「8月ジャーナリズム」の退潮と民主主義の退潮~リベラル・アーツの意義(8/15終戦記念日に寄せて)

「8月ジャーナリズム」という言葉があります。毎年8月になると、テレビなどで戦争特集が組まれて、8/15の終戦記念日でピークになる現象を揶揄した言葉です。

「8月だけ、戦争特集を次々に打ち出すのは如何なものか?」という疑問が背景にあるようですが、果たして、どうなのでしょう。

余暇と祝祭

逆に言うと、365日、四六時中、「戦争」ひいては「歴史」を考えているべきだ、という意見の裏返しとも言えるでしょう。

なるほど、それはそれで一理あるかもしれません。

しかしながら、人にはそれぞれの生活があり、人生や社会のテーマ・課題も多様です。一部の人を除けば、ひとつのことをずっとやっているわけにはいかないでしょう。

その為に、特に、その集団(国民とか)に共有されるべき「事柄」にかんして、思いや考えをめぐらす時間を、「記念日」のように設けている訳です。

ところが、この「記念日」の本来の意味が軽視されている現状があります。

本質的に「記念日」と「(仕事のない)休日」は違います。

現代のように、資本主義経済が徹底され、万人が労働生産に組み込まれていると、「休日(余暇)」というものが、次の労働の為の準備期間(充電時間)に見なされがちです。

しかし、本来はそうではないのです。

「余暇」は何によって正当化されるかといえば、労働者が余暇をもつことでスムーズに、「事故なしに」働くことがきるからというのではなく、むしろ余暇をもつことで人間性を失わない、ということが大事なのです(ニューマン枢機卿なら「ゼントルマンでありつづけることができる」ということでしょう)。

ヨゼフ・ピーパー『余暇と祝祭』講談社、2001年、74頁。

ここでのゼントルマンというのは、

西欧の伝統を形成した人々は、「実益をめざさない人間活動もたしかに存在する、リベラルアーツはたしかに存在する」とはっきりのべています。いいかえると、職能的な知識だけでなく、「ゼントルマン」の知識も存在するのです。

同上書、58頁。

このゼントルマンたる為の「余暇」において、人は、資本主義のたんなる「歯車」ではなく、「自由人」であることを再認識するのです。

ゼントルマンの知識の典型は人文学でしょう。そしてそこには歴史・文化も当然含まれます。いわゆる「リベラル・アーツ(自由学芸)」です。

さて、そこで、記念日が問題になります。

「余暇」の本質が「ゼントルマンであること」ならば、特にその中で、その共同体で共有(共に思い出し、共に考え、共に学ぶ)すべき「余暇」を、「記念日」として、特に指定することがあります。

フランスであれば、7/14の革命記念日(バスチーユ監獄襲撃の日)米国なら6/14の奴隷解放記念日etc.

数多くの記念日が設定されています。

日本でも多くの記念日があり、特に法律によって祝日(休日)に定められているものがあります

本来、そこには、その日を祝日にする意味があるのですが、果たして、その意味は周知されているのでしょうか。

これは日本に限ったことではありませんが、ピーパーが指摘するように、「余暇」が、労働に対しての「ご褒美」あるいは「充電・回復期間」としての色彩を強めてしまって、本来の、記念日(祝祭)の意味合いを喪失している点は異論がないでしょう。

いま、その祝日当日に、その記念されている意義に思いを致す瞬間がどれだけあるでしょうか?

特に、日本政府が導入した「ハッピーマンデー制度」は、連休を作るために、固定の日にちから第●週の月曜日に移動させるという、記念日の本旨から完全に逸脱した政策です。

このような状況で、8/15にピークとなる「8月ジャーナリズム」の存在は、日本人全体が、日本の「過去(太平洋戦争)」を、思い起こすための「記念日」の抵抗線といえます。

「せめて8月くらいは思い出して、考えよう」と。

更に言えば8/15は、特に国定の休日になっている訳ではありません。

左右の主張や歴史観は置いておいて、これは首を傾げざるを得ません。

歴史という鏡

他方、過去の「戦争」に関して、戦後70年以上も経過して、いつまでも(こだわ)るのは如何なものか?という形での「8月ジャーナリズム」への疑問も出てきているようです。

現実の8月の番組編成表は、年々。この意見(風潮)に与しているようです。

以前の「8月」はNHK・民放とも、戦争関連番組が、それこそ目白押しでした。

ゴールデンタイムに各局の「終戦特集」が重複することも普通でした。

ところが年を追うごとに、その数は激減し、NHKは細々と、民放はお茶を濁す程度に続けている有様です。

ピーパーの議論を敷衍すれば、「歴史」を考えようとするゼントルマン(自由人)があまりに減っているといえます。視聴者にも、制作サイドにも。

テレビ局も営利企業である故に致し方ない、という意見もありますが、「報道」という責務も同時にあります。

それはゼントルマン(自由人)に奉仕する側面です。

ところで、ゼントルマンが身に着けるべき「リベラル・アーツ(自由学芸)」とは一体何なのでしょうか?

