「巫女は、狂った口で、
笑いなく、飾りなく、荒ぶる言葉を発しつつ、
(その声をもって千年の外に達し)
神に駆られて。」
ヘラクレイトス断片92
現在も根強い人気で読まれ続けている哲学者に池田晶子(1960-2007年)がいます(ご本人は「文筆家」と名乗っておられました)。
今回は、30冊近くある彼女の著作から、管理人の独断で、はじめて彼女の「言葉」に触れる方に薦めたい6冊をご紹介します。
ちなみに、冒頭のヘラクレイトスの断片は、ギリシア哲学の大家が、彼女に贈った詩句です※1。「哲学の巫女」と、半分冗談(半分本気)で称されていた彼女に相応しい詩句ですね。
『14歳からの哲学』(2003年)
哲学書としては異例のヒット作。池田晶子の名を世に知らしめた作品です。出版から20年近く経ちましたが、未だに版を重ねるロングセラーです。
まあ、本書のヒット以来、これにあやかってか、「14歳からの●●」というタイトルの本が雨後の筍のように出版され続けていますね。
それはともかく。『14歳からの哲学』は、入試問題、国語や道徳の授業でも使われることが多いようです。学校の授業で彼女の名前を知ったという方も多いのではないでしょうか。
本書の特徴は、副題の「考えるための教科書」とあるように、「考える」ために作られている事。
「哲学」というと、過去の哲学者の学説や哲学史の流れ、各学派や哲学の専門用語を「覚える」ことだと思われがちです。
しかし、それは学問としての「哲学」(哲学史研究)であって、それに先立つもの(あるいはコインの片面)としての「考えること」=「哲学すること」が本書の目的です。
それは、世の中の様々な現象・事象を、言葉(論理)によって整理し、抽象化し、本質に迫っていく作業です。
彼女自身は、「答え」を提示しません。あくまで、「考える」きっかけを、道筋を指し示すだけです。
なお、これは私見ですが、池田晶子の著書は、この『14歳からの哲学』の以前以後では、作風が変わったと感じています。
何というか、以後は「とても柔らかくなった」というか、「毒」が薄くなったというか・・・。
個人的には、この『14歳からの哲学』以前の作品に重きを置いていまして、今回ご紹介する本も全て、本書以前の作品をセレクトしています。
ちなみに、NHKの番組「100分de名著」でも紹介されました↓
『帰ってきたソクラテス』シリーズ(1994年~1997年)
上述の『14歳からの哲学』が基礎編ならば、こちらは応用編。世の中の様々な事件や話題、流行に「哲学」で切り込んでいく、抱腹絶倒な対話篇です。
対話の主役は、ソクラテス。
そう、プラトン『ソクラテスの弁明』の、あのソクラテスです。
現代にソクラテスが蘇ったというコンセプトで、様々な人々と対話します。いわば、現代版プラトン対話篇ですね。
その対話相手は、
フェミニスト、実業家、元左翼、人権派、役所の福祉課、代議士、ガン患者、国家主義者、生物学者・・・etc.
果ては、釈迦やイエス・キリスト(!)、そして、プラトンまで。
出るわ出るわ。
途中から、悪妻クサンチッペがレギュラー登場するに及んで、てんやわんやの哲学対話が繰り広げられます。
それは、徹頭徹尾、ロゴス(論理)を用いた対話。矛盾を突いて、ひっくり返すは、袋小路に追い込むは。
怒った対話相手が、「じゃあ、答えを教えてくれ!」と言っても、
ソクラテスは「僕はそんなものは知らないよ」と、いつものお惚け。
ここが現代日本でなければ、またぞろ毒杯のプレゼントですね。
※「帰ってきたソクラテス」シリーズは、著者生前、3冊出版されていましたが、現在は、1冊に合本となって、『無敵のソクラテス』にまとめられています。
『残酷人生論』(1998年)
「生死」「自由」「魂」「善悪」「幸福」など、様々な概念を章毎に論じていく、作品です。池田晶子の作品では他にもこのスタイルが見られます。
本作は、他の作品よりも、諸概念への掘り下げ方がより深い気がするので特にご紹介します。
基本的には、「世の了解事項」、慣習・常識を切り崩すところからスタートするのが、彼女のスタイル。
例えば、「善悪」の章では、
「倫理」と「道徳」の違いを直感的に理解できない。まさにそれが、「倫理」と「道徳」の違いを理解できないというそのことなのである
池田晶子『残酷人生論』情報センター出版局、1998年、157頁。
また、「神」の章では、
たとえば形姿、たとえば人格、あるいは何らかの訓戒等、いかなる具体的表象をも私は喚起し得ないのである。まさか
長い白髭の厳かな老人
みたいなものを、表象しているのではあるまいが。
同上書、167-168頁。
こんな感じで、概念の吟味が始まって行きます。
是非、この先は本書でご確認ください。
『事象そのものへ』(1991年)
