哲学カフェは反知性主義の砦となるか

最近、流行(?)の哲学カフェですが、実は、この活動は、その「哲学」という名称とは裏腹に「反知性主義」的な傾向が潜んでいるのではないかと、疑うようになってきました。

反知性主義とは何か?

そもそも反知性主義と何なのかがはっきりしていませんと、お話が進みません。

日本でも、ここ最近、反知性主義という言葉が流行っています。

歴史修正主義やナショナリズムの高揚に対して、多くが使われているようです。

しかし、本来、「反知性主義」というのはアメリカの建国初期から現れるキリスト教における宗教運動(信仰復興運動)のことを指します。

固有名詞です。

Inside a Church

ちょうど、「恐怖政治」が、フランス革命のジャコバン独裁を指す固有名詞だったのが、後の様々な政治体制にも使われるようになったのと似ています(ナチス、スターリニズム、ポルポト、隣の国・・・)。

では、本来の「反知性主義」とは?

これは、森本あんり『反知性主義』(新潮選書)に詳しく書かれています。

それはアメリカの一種の宗教エリート主義に対する異議申し立てと言えるでしょう。

米国の教会において、知性こそ信仰の証明であるという考えがありました。

曰く

「ハーバードかイエールを卒業したものでなければ、教会では説教させない。」


同書84頁

しかし、この知性の振りかざしに反抗する運動が巻き起こります。

リバイバリズム(信仰復興運動)、即ち反知性主義です。

キリスト教に限らず、およそ宗教には「人口的に築き上げられた高慢な知性」よりも「素朴な謙遜な無知」の方が尊い、という基本感覚が存在する。

同書85頁

無知蒙昧であろうと、信仰(神)の前では平等ということですね。

ここまで読んでいただくと、巷で使われている「反知性主義」の意味合いと、本来の趣旨(宗旨)は大分違う感じがお分かりいただけたと思います。

つまり、元来の反知性主義とは、「反・知性主義」なんですね。

「知性主義」に対して、アンチを言っているわけです。

知性そのものというより、知性を振りかざす人々への糾弾であり、戒めです。

praying

対して、現在、日本などで幅広く使われている反知性主義は、「反知性・主義」を意味しており、知性の働き・地位そのものへの否定的な動き・傾向・思想ということになります。

このように、「反知性主義」には、およそ全く違った意味合いを持つ二つの反知性主義があることを、まずは確認してください。

反知性・主義としての哲学カフェ

さて、上記の反知性主義のお話と、哲学カフェがどう繋がるのかと、言いますと。

日本における哲学カフェは、「反知性・主義」的な場になるという危惧です。

「え?哲学カフェて、哲学するところなんでしょ?そんなわけないでしょ?」

と、言われそうなのですが、左に非ず。

哲学カフェで使われる「哲学」の扱い方におそらく火種は潜んでいます。

「哲学カフェ」は、自由な空間ですので、その「哲学」の定義は主宰者によって千差万別です。

大きく大別すると、3つ位に分類されるんじゃないかと思います。

  1. 学問・専門知をある程度準用・模倣した形での哲学カフェ
  2. 広義の哲学(知を愛する)から、知的なこと全般を対象にする哲学カフェ
  3. 主宰者のオリジナルの思想を表現する哲学カフェ

①であれば、市民大学や哲学セミナーのようなアカデミズム側が提供するような場がすぐに思い浮かびますし、②の場合は、環境問題とか政治参加とか、人権、憲法とか文学の読書会が連想されるかもしれません。

③の場合はもう多種多様です。

あくまでモデルなので、現実の哲学カフェはこれらの混合であろうし、その中で①の傾向が強かったり、③が強かったりするでしょう。

問題は、③の傾向があまりに強い場合です。

先ほど申し上げた通り、「多種多様」なので、その範囲は無制限に広がります。

しかし、無制限に広がるということは、本来、哲学という概念に包括されていない分野も入り込むことになります。

確かに、②もそうです。例えば、憲法問題であれば、法学・政治学の範疇でしょう。

しかし、それは広義の学問(哲学)の範囲には踏みとどまっている。

問題は、範囲が無制約だと、本来、学問とはいえない範囲もそれに包括されてしまう。

それに「哲学」の名を冠して催すことは、「哲学」というものを誤解させてしまうことになりはしないかと。

また、学問から逸脱することは、範囲の問題よりも方法論で深刻かもしれません。

「哲学」の名を冠する以上、これに対して哲学的アプローチをすることは当然です。

では、その哲学的アプローチとは何か?

