池田晶子を待ちながら~「哲学エッセイ」への批判と称賛

grave

前回、池田晶子の哲学書おすすめ本6選~アカデミズムではない哲学への誘い》という記事を書きました。

今回は、その蛇足といいますか、彼女に関してあれこれ思ったことを。

「哲学の巫女」というか「女喧嘩師(哲学)」みたいなところがある彼女ですが(笑)、まあ、結構、批判もあります。

私も、以前、哲学の入門書に池田晶子を薦める記事を書きましたところ、やはり、ご批判も頂きました(笑)。

それは批判か?

たまに見かけるのは、「学歴」に関して。

彼女は、慶應義塾大学の哲学科は出ていますが、院卒ではありませんし、大学に所属する研究者でもありませんでした。

自称、「文筆家」であり、その文体は「エッセイ」でした。

それ故に、彼女が「哲学」を語るのを疑問視したりする声が、ちらほら。

彼女がご存命なれば、笑い飛ばしてしまいそうですが、これ、本当にあるんです。

おそらく「哲学」という営みをアカデミズム(哲学史研究)に閉じ込めている(あるいは、閉じ込めたい)思惑が、そこにはあるのでしょう。「知の権威主義」のような。

しかし、「哲学」はそのような狭い、窮屈な営みではありません。

アカデミズムは「哲学」そのものにとっては、欠かすことが出来ない車の片輪の様なものです。しかし、アカデミズムの独占物ではないでしょう。

片輪で走ることは出来ない。

実際、池田晶子の著書からも、アカデミズムそのものへの敬意は強く感じます。

まあ、どちらにしろ、あまり、この手の批判(そもそも「批判」ですらないのでは?)は、論ずるまでもないんですが・・・。

他者性の欠如

むしろ、論じるべき批判として、「池田晶子は地に足がついていない」という感想を、アカデミズムの方々から、よく聞くことがあります。

これは、特に、政治哲学・社会思想といった、哲学においても、対社会を扱っている方に多く見受けられます。

どういうことかというと、池田晶子の思考が、あまりに社会(これには国家とかも無論入りますが)といったものに対して、無関心すぎると。

「いやいや、社会や国家もちゃんと俎上に載せているよ」という声が聞こえてきそうですが。

確かに、そうなんですが、ここで言われているのは、神や宇宙の話にしろ、仕事や恋愛の話にしろ、その結論というか、思考の方向性が、あまりにも現実に生きている「普通」の人々を突き離しているのではないか?という点。

例えば「仕事(労働)」については・・・

お金を稼ぐためだったのでしょうね。単に金を稼ぐための会社だったはずなのに、会社で 生きること自体が、自分の人生だというふうになってしまっているのでしょうね。会社が 人生、だから会社がなければ人生は終わり。そんなことがあるわけないでしょう、だって 会社がなくたって生きてるんだから。(笑)

池田晶子『人生のほんとう』トランスビュー、2009年、50頁。

特別の才能がないから普通の会社員、特別の才能がないから専業主婦、その会社員や主婦の仕事を、そのまま楽しむことができるなら、それはその意味での才能なんだ。楽しんで仕事をしているうちに、気がつかなかった自分の才能に、気がつくこともあるだろう。生きなければならないから仕事をしなければならないなんて思ってる限りは、人は決して本当には生きることはできないんだ。

池田晶子『14歳からの哲学』トランスビュー、2003年、116頁

各作品、一様にこんな感じです。

論理で言えば、まさにそうなんでしょうが、政治学や社会学といった、現実の「政治問題」「社会問題」と向き合っている方々にしてみると、なかなか受け入れ難い。

これは元を辿れば「他者性」が欠如しているということではないでしょうか。

ただ、これは、池田晶子に向けられた批判というよりは、哲学、形而上学に対して向けられた批判・違和感だとも言えます。

とはいえ、哲学にしてみれば、そもそも形而上的なるものを探求しなければ、すべての学問も問題も「正しく」解決され得ない。

つまり、世界を「正しく」認識・理解されなければ、「正しい」回答も得られない。という言い分があります。

池田晶子の下記の一文など、その「弁明」そのものではないかと。「理想」の語を「形而上」に言い換えて読んでみて下さい。

理想というものは、現実離れしていることで理想なのだということを、あれらの人々はわかっていない。(中略)正義というものは誰にでも正義であることで正義なのだ、こう指摘し続けることが、理想というものの存在機能なのである。

プラトンの理想国、あんなものが「現実に」存在するわけがない。字義通りの理想としてのみ存在する、まさにそのことによって、現実なのだということを、ほとんどの人は理解しない。

池田晶子『考える日々Ⅲ』毎日新聞社、2000年、99-100頁。

また、哲学(形而上学)の“本性”からも、次のように述べます。

人が自分の意見だと思っているその「自分」とは何かを哲学は考えている。人が社会を変えると言うその「社会」の存在を哲学は疑っている。その意味で「社会思想」と「哲学」とは完全に対立しています。正確には、社会という水平面に垂直に立ち上がるのが、哲学という思考です。

池田晶子『暮らしの哲学』毎日新聞社、2007年、138頁。

如何でしょうか。

道徳と哲学の違い

一方、池田晶子の愛読者に関しても、ひとつの傾向があるかもしれません。

私が見てきた範囲ですが、まず池田晶子の著書以外は、哲学に関する本を全く読まないという方が結構な割合でいらっしゃいます。

これは、とても、“もったいない”と感じています。

折角、池田晶子と出会ったのだから、彼女がよく言及する人物の本、例えば、小林秀雄なりプラトンなりに手を出してほしいなぁと、思っています。

(いきなり埴谷雄高やヘーゲルはお勧めしませんが・・・)

次に、池田晶子の書いた、あれを、「道徳」と捉えている方も、一程度、いるように見受けられます。

しかし、池田晶子は、「道徳」と「倫理」を厳格に区別しています。

彼女は、「こう生きなさい」という道徳を語っているわけではない。

「~べき」という他律的な道徳は、善悪の直感という自律的な倫理とは、明確に違う。

そして、後者こそ「哲学」の問題だと。

人の世の、「なぜ悪い」をめぐるあらゆる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからだ。道徳を倫理だと思っているからだ。しかし、道徳は強制だが、倫理は自由である。倫理は、直観された善への必然的欲求として行為されるから、自由なのである。善は、決して強制され得ない。それは、欲求されることができるだけだ。

池田晶子『残酷人生論』情報センター出版局、1998年、161頁。

もし、池田晶子を「道徳」として捉えているなら、それは、彼女の「言葉」を読み間違えていると思います。

この「道徳」と「倫理」の違いと連関しているのが、「信じること」と「考えること」です。

即ち

  • 「道徳を信じる」
  • 「倫理を考える」

池田晶子の著者を道徳として捉えてしまうと、それは、詰まるところ、池田晶子を「信じる」という事になってしまいます。

おそらく、それは、彼女が最も忌避したい読まれ方だと思います。

弟子なり後世なりが、“その人”の「言葉」をどう受け止めるかで、全く違う様相を呈すことは多々あります。

ちょうど、イエスの教えが宗教になったのと、ソクラテスの教えが哲学になった、の違いの様な。