やや流行の兆し?がみえる哲学カフェ・哲学対話と呼ばれる試み。
大学などのアカデミズムではない市井の場で、社会的立場・地位、年齢性別に関係なく、日常の疑問などを語り合う場として、注目されているようです。
日本全国で、数百単位でそのような会が存在しているそうです。
既に参加されている方も、これから参加したと思っている方もいらっしゃると思いますが、今回は、そんな「学問ではない哲学すること」に役立ちそうな御本を、5冊ほどご紹介しようと思います。
池田晶子『14歳からの哲学~考えるための教科書』
「そもそも、日常に、そんなに疑問や不思議が転がっていないよ」という声も。
いやいやそうでもありませんよ。灯台下暗し。
例えば、「言葉」。「犬」という言葉で、犬を犬として、みんなが理解できるのは、なぜなんでしょう?
皆で決めるためにも、「犬」という言葉、その意味は、先に皆にわかっていなければならないはずだ。先にある物に、後からラベルを貼るためにも、その両方が同じものを意味すると、分かっていなければできないはずだ。では、皆に先にわかっているその意味は、誰が決めたのだろう。
池田晶子『14歳からの哲学』トランスビュー、2003年、26-27頁。
こんな感じで、次々に「疑問」「不思議」を投げかけてきます。
「言葉」「自分」「死」「心」から「恋愛」「友情」「仕事」「品格」「社会」「国家」etc.
この本の優れたところは、あくまで日常語で語りかけてくるところ。小難しい専門用語は一切ありません。また、何らかの「答え」を書いてあるわけでもありません。
哲学の迷宮の入り口まで、案内してくれるだけです。
あとは、気を付けていってらっしゃい。良い旅を。
★池田晶子にご興味があれば、こちらの記事をどうぞ
→池田晶子の哲学書おすすめ本6選~アカデミズムではない哲学への誘い
細谷功『具体と抽象』
「うーん、なんとなく、思い思いに喋り合ってたら、「哲学対話」になるの?」
哲学対話が「哲学」になるには、何が必要でしょうか?
あえて、「哲学」を冠する意味は?
そこには、参加者の経験や思いを、他の参加者と共有、吟味し、その意味を共通化していく営みがあります。
その営みのヒントが「具体(具象)」と「抽象」という二つの概念の使いわけです。
哲学対話にとって、この「具体と抽象」の使いわけを理解していないと、話が進まない。あるいは、噛み合わずに平行線を辿るばかり・・・。
哲学カフェに参加していて、そんな経験ありませんか?
これは本書で著者が「永遠の議論」と言っている状態です。
つまり「抽象度のレベル」が合っていない状態で議論している(ことに両者が気づいていない)ために、かみ合わない議論が後を絶たないのです。
細谷功『具体と抽象』dZERO、2019年、52頁。
最終的にその対話の場の全員、否、その文化、その社会、その時代を超えたような「答え」、つまり普遍的なレベルに到達する為には、
抽象度が上がれば上がるほど、本質的な課題に迫っていくので、そう簡単に変化はしないものです。「本質をとらえる」という言い方がありますが、これもいかに表面事象から抽象度の高いメッセージを導き出すかとうことを示しています。
同上書、57頁。
大変わかりやすく解説してくれている本ですので、是非一度ご覧ください。
★こちらの記事で詳しく?紹介しています
→細谷功『具体と抽象』~哲学は簡単なことを難しく考えているのか?~
土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』
「ところで、実際の哲学カフェ・哲学対話の場は、どんなところで、どう「振舞う」ものなの?」
哲学カフェ・哲学対話の「ブーム」で、その手の入門書も増えてきました。
今回は、その中から、教育学者で哲学対話の実践家の方が書いた本をご紹介します。
本書では、各国の教育現場の例や、実際、著書自身の実践(東京の私立の中高一貫校)が紹介されたり、哲学対話のルール、効用、開催方法まで網羅しています。
全体として快活な印象の本で、はじめて哲学カフェ・哲学対話を知るのに、うってつけの入門書でしょう。
著者は哲学対話の場面を「世界の透明化」と「世界の不透明化」の両極と表現しています。
前者は「概念の洗練」であり、これは、前述の「抽象」「普遍」という点に通じます。
後者は「無知の気づき」であり、当たり前だった事の問題や疑問に「気づかされる」場面です。哲学対話の始祖であろうソクラテスが、まさにこの「無知の知」(不知の自覚)の先駆者でした。
私たちは自らの「無知」に気づくことで、その事柄についての真理を知りたいと掲望し、それを原動力として思考と対話を駆動させます。そして、ただひたすらに議論にひたりついて考えたり対話したりすることで、その事柄に関わる概念や世界の捉え方をさらに見通しのよい、洗練されたものに作りかえるのです。
土屋陽介『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』青春出版社、2019年、140-141頁。
★また、哲学対話・哲学カフェに関しては、梶谷真司『考えるとはどういうことか』も幅広く読まれているようですが、そちらに関しては以下の記事をどうぞ
→梶谷真司『考えるとはどういうことか』の違和感~「哲学対話」と「対話」は同じものか?
