流行の兆し?を見せる「哲学対話」「哲学カフェ」と言われる市井の哲学の場。
今回は、多くの団体・会合の主宰者・参加者の間で参照されている、梶谷真司・東京大学教授(哲学・比較文化)の『考えるとはどういうことか~0歳から100歳までの哲学入門』を取り上げます。
既に市井の哲学対話・哲学カフェを開催するにあたっての必読書、バイブルのような感がある本書ですが、私が読んで感じたのは若干の違和感でした。
梶谷ルール
本書では、「哲学対話」を「自由」を得るための大切な場として捉えているようです。
哲学対話の「考える」という行為で、日常の自分を離れ、その役割を脇に置いて、自分を縛らない「自由」を他者と共有する場として。
私が「考えること」を通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いているからである。だから自由になるためには、「考える」としての哲学が必要なのである。
梶谷真司『考えるとはどういうことか』幻冬舎、2018年、16頁。
このような目的の、哲学対話を行っていくにあたって、本書で提示されている哲学対話の「ルール」を以下に抜粋しておきます。
- 何を言ってもいい。
- 人の言うことに対して否定的な態度をとらない。
- 発言せず、ただ聞いているだけでもいい。
- お互いに問いかけるようにする。
- 知識ではなく、自分の経験にそくして話す。
- 話がまとまらなくてもいい。
- 意見が変わってもいい。
- 分からなくなってもいい。
(同上書、47頁)
仮に、この上記8項目を「梶谷ルール」と勝手に命名します(本書でそう言われている訳ではありません)。
これを見て、最初に思うのは、人と人とのコミュニケーション=「対話」の仕方が、丁寧に書かれているという事です。
反対に、これは、「哲学対話」なのか?という違和感です。
「対話」と「哲学対話」は違うのでは?
基本的に、本書で述べられていることは、人と人とが「対話」していくという意味では、まさに必要なことで、そこに異論はありません。まったく同感です。
しかしながら、その頭に「哲学」を冠した途端に、違和感が生まれるのです。
「哲学対話」と一口に言いますが、そもそも、その「哲学」とは何であるのか?
これ自体が、たいへんな議論になりえるのですが、しかし、これを放擲しては議論が進まないのもまた事実です。
実際、本書の中でも、「哲学的な・・・」という表現・説明、結び方を頻繁に用いていますが、果たして、何が「哲学的」なのかを明確には説明していないように見受けられます。
とはいえ、本書を通して読めば、その輪郭はつかめます。
知的というより、身体的な活動であって、何をもって「哲学的」と言うのかは、スポーツと同じで、実際に自分で経験してみて、体で感じるしかないのだ。
同上書、40頁。
これでも、まだはっきりしない。薄明の中というか、秘教・秘儀めいている。
ところが、本書中盤に「答え」は唐突に提示されているのです。
〈小さな問いから大きな問いへ〉(具体的な問いを抽象的な問いに)
次に小さな問いから大きな問いへ、具体的な問いを抽象的なレベルに上げる方法を考えてみよう。
同上書、134-135頁。
「哲学」を定義付けるのに、「抽象」は極めて重要な、不可欠とも言える概念です。
我々の経験しているもの、体験は、個別具体的なバラバラの状態(現象)です。
この具体的(具象)から、共通の、普遍的(不変的)な「本質」へ抽象化していく思考作業が、哲学の重要な役割のひとつになります。
従って、「哲学的」という言葉を使った時、それは「抽象化」と切っても切れない関係になります。
しかしながら、本書では、「哲学的」を目指しながらも、まずはその対話の「場」「方法」が重点的に語られており、最終的な目的については、それほど説得的ではありません。
この目的がはっきりしていないと生まれるであろう弊害は、「哲学対話」と「対話」の場とが見分けがつかなくなり、対話自体の迷走を引き起こしかねません。
「哲学対話」と「対話」というのは、違うものです。
「対話」には様々なものがあります。「良い対話」「理想的な対話」がイコール「哲学対話」ではありません。
目的が曖昧だと、「哲学対話」ではない、共感や理解、ケア、など、他の対話の場(自助会や社交サロン、同好会、サークルetc.)との境界が無くなってしまいます。
誤解のないように言いますが、そういった哲学対話・哲学カフェ以外の、対話の場を否定したり優劣を付けたりしているのではなく、役割が違うのです。
ボーダーラインが曖昧になることによって、参加者は知らず知らずの内に、呉越同舟な状態に陥ってしまいます。だって、そもそも来ている目的が違うんですから。
本書の中で、もっと、目的を、あるいは「哲学」とは何かを明確にすることを説かれた方が良かったのではないか、という感想を持ちます。
そうでないと、次節で詳説するように、大きな「誤解」「誤用」を生みはしないかと危惧します。
梶谷ルールは誤解されやすい?