それは高度な抽象化ではないでしょうか。

抽象化により本質に迫る。

ここに「知性」の意味もあるかと思います。

そのための方法(対話)が多くの哲学カフェが掲げる、いわゆる「哲学対話」ではないでしょうか。

ところが、③の場合は、これが心許ない。蓋を開ければただの雑談になる可能性も。

②においても、この問題は出てきます。

例えば、環境問題の哲学カフェを開催したとして、科学データや各国の環境政策、技術革新の見通し、マスコミや世論の動きを分析・討議するとしたら、それは、知的で有意義であるでしょうが、果たして「哲学」カフェである必要があるのか?

「環境カフェ」とか「エコカフェ」みたいな形の方が、実態に即していて的確なのではないか?

ぶっちゃけ、哲学的方法論が採られているならば、範囲は無制限でも問題ありません。

すべては哲学的探求の対象に入ります。

問題なのは、範囲も方法論もすべて「哲学」と無関係な場として、哲学カフェが機能するなら、それは、「反知性・主義」の砦になってしまうでしょう。

反・知性主義としての哲学カフェ

しかし、全く逆の意味での哲学カフェが「砦」になり得る可能性もあります。

それは、アカデミズムに対してです。

哲学のイメージは、特に日本においては、哲学史研究とイコールになってきました。

この為、哲学は、高尚な、一般人とはかけ離れた、エリート主義的なイメージを持っています。

このイメージが長らく続いたものだから、大学や知識人の間だけの閉鎖的な社会のみで「哲学」が扱われてきた感が拭えません。

哲学カフェはそんな状況に、ある意味、風穴を開ける取り組みと言えます。

哲学カフェが、アカデミズムと同様に哲学史(研究)をする必要はありません(というかできない)。

哲学カフェは、哲学的な方法論で、日常の様々な問題や自身の問題などの本質を考える場でいい訳です。

その中で、アカデミズムの成果(哲学史上の理論・思想等)の助けを借りながら。

この助けは重要で、独善や誤解から参加者を守ってくれます。

しかし、アカデミズムの側から、哲学カフェへの批判もあります。

これには二通りあって、前述の「反知性・主義」的傾向への批判。

今一つは、専門教育外での哲学に対しての批判です。

前者は、大いに耳を貸して、真摯に改善していくべきでしょう。

他方、後者は象牙の塔からの冷笑に過ぎません。

そこには傲慢が見え隠れします。

それこそ「知性主義」否、「知性権威主義」です。

市井の人たちと問答を繰り返したソクラテスが見たら、なんと言うでしょうね?

キリスト教の反知性主義は次のようにまとめられます。

知性のヘゲモニーに対する霊性の異議申し立てである。知性そのものに反対しているわけではない。だが、霊性より知性が重要だ、という価値づけには激しく反対する。そしてその拠り所は、「神の前では万人が平等だ」という極めてラディカルな宗教的原理である。


『反知性主義』86頁

これを「反・知性主義」的な哲学カフェのあり方に置き換えて、みると

哲学史ないしはアカデミズムのヘゲモニーに対する哲学そのものの異議申し立てである。

哲学史・アカデミズムそのものに反対しているわけではない。

だが、哲学することよりも哲学史・アカデミズム・学歴の権威が重要だ、という価値づけには激しく反対する。

そしてその拠り所は、「真理の前では万人が無知である」という極めてソクラテス的な哲学的原理である

と。

今後、日本の哲学カフェがどちらに流れていくかは、まだ、わかりません。

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