澤田昭夫『論文の書き方』
「なんで哲学対話の入門書に「論文の書き方」が入っているの??」
と、当然、疑問に思われるかもしれません。
哲学対話がただなんとなく、感想や意見が並ぶだけでは勿体ないと思います。そこに、問いがあるなら、答えに向けてのパズルの組み立て方が必要ではないか。
哲学対話が「議論・論争になってはいけない」という意見も聞きますが、哲学が「真」(答え)に至る共同作業であるならば、「議論・論争」でも良いのではないでしょうか。
特に本書の第12章「話す・聞く」は、哲学対話にうってつけの章です。
著者は、BBC(英国国営放送)で見た2人の修道僧の討論会に関して書いています。
合理的に納得させられなければ一歩もゆずらないというA、Bふたりの修道士の間での火花を散らすような「討論」でしたけれども、それは礼節とルールを守り、個人的感情を完全に度外視して、いちずに真実を探求しようとする「討論」でした。
(中略)厳しく鋭い対決のなかから新しい知識を生み出してくれたこの「討論」は、「すがすがしくも美しい」としか形容できないものでした。
澤田昭夫『論文の書き方』講談社、1998年、201頁。
どんな疑問でも良いのですが、その疑問に「答え」(真、解)を見出すことが、参加者全員の大目的でなければなりません。
批判と言うと、日本では、あまり歓迎されない、なにか「喧嘩」のようなイメージがありますが、この大目的が共有されている限りは、哲学対話も批判の場でもあると考えます。
以下は、論文の読み方に関して言っていますが、「読み」を「対話」に、「著者」を「対話相手」に置き換えて読んでみて下さい。
「批判的読み」は「わかったが、この点には同意する、この点には同意できない」という 「読み」です。ですから、その大前提はまず著者のいうことを理解することです。「よくわからないが、同意できない」というのは単なる感情論です。自分が間違っていると感じていながら、反対のため批判するのもそれと同じょうに愚かなことです。 意味のある批判 、賛成・反対は、はっきりした理由にもとづいていなければなりませんから、理由のよくわからない、印象とか不確かな意見の次元での批判はほんとうの批判にはなりません。ほんとうの批判は確かな知識を増大するためのものですが意見は単なる憶測に過ぎないからです。
同上書、177頁。
批判すること、されることを恐れずに、かつ「真」に対して誠実でなければならない。
あくまで、「真」への道を第一として、その他の感情を抑えていく(名誉心、虚栄心etc.)
「誠実」の「誠」という字は「真」と同じ読み方なのが暗示的ですね。
論文の為の本ですが、論理を徹底する姿勢は、哲学対話にとって貴重な教訓になるでしょう。
小室直樹『数学嫌いな人のための数学』
「なんで哲学対話の入門書に「数学」の本が入っているの??」
と、またまた疑問の声が聞こえてきそうですが・・・。
確かに、他のラインナップと比べても異色ではありますが、ちゃんと理由はあります。
哲学と最も近しい学問は何か?と問われれば、躊躇なく「数学」と答えます。
哲学(形而上学と言った方がいいかもしれませんが)と数学は姉妹のような関係だと思っています。
一方が「言葉」を使った抽象思考の最高峰なら、他方は「数字」を使った抽象思考の最高峰。
哲学は、「言葉を使った数学」と表現してもいいかもしれません。
で、今回そんな数学の本なんですが、
「えー、文系だったから、数学苦手だよ、公式なんて全部忘れたよ」
という悲鳴も聞こえてきそうですが、心配ご無用。
本書は公式がわからなくても、数式を読み飛ばしてもわかるように構成されています。
とはいえ、哲学対話に関して、本書をご紹介する一番強い理由は、哲学と数学の関係を知ってもらうという事ではなく、哲学対話における論理性・厳密性を意識してもらうためです。
例えば、哲学カフェでは、「経験を語ろう」というルールがよく見受けられますが、そこに落とし穴はないのか?
