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⇒アウシュヴィッツで哲学カフェを~「政治」を傍観した「哲学対話」のゆくえ【前編】(みんな政治が大嫌い)
「哲学の民主化」?
この「政治」と「哲学カフェ」の関係を考える際、どうしても切っても切れない関係にあるのが「民主主義」です。
哲学対話(哲学カフェ)をアカデミズムに対しての、「哲学の民主化」だとする主張があるようですが(私個人はこれについては大いに疑義があるのですが、一先ず置いておいて)、あえてこの言葉を援用させてもらうと、「哲学の民主化」を欲するのであれば、その土台としての「民主化の哲学」が必要なのではないか、と。
そもそも、哲学カフェのような市井の哲学の場が存在する為には、その社会が民主的でなければ成立しません。
「閉じられた社会」、非民主的な社会では、哲学カフェは存在し得ません。
民主社会は哲学対話・哲学カフェの必要条件です。
注意して頂きたいのは、どのような状況下であろうと、純粋な「哲学対話」それ自体は可能です。前編で、「政治」が黒い死を司っていると書きましたが、その「死」を恐れなければ、哲学対話は、どのような状況であろうと可能であり、その範例はソクラテスです。
宗教裁判にかけられようが、拷問されようが、火刑に処されようが、毒杯を仰ごうが、「それでも真理は真理である」という哲学者はいます。
極論を言ってしまえば、アウシュヴィッツで哲学カフェは可能です。文字通り、命を懸けて。
しかし、ここで言っているのは、あくまで、市民に開かれた場としての哲学カフェです。
民主国家以外の、専制国家・全体主義体制下で哲学カフェが可能でしょうか?
ナチスを思い起こすまでもなく、つい先日の香港における「デモクラシーの死」(2020~2021年)を考えれば答えは明瞭でしょう。
哲学カフェにおいて、「安心・安全」がよく謳われますが、その大前提は、その政治社会が言論の自由を保障していることです。
その民主社会、デモクラシーを成立させるには、その構成員の努力が必要です。
「お手軽な民主主義」というものは存在しません。それは欺瞞です。
民主主義を存続させるのには、先ほど述べた「民主化の哲学」が必要になります。
それを無視した「安全・安心」の場というのは片手落ちです。
政治権力がその暴力性を剝き出しに場は、歴史に事欠きません。
どうにかこうにか、この「政治」と「民主主義」を繋ぎ留めなければならないわけです。
その時に力になるのが哲学対話・哲学カフェです。
「対話」という民主主義の根幹となる営みを、教育課程を終えた人々やアカデミアに属する以外の人々の場として醸成できる稀有な場なのです。
丸山真男は、民主主義を「永久革命」と表現していました。市民が「政治」に対して絶えず「民主化」を働きかける「永遠の運動」として。
おそらく政治思想史において「ユニーク」な立場にある政治理論家のハンナ・アレントは、「政治」を、公的空間において、複数の個々人が言葉をもって、あたる「活動」として捉えていますが(イメージとしては古代ギリシアのアゴラ)、「政治」「民主主義」「哲学カフェ」が結び付いた場というのは、まさにこのアレントの「政治」の定義に符合します。
市井の人々が民主主義を「言論」において実践する場として、哲学対話・哲学カフェというものは、理想的な場なのかもしれません。
「哲学は楽しい」というリスク
ところが、哲学カフェで、「政治」を取り扱う、「政治」を問題の対象にすることには、ひとつの困難性というか、倫理的な問題が付き纏います。
それは一種の「娯楽」に転嫁する危うさです。
「戦争は、それに関係ないものにとっては最高のショーである」とはチャーチルの至言ですが、「暴力性」=「戦争」を本質的に内包する「政治」にとっても、事は全く同じです。
米国の政治学者チャールズ・E・メリアムは、政治権力が権威を獲得あるいは服従を調達する際に用いる二つの様態(方法)を「クレデンダ」と「ミランダ」の2つに整理しています。
「クレデンダ」とは、被治者の合理的(理性的)な部分に訴えるもの。例えば、合法性や選挙による正統性。または、その政体の根拠となる政治理論の妥当性などです。
「ミランダ」は被治者の非合理的な面(情念・感性)に訴えるものであり、例えば、国旗や国歌、軍事パレードや王政などが挙げられます。
現代日本におけるこれを考えた場合、クレデンダとしては、日本国憲法や、いわゆる「戦後民主主義」といった政治思想が挙げられますが、いずれも現代においては古色蒼然とした小難しいものと倦厭されがちです。
ところがもっと「楽しい」、「刺激的」なものがあります。
それは先の大戦の評価を巡る肯定的評価(修正主義)や、それにまつわる言説、それに連なる形での、いわゆる「日本スゴイ論」です。
歴史上の一側面や抽出した史実・エピソード(実証史学や公平性を無視した形での)、当時の政治権力のスローガン(プロパガンダに過ぎない)etc.