自由(リベラル)()学芸(アーツ)」とは、それ自身のうちに目的をふくむような人間活動です。これに対して「奴隷的学芸」といえば、それ自身のうちに目的はなく、むしろ実践を通じて到達されるべき何らかの実益をめざす人間活動のことをさします。

同上書、53頁。

大学で人文系の学問(歴史や哲学)が前者にあたるとすれば、後者は、いわゆる「すぐに使える技術」、実学の類です。

奴隷的技芸はその名の通り、「資本」あるいは「経済」の奴隷に陥りやすいのが現代の特徴です。

では、リベラル・アーツを身に着けることと「8月ジャーナリズム」の関係はどうなのでしょうか?

歴史。今回のお話で言えば、日本にとっての第二次世界大戦を、回顧すること、知ることは、その共同体(国家)の存続にとって不可欠なものです。

エドワード・ギボンはローマ史を眺めて、その現代との類似性に驚いて『ローマ帝国衰亡史』を著したという逸話が残っていますが、歴史は現代にとっての鏡です。

(『ローマ帝国衰亡史』自体に関しては。歴史学界からは問題も指摘されていますが)

人間やその集合体である国家の行動原理、行動パターンは、本質的に変わっていないと言えます。その意味で、過去というのは、言ってしまえば、現代であり、未来でもあります。

歴史(ひいては歴史学)の重要性はそこにあります。

ゼントルマンたるを放擲し、生活ばかりに汲々として、資本の奴隷に甘んじてしまえば、この鏡は決して得られません。

それは、無計画・無反省な、場当たり的な国家への道になります。

国家の存亡を賭けた全面戦争においてこそ、その国家の本性・本質は曝露されるとも言えます。1940年代の日本も例外ではないでしょう。

もちろん、リベラル・アーツの本道は、大学を筆頭とする教育においてなされますが、テレビメディアも「映像作品」などの独自の領域から、これを大いに助けることができます。

あの戦争を、日本という「共同体」が集合的に記憶することが、重要であり、そのひとつの手段が「8月ジャーナリズム」なのでしょう。

民主主義の退潮

「歴史」というものが、国家の存亡の鏡であると言いましたが、更に言えば、それは民主主義にとっての羅針盤でさえもあります。

民主主義の困難性は、そもそもその成員全員がゼントルマンでなければならないところにあります。

「もし神々からなる人民があれば、その人民は民主政をとるであろう。これほど完全な政府は人間には適さない。」

ルソー『社会契約論』岩波書店、1989年、97-98頁。

このルソーの悲観的な言葉通り、その成立と維持は、非常に困難なものがあります。

成員全員が政治参加の意義を理解し、意欲をもって、理性的・合理的に判断できること。

この能力に一歩でも近づく為には、リベラル・アーツの修得を疎かにできません。

漠然と制度だけを与えられた状態では民主主義は機能しません。それは、形だけのもの、名ばかりのものになってしまいます。

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義()いう(・・)()()制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年、156-157頁。

丸山に言わせれば、民主主義は「永久革命」という「プロセスの継続」だというわけです。

このプロセスを担うのがゼントルマンです。

ゼントルマンが後退すれば、民主主義も後退します。

「歴史」はその例証に溢れています。

日本についていえば、まさにその丸山が理論的な指導者とされた「戦後民主主義」というものが、8/15に終焉した大日本帝国というものと厳しく対峙した訳です。

「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。」

丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、585頁。

国家総力戦体制により、民主的なものが極度に緊張状態にあった時代を考える為にも、「8月ジャーナリズム」はその意義を高めることがあっても失うことはありません。

「政治」センスの退潮

最後に、「8月ジャーナリズム」批判に見られる、「戦争」を考えないという風潮の別の側面も考えてみます。

それは、「戦争」という体験が、二度とこの国で起こらない、あるいは自分の身には降りかからないという楽観論の蔓延です。つまり「戦争」を知ることは「無駄」であると。

これもリベラル・アーツの不足というべきものであり、または「政治」センスの欠如といえる現象です。

なにも、「8月ジャーナリズム」は「戦争は悪い」という道徳的・倫理的な側面だけをクローズアップするばかりではありません。

そうではなくて、「戦争」は再び起こるし、自らも当事者になりえるということを理解させることにもあります。

「戦争」は遠い日の花火でもなければ、本の中の昔話でもありません。

これは「国家」ひいては「政治」を捨てられない人類の宿命のようなものです。そこに思い及ばないのは「歴史」あるいは「政治」センスの欠如です。

「政治」(権力)というものは、全てを、あらゆるものを手段化します。

宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。

こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。

丸山真男『政治の世界 他十篇』岩波文庫、2014年、91頁。

ここに「政治」のデモーニッシュな本質が象徴されます。

そこでは、個人の「自由」も「生命」も捧げられる。

「歴史」を真摯に見つめることは、この事実を直視することです。

眼前に兵士が銃口を向けて立っている時になって気が付いても手遅れです。

「8月ジャーナリズム」によって、その事実を思い起こす日、季節でもあるのです。