「目的」を、ひとまず語らず(押さえず)に、この「哲学対話」の効能と方法が先行するとどうなるでしょうか。
特に、哲学カフェの「ルール」の点が、誤解を受けるのではないでしょうか。
直接に本書を参照しているかどうかは分かりませんが、この梶谷ルールを、たたき台にして、あるいはその影響を受けて、ルールを制定している哲学カフェは多いように見受けられます。
①何を言ってもいい。
誹謗中傷は論外だとしても、個人の感傷、放言の場になる恐れはあります。
哲学という目的の場ならば、個人は捨象され、論理といった別の存在が議論を支配するでしょうが、別の目的の人々にとっては、そもそも個人の自己表現の場などと誤解され、議論は迷走と困惑を生むでしょう。
②人の言うことに対して否定的な態度をとらない。
「否定」と「批判」が混同されて、ただ、発言を「受容」するだけの場になる可能性があります。
もちろん「受容」することが目的の場というのもあるでしょうが、それは「対話」の場であって、「哲学対話」の場ではないでしょう。
哲学において、「批判」「吟味」を加えないという事は有り得ないことです。
何らかの事柄を探求しているのですから、それが「答え」かどうか考えるという事は、論理的誤りや瑕疵が無いかを点検=批判をすることです。
本書で言っている「否定」というのは、点検ではない、人格攻撃や名誉に関わる属人的な面です。
批判は、意見・見解自体を吟味するのですから、非属人的になります。もっと言うと、哲学の目的が「普遍」「抽象」であるならば、個人は捨象されなければなりません。
誤解を恐れずに言えば、発言した人間の人格・個性など、最早どうでもいい。「否定」なぞ構っている暇はありません。
⑤知識ではなく、自分の経験にそくして話す。
これは諸刃の剣です。
例えば、参加者が各自の体験・エピソードとそれへの感想を発表し合うだけでは、「哲学的」にはなりえません。そこから、捨象化・抽象化してく「言葉」による作業が必要です。
しかし、その作業を行わずに、エピソードや感傷の披瀝・陳列で終わってしまい、さながら「経験の画廊」(体験の画廊)のような状況に終始してしまう場合があります。
あくまで、体験は出発点です。
もう一点。このルールから、「専門用語禁止」「哲学史の学説禁止」(哲学者の名前禁止)という形を採っている場が大変多いようです。
確かに、哲学史の学説を滔々と講じられたり、専門用語の乱発で相互対話が成立しなくなったり、煙に巻かれたり等々、弊害は多い。「哲学対話」が「対話」である以上は、これは厳に慎まなければならない。
哲学対話の場でこれをやり出すと往々にして、いわゆる「阿保の画廊」(ヘーゲル)に近いことになります。
では、過去の優れた遺産(哲学史)は全く考慮に値しないのか?というと、それは違う気がします。
多様な素養・教養の人々がいる場ですから、もし、偉大な学説を援用するとしたら、それを、自分の言葉にかみ砕いた上で、用いるべきです。
その学説・専門用語を本当に理解しているのならば、その場に「相応しい」形に言い換えて、対話相手に伝えることは出来るはずです。
その上で、「いや、これは私が考えたのではなく、哲学者●●の著作で学んだことなんです。」と、言う分には構わないでしょう。
むしろ、参加者の後学のためにも、紹介した方が良いのではないかとすら思います。
個人的には、自分の言葉を作ってくれた土台・礎とも言うべき先人に対しての礼儀のような感覚もあります。
⑥話がまとまらなくてもいい。/⑧分からなくなってもいい。
これを誤解してしまうパターンは、「哲学対話」(ひいては「哲学」)には「答えがない」という形に理解してしまう事です。
哲学対話の場で出てきそうな言葉で言えば、
「正義とか愛とか、そういうものは人それぞれだよね、ひとつの答えはないよね。みんな違って、みんないい。」
といったところでしょうか。
これは大きな問題です。
