は殆どありません。

それは、いわゆるウォー・シミュレーションや「仮想戦記」モノのような展開ではない事を意味します。

断片的には、この「有事」の状況は語られます。

道北と道東に突如上陸してきたこと。

そのまま怒涛の侵攻、という訳ではなく、ロシア軍がその地域を占領したまま動かずに(「在日ロシア軍」などという冗談さえ囁かれる始末)、日ロ両軍が睨み合いの膠着状態であること。

米軍が介入してこないこと。

冷戦時代に想定されていたソ連軍侵攻とは、だいぶ趣が異なります。

言うなれば、「奇妙な戦争」です(1939年9月から翌年5月のヨーロッパを評した言葉です)。

ともかく、物語は徹頭徹尾、前線指揮官の目線で進みますので、それ以上の情報や戦争の全体像は明らかになりません。

それはつまり、彼の得られる情報の範囲でしか、読者も戦争を体験できないことを意味します。

主人公本人もスマートフォンを携帯していないので(防衛出動時なので、私物は持たない)、中隊本部からの情報が全てです。

情報から遮断された個人の孤独感(飢え、渇き)といった点も感じさせる構造になっています。

あくまで、日常から戦場に放り出された一個人の物語です。

コロナ禍と世界の片隅の戦場で

本作は、切り取られた「戦場」が舞台です。

同時に、世界から切り取られてもいます。

日常がちゃんと営まれていた。訓練で何よりもつらいのは、演習場の外、パジェロの窓の向こうに日常があるにも拘わらず、みじめに穴倉で眠ったり風呂に入れなかったり寝れなかったりすることだ。そういう点からいえば、今も何も変わっていない。

砂川文次『小隊』文藝春秋、2021年、156頁。

この切り取られた有事というのは、現在のコロナ禍においては切実な問い掛けになるでしょう。

それは、病院、医療の現場が代表的です。

「医療崩壊」の危機が叫ばれる中、その医療の現場で従事する人々の置かれた状況と、本作の自衛官の状況は酷似します。

「戦場」の外では、相変わらず、人々は働き、娯楽は供され、「日常」は営まれている事に対しての強烈な違和感。

東日本大震災の際の、被災地とその他の地域の落差も同じことです。

そんな「日常」から切り取られた片隅の「戦場」を、主人公が抱く強烈な違和感と共に描いています。

なぜ「中国軍」ではないのか?

そもそも、米ソ冷戦たけなわの1980年代以前なら、ともかく、なぜ、今、「北海道有事」なのでしょうか。

「南西諸島有事」の方が自然ではないのか?

ソ連時代ですら難しいとされた北海道侵攻を、あえて、この2020年代の作品で舞台装置とするのはなぜか。

勝手な憶測をすれば、あえて、その「生々しさ」から距離を置いて、現代日本における戦場文学を描きたかったのではないかと。

例えば、水陸機動団や第15旅団(沖縄)の隊員を主人公にして、南西諸島の有事・戦場を、同じように描けば(当然、相手は中国人民解放軍でしょうが)、現実の国際政治の生々しさ、あるいは喧騒から無縁にはいられなでしょう。

コンテクストとして、静謐な状況には置かれない。

それを避けたのではないでしょうか。

ちなみに、北海道侵攻モノだと、主攻としての道北(稚内→音威子府→旭川)という「国道40号の戦い」が主な舞台になりがちです。

なんせ主攻ですから。

一方、助攻(第二挺団)として小樽や道東(根室・釧路)への攻撃はメインになり難い。

しかし、あえて、この助攻である道東戦線を描いている時点でも、本作は稀な作品です。

主攻には、当然主力を投入するでしょう(第7師団や富士教導団)。しかし、助攻への支援は相対的に落ちざるを得ない。

そんな、「二次的」「副次的」に扱われる戦場も、生死を賭けた「同じ」戦場なんだという、メッセージも聞こえてきそうです。

「北海道戦争文学」は可能か?

ソ連軍(ロシア軍)の北海道侵攻というテーマは、細々と、しかしながら脈々と書き継がれてきました。

冷戦時代なら、佐瀬稔『北海道の11日戦争』や檜山良昭『ソ連軍大侵攻・本土決戦』、佐藤大輔『征途』などが思い浮かびますし、コミックでも小林源文『バトルオーバー・北海道』などがすぐに頭に浮かぶでしょう。

これらは、いわゆる仮想戦記ですが、このような北海道有事を描いた作品の系譜を「北海道戦争文学」という、ひとつのジャンル・ミームで捉えてみることも可能かもしれません。

背景には、日露戦争以前にまで遡る北方脅威論(ロシア脅威論)、ロシアという顔の見えない巨人に対する名伏し難い恐怖感があるように思えます。

中国脅威論が声高に語られる中、長年埋もれていた「北海道有事」が、『小隊』によって、息を吹き返すならば、「北海道戦争文学」の新たな地平としても語られるでしょう。

そして、有事を、あえて自衛官の視点を描くことは、国民に再考を促すことにもなります。

戦後、長年に渡って。継子・鬼子のような日陰の扱いを受けてきた自衛隊は、90年中盤以降、その信頼度を高め、3.11において極まった感があります。

しかし、この好感、信頼、支持というのは、果たして「軍隊」というものの本質を理解した上でのものなのか?

「有事」こそ「軍隊」の存在理由であることを忘れていないか、と。