本書で、「帰納法」という事を理解すると、その陥穽に気付くと思います。
また、「十分条件」「必要条件」の違いを把握できていれば、議論もスムーズに進むのではないでしょうか。
他のラインアップとは異色ですが、読んで損は無いと思います。
★小室直樹にご興味があれば、こちらの記事をどうぞ
プラトン『パイドロス』
最後に哲学の古典を1冊、加えておきます。
今から2400年ほど前の古代ギリシアの哲学者プラトンの著書『パイドロス』です。
「えー、難しい専門用語や知識が必要ないのが対話なんじゃないの?」
と言われてしまいそうですが、安心してください。
このプラトンという人の作品は、ほぼ「対話篇」という、数人の登場人物が何かの主題(例えば、「正しい」とは何か?、「美しい」とは何か?etc.)を語り合うという形で書かれています(ほとんどの主人公はソクラテスであり、プラトンの代弁者に近い)。
そこでは、日常の語り方、日常用語の延長で、「言葉」が吟味、追及される場面が描かれています。
肩の力を抜いて、小説を読む気軽さでページを開くことが出来ます。
まさに哲学対話そのものですね!
今回、数あるプラトンの対話篇の中から『パイドロス』を選んだのは、そこに、作品自体の詩的美しさと共に、哲学対話する意味も込められているように感じたからです。
散々、本の紹介をしてきて、今更ですが、人が人と対面し、語り合う場というのは、ただ読書することに比べて、やっぱり大切なんです。
プラトン(作中のソクラテスが話すのですが)は「書かれた言葉」(本など)について「絵画」を例にしながら、それと同じようだと言います。
「いとも尊大に、沈黙して答えない。書かれた言葉もこれと同じだ。それがものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない。だがもし君がそこで言われている事柄について、何か教えてもらおうと思って質問すると、いつでもただひとつの同じ合図をするだけである。それに、 言葉というものは、 ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。」
プラトン『パイドロス』岩波書店、1993年、136-137頁。
書物が無意味であると言っているわけではありません。
そこには「限界」があることを語っています。
そして、その限界を超えているもの(=「書きえない真実」)を己の内(魂)に持っているのならば、ふさわしい相手と哲学的問答法(哲学対話)によって、真実の「言葉」を育てる。
対して、このディアレクティケーと対比され、厳しく批判されるのが、弁論術と、その担い手であるソフィストです。
弁論術はプラトンの別の対話篇『ゴルギアス』で、より厳しく批判されていますが、この『パイドロス』でも取り扱われています。
弁論術は、ソフィストらの「真実よりも真実らしきことを語る」というモットーの下で、勝つための技術として発達しました。例えば、法廷での弁論、民会(自由市民全員参加の議会)での弁論。その目的はその場での「勝利」であり、真理ではありません。
翻って、現代の哲学対話・哲学カフェの場は、弁論術の場になってしまう危険はないのでしょうか?
『パイドロス』は、哲学対話を巡って、あなたに様々な事を教えてくれるはずです。
「書を捨てよ、哲学カフェへ行こう!」ではなくて・・・
実は、今回のこの記事で、「哲学カフェ・哲学対話」そのものの本は、たった1冊しか挙げていません(『僕らの世界を作りかえる哲学の授業』)。
他の本は、直接「哲学カフェ・哲学対話」に関係するものではありません(哲学には関係しますが)。
今回のご紹介した本は、あくまで、「哲学すること」、その考え方、方法論として有用なものを選書しました。
手ぶらで哲学(対話)するという試みは、それこそ、ソクラテスが実践したものであり、それ自体なんら否定すべきものではないのですが、その「哲学対話」から「哲学」の二文字が消えてしまってはいないか?という危惧です。
ちょうど、明治に「フィロソフィア」の訳語に「希哲学」があてられたのに、いつの間にか「希」の字が消えてしまったかのように・・・。
「対話」という、それそのものは大変重要で有益な営みだと思いますが、あえて「哲学」を冠することに、それ相応の意味がないのか?
その点に重点を置いたラインナップです。
また、「前提知識もなにもいらない!手ぶらで来て!」という形が多い哲学カフェですが、もし、そこでの対話を哲学対話に昇華させたいならば、決して、思考の方法としての知識が邪魔になる訳ではないと思います。
どうしても、その謳い文句が、「書を捨てよう!哲学カフェに行こう!」にも聞こえてしまう。
勿論、哲学史の知識(情報?)を披露開陳するのは、まるでソフィストの法廷演説のようですが・・・。
ともかくも
「書を読もう、哲学カフェにも行こう!」というスタイルもあってもいいのでは?