ある方に聞いた話ですけど、東京駅近くの某有名大型書店で、発売当時、本書が「お天気」のコーナーに置かれていたという、笑うに笑えない逸話が・・・。
はい、「気象」ではありません、「事象」です。
タイトルは、エトムント・フッサールへのオマージュでしょうか。
池田晶子の処女作(?)※2です。
20代後半の執筆作品で、後の作品に比べると、やや尖った、広い読者を想定・意識しない印象の文体、逆にだからこそ自身の思考を生に書きつけた感がある作品です。
池田晶子の原点を見る気がします。
一節引いておきます
「神は在りしや無しや」が問題なのではない。「神は在りしや無しや」という問いへと、遂には自身を追い詰めざるを得ない私たちの思考こそが、実は問題なのだ。
池田晶子『事象そのものへ!』法蔵館、1997年、146頁。
『2001年哲学の旅』(2001年)
池田晶子のファンブック、いや、メモリアルブックとでもいいましょうか。
著作中の中でも、やや毛色の違った本になっています。
池田晶子が海外に飛び出し、中欧諸国にヘーゲルやニーチェ、ウィトゲンシュタインらの足跡を訪ねたり、ギリシア・地中海にソクラテス、プラトンらの見た光景を訪ねたり・・・。はたまた、各界屈指の知識人と対談したりと。
既に、鬼籍に入られた方々、藤澤令夫、H・G・ガダマー、そしてニュートリノ研究の戸塚洋二との貴重な対談も収録されています。
また、「帰ってきたソクラテス」シリーズの番外編3話も収録されています。ソクラテス、クサンチッペにプラトンを加えたお三方の哲学漫才対話です。
他にも、哲学史上の各大哲学者を各2ページで語ってみたり、読者との一問一答やら、編集部によるインタビューがあったりと、「楽しい」雰囲気の異色の1冊です。
『考える人~口伝西洋哲学史』(1994年)
管理人が一番最初に読んだ池田晶子の著作です。哲学の先生に、「面白い女性がいるから、読んでみれば」と勧められたのがきっかけでしたね。
西洋哲学史に登場する主要な哲学者、ソクラテス以前からフーコー、デリダまで。各章ごとに、その哲学を語りつくす異色の哲学史エッセイ。
試しに、冒頭「ヘーゲル」の章を開いてみると・・・
反ヘーゲル。様々な意匠。
こんな具合です。
「ヘーゲルは逆立ちしている」
唯物論者は、逆立ちしているのは自分の方だと気づきましょう。
「ヘーゲル哲学は無意味だ。」
分析哲学者は、意味が理解できないという事態の意味を考えましょう。
池田晶子『考える人』中央公論社、1998年、19頁。
・・・(以下省略)
こんな感じで全方位に喧嘩売って始まります(笑)。
冗談はさておき。決して教科書ではないし、単なる通史でもない。思う存分、自由に、各時代の巨人たちを語っていく。
特に、感じたのは、プラトンへの思いの深さ、こだわりでしょうか。本書の随所にそれは垣間見える。
私はしばしば、プラトンという人を強く想う。叶うならば、直にあって問い尋ねたいのだ、なにゆえ、なにをもって、どこまで本気で、「存在の彼方」に「善」!
同上書、104頁。
普遍を「普遍」と名付けたときから、普遍を巡る一切の混乱が始まったのだ。経験論の破れ目からは、いつも、空を見上げるプラトンの後ろ姿がちらりと覗く。
同上書、301頁。
こんな塩梅。
池田は、歴史(西洋哲学史)におけるプラトンについて、こんな風に書いています。
「プラトン的」という言い方に、西洋人が如何に様々な感慨を込めて語ってきたかに想いを致して、私もまた深い感慨に運ばれてゆくことがある。西洋人にとって「プラトン」の名はほとんど、たとえば自分の祖父に対するに等しいような愛着と反感なのだ。
同上書、218頁。
本人曰く通り、このプラトンへの「感慨」は、西洋哲学史にとどまらず、彼女の全著作に通底しているように思います。
(不詳、私も。)
読書にあたって
如何だったでしょうか。
以上、6冊ご紹介しました。
池田晶子の著書ですが、実は死後も新たに刊行されています。
いや、オカルトめいた話ではなく。彼女の死後、彼女の著書を合本したり、再録してアンソロジー化したりと、新たな形での刊行が続いています。
「あれ?これ前に読んだことあるな」に、ご注意を。
さて、池田晶子に関しては色々と思うところがあり、次回、つらつらと書いてみたいと思います。
書きました→池田晶子を待ちながら~「哲学エッセイ」への批判と称賛
【脚注】
※1 池田晶子『メタフィジカルパンチ』文藝春秋、1996年、209頁。“ギリシア哲学の大家”とは京都大学名誉教授の藤澤令夫(プラトン哲学研究)。
※2 池田晶子ご本人が「処女作」と言っておられるので(『魂を考える』あとがき)、一応、そうしましたが、その前に1冊商業出版があります。その辺の経緯にご興味ある方は、『オン!』あとがきをご参照ください。