そういった形での情念に訴えるものの方が、緻密な議論よりも、はるかに受け入れやすく「興奮」「陶酔」するのです。
これを「政治」(権力)の側から捉え返せば、まさしくミランダとして利用できる「政治的資源」となるのです。
このミランダは、利用される側にとっては、一種の快楽として作用します。
哲学カフェにおいて、「政治」をテーマとした場合、後者のような事態に陥る可能性は否定できないどころか、大いにあります。
なぜなら、多くの哲学対話・哲学カフェが標榜しがちなコンセプトのひとつは「楽しい」「誰でも」「難しくない」だからです。
「政治」のミランダ的・プロパガンダ的な側面の「刺激性」「快楽性」「反知性」は、この「楽しい哲学」と、すこぶる相性が良くなってしまう。
その「刺激性」の正体は、「政治」に内在する本質的な「暴力性」「加害性」、言ってしまえば「殺人性」です
「政治」は本質的に生殺与奪の問題を避けて通れません。
故に、多くの「哲学カフェ」が喧伝する「楽しい」というアピールが、「政治」と合わさることで大きな倫理的緊張を孕みます。
「哲学は楽しい」が「政治は楽しい」を内包する時、極めてグロテスクな状況が出現します。
あえて問えば、「アウシュヴィッツを語ることは愉しいか?」
アウシュヴィッツやヒロシマは、ある意味で「政治」の極北にあります。
「政治」をテーマにする哲学対話の背後に、常にその問いは隠れています。
どうも人類は、「政治権力の実力行使」(=戦争行為)に「魅力」を持ってしまっているようです。
戦士群はその共同体が死への怯えと将来への不安に窮々としているだけの奴隷の集まりではないことを誇示する者たちとなるからである。美しい戦士たちを持っていること、これは共同体の誉れ、吝嗇と貯蓄を盛大に蕩尽してみせる「自由」を誇示する誉れとなるだろう
市田良彦・他著『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』新曜社、1989年、17頁。
「政治」の魅力が「戦争」の魅力でもあるならば、「政治」を哲学対話で扱うという事には、ゆめゆめ注意が必要です。
哲学対話に不作為の責任はあるか?
以上、「政治」と哲学対話・哲学カフェの関係を見てきたわけですが、依然、反論は可能でしょう。
曰く
「政治の重要性も危険性もわかった。しかし、すべての哲学対話の場が、政治を扱う必要もないのではないか?純粋な哲学的テーマ、例えば“美しいとは何か?”や“神とは何か?”のようなテーマがある。」
それはその通りです。哲学(形而上学)そのものにとっては「政治」から超然としているでしょうし、そうあるべきなのでしょう。
そのような哲学者の生、真理を観照(テオリア)する生き方は。哲学者の理想的生き方ですが、しかし、なお、「不足」しているものがあるのではないでしょうか?
「しかしね(中略)それだけでは、最大のことをなしとげたと言うわけにもいかない。―彼の住む国家のあり方が、自分の素質にぴったりと適合したものでないならばね。なぜなら、そのようにぴったりと適合した国家においてこそ、彼自身ももっと成長するだろうし、個人的なものとともに公共の事柄をも、安全に救うことになるだろうから」
プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、51頁。
プラトンに言わせれば、隠者になって、「政治」の暴虐に目を瞑ることは、究極的には「真善美」を目的にする哲学者にとって正しいのか?と。
更に別の視点からも、ひとつの問題が生じます。
哲学対話が政治に対して超然としていられるという態度あるいは意志は、それは政治権力に対して「何もしない」(不作為)ということを否応なしに表明していることになるからです。
つまり、この「何もしない」ということが、そのままひとつの政治的行為になってしまう場合もあるのです。
丸山真男は、「不作為の責任」にかんして、ナチスへの抵抗運動を描いた映画を引きながら、次のように述べています。
つまりそれは不作為の責任という問題です。しないことがやはり現実を一定の方向に動かす意味をもつ。不作為によってその男はある方向を排して他の方向を選びとったのです。
丸山真男『政治の世界』岩波書店、2014年、411頁。
特にこれを感じたのが、昨今の、日本学術会議の任命拒否問題、中国の国家安全法施行等の香港での民主派弾圧についてです。
前者は学問の自由と政治権力の介入という、学問ひいては哲学にとっては危険な兆候であり、決して市井の哲学対話・哲学カフェにとって無関係ではないものです。
後者は、デモクラシーが圧死する寸前の悲鳴であり、黒い「政治」の恐ろしさと、それこそ「民主化の哲学」にとっての重大事です。
ところが、これらの事態に対して、哲学対話・哲学カフェといった界隈の反応が恐ろしく鈍いか、皆無に近かったことに大きな驚きを覚えました。
先の「不作為」の問題が頭を擡げます。つまり、不作為によって暴政は簡単に生誕してしまうし、デモクラシーは簡単に死ぬという。
それは再び、アウシュヴィッツやヒロシマの道に繋がります。
もし、哲学対話・哲学カフェに政治的な使命があるとしたなら、それは、「アウシュヴィッツを繰り返させるな」に尽きるのではないでしょうか?
もしそれに失敗(傍観)したならば、将来、我々が参加するのは「アウシュヴィッツで哲学カフェ」という最悪の結末が待っているかもしれません。