そもそも、哲学は、個々に生きる「人」や「みんな」といった具体的な人々(現象・経験)を超えたところを探求していく事を、その目的としています。
具体的な「みんな」(人々)の「合意」「了解事項」「慣習・文化」「経験事実」といったもの(形而下)ではない、それに影響されず、かつそれらを支配する時空間を超えた「普遍(不変)」「抽象」(形而上)を探求するものです(細かくは議論がありますが、ここでは省きます)。
故に、「みんな違って、みんないい」という社会合意や倫理観・尊厳、あるいは現実の説明を、行う(確認し合う、承認し合う)場ではないのです。
哲学が目標としている「答え」は形而上に隠されています。いわゆる「真理」です。詩的に言えば、まさに神の領域です。
この「答え」を「発見」しようとしている訳です。
つまり、「みんなが」という次元での「答え」を探しているわけではないのです。それは、社会科学系諸学や思想の範疇になってきます。
哲学的(普遍的)な「答え」(真理)は、未だ見つかっていないだけです。
哲学対話で表明される各々の意見や議論は、真理を発見するための仮説・手段です。意見を表明することが目的ではありません。
ですから、哲学を冠する哲学対話の場を指して「答えがない問いを論じている」という理解は、そのものがナンセンスです。
幻の「9番目のルール」
もし、勝手ながら、この「梶谷ルール」に1つ付け加えることが出来るならば、私なら、
⑨現実的・具体的な話を、できるだけ普遍的・抽象的なレベルにするように努力する。
でしょうか。「それはいくら何でも難し過ぎる」との声も聞こえてきそうですが、「対話」と「哲学対話」を分ける部分、境界線というのは、これしかないのではないかと考えます。
本書はカジュアルな、あるいは敷居を低く、多くの人に、開かれたものにするために、(おそらく)あえて「哲学」そのものの定義には踏み込んでいません。
それでも、「哲学的」を求めるならば、哲学の「目的」を明示しておかなければ、ただただ「体験の画廊」に陥る恐れがあります。
「ルール」に縛られる?
また、哲学対話に設けられる「ルール」の存在、それ自体に関しても、注意が必要です。
哲学対話・哲学カフェを行っていれば、様々な障害、問題が発生して、主宰者や参加者は頭を悩ます筈です。
その解決策として、とにかく「ルール」、特に禁止ルールを列挙していくという解決策を目にすることがあります。
あれは禁止、これも禁止・・・、かくして長い長い禁止ルールのリストが出来上がる訳です。
ところが、それは解決策というよりは、一時の安心感を得るだけに終わるかもしれないのです。
視点を変えましょう。我々の住む現代社会は、法律が溢れています。
様々なことが法に明記され、規制・罰則があります。
これは当たり前のようですが、果たしてそうでしょうか。
次のような言葉があります。
「腐敗した国家ほど法律は夥しい数になる。」
タキトゥス
構成員の自治、良識、倫理観、連帯、文化が失われる(腐敗する)ほど、法は増えていきます。
些末なものまで法制化されていくことになります。それは構成員の自助、自浄作用、目的意識、自制心、士気といったものに頼っては、もはやその共同体を円滑に運営できない故に、法(及びその背後の権力作用)に頼らざるを得なくなっている状況です。
これは国家ないしは社会という大きな共同体の話ですが、あらゆる共同体・機能集団・団体にも言えることでしょう。
禁止ルールを列挙・明記することで、主宰者は「安心」を得ますが、真に憂慮すべきは、ルール制定に追い込まれてしまった集団それ自体の存在意義なのです。既に赤い警告灯が明滅しています。
主宰者がそこでやるべきは、会の「目的」の再確認です。その存在理由を考え直し、吟味する必要の方です。ルールの共有よりも目的の共有です。
いわんや、すべての前提を疑う哲学の場である「哲学対話」「哲学カフェ」であるならば尚更でしょう。
「哲学対話」の危険性
本書を読んでいて気になったのは、哲学対話の危険性に触れていない点です。
巷の哲学カフェも「楽しい」「癒し」「誰でも」「平等に」「自由」「安全」「安心」というポジティブな側面を喧伝していて、往年の社会人サークルの様な雰囲気を醸し出している感もあります。
ところが、これらポジティブなイメージで語られるほど、哲学自体は楽しいだけのもではありません。むしろ逆かもしれないのです。
哲学対話は、どのようなテーマに設定しようとも、それを哲学的に行おうとすれば、参加者個人の価値観そのものを賭けて発言することにならざるを得ません。
その価値観とは、倫理観、良心、死生観、人生観と言われているものの総体であり、文字通り、言葉に人生を賭けることになります。
哲学対話のお手本、理想形として、挙げられるとすれば、古代ギリシアの哲学者ソクラテスでしょう(及び、彼を描いたプラトンの対話篇)。
哲学対話の祖ともいうべきソクラテスですが、彼は、論理を突き詰めて、「梶谷ルール」の「①何を言ってもいい。」を、究極の形で実践し、最後には死刑判決を受けて、毒杯を仰ぎます。
不当な死刑判決を受けた後、次のようなソクラテスと妻クサンチッペの逸話が残されています。
彼の妻が、「あなたは不当に殺されようとしているのです」と言ったら、「それならお前は、ぼくが正当に殺されることを望んでいたのかね」と応じた。
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』岩波書店、1984年、145頁。
ここに、文字通り、全人生を賭けた哲学対話者の姿があります。私(ソクラテス)の正当性は、まさに不当な死刑判決によって証明される。
そもそも、「哲学」が本当にブームであるならば、社会は大変なことになっていなければおかしいのです。
なぜなら、哲学は既存の社会秩序、国家体制、経済システムに対して、真正面から疑問を呈するし、躊躇なく否定もしますから、本当の意味で哲学がブームになったら、内戦になります。
「対話」だっていいじゃない
なぜ、わざわざ「哲学」を冠した「哲学対話」にこだわるのでしょうか?
別に何も冠さない「対話」が悪いわけでも、劣っている訳でもありません。
確かに、「哲学」それ自体が「対話」を内包しているという点はあります。
つまり、哲学の各側面が、内面との対話であったり、過去との対話(古典精読)であったり、超越者(神)との対話であったり。しかし、それは哲学(哲学者、哲学界)の側の問題であって、世間一般に貫徹しなければならないものではありません(当座という意味で)。
今、多くの人々が求めているのは「対話」であって、「哲学対話」という訳ではない。という疑念が拭えません。
「良き対話」というものがあるとして、それがそのまま全て「哲学対話」になる訳ではないのではないでしょうか。
興味を持った方が、果たして、自分は、何の目的の対話に参加したいのかを自問する必要があります。
その船はあなたの目的地に向かう船ですか?
色々好き勝手に評してきましたが、基本的に、本書に書かれている内容は、真摯に「対話」を行っていく上で大いに参考になるでしょう。
しかし、それが「哲学対話」となるには、加味しなければならないこと(目的)、よくよく注意しなければならない点(誤解、誤用)があると考えた次第です。
本書の内容(対話の実践方法・その価値)は「哲学対話」をする為の必要条件ですが、「哲学対話」をするには十分条件ではありません。
おそらく、現在は、「哲学対話」というものが手放しで称賛され、ポジティブなイメージだけで語られている時代だと見受けられます。
その関連で「哲学の民主化」という言葉も目にすることがありますが、留意すべきは、それが「哲学の衆愚化」に転落する危険性も秘めていることです。
ともあれ、哲学が全てを疑う学問であるならば、「哲学対話」自体も吟味を受けるのは言を待たないでしょう。