有川浩『図書館戦争』の政治学的考察③(国際政治的側面)~日米同盟か日中同盟か、海洋国家か大陸国家か

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有川浩『図書館戦争』の政治学的考察②(政治思想的側面)~戦後民主主義の死と前近代への回帰

「政治が力のバランスの上に立っているという現実を、理想論におぼれて見失ってはならない。」

エドワード・ルトワック※1

第1回で、図書隊と良化隊の軍事的側面を。第2回では正化日本の政治思想的側面にスポットを当てましたが、第3回では、我らが笠原郁 図書士長の(ひそみ)に倣って、国際(グロー)感覚(バル)を持った妄想考察を進めていきましょう。

日中関係は良好になる?

日本外交にとっての昨今の懸案は、東アジア外交でしょう。

しかし、おそらくは、現実の日中関係よりも、正化のそれは、はるかに「良好」「友好」的なものになる筈です。

逆に欧米先進諸国との関係は、現実よりも難しいものになります。

なぜなら、やってることが中国共産党政府の言論統制の二番煎じというか、弱毒版だからです。

故に、中国(及びロシア)の言論弾圧・情報統制・人権抑圧に対して、表立って批難の声をあげることは、極めて困難になります。

例えば、香港で行われた弾圧のようなことがあっても、日本は、西側先進国と足並みを揃えることが出来ません。

中国政府にしてみると、逆にメディア良化法をあらゆるチャンネルで称賛するでしょうし、理解の立場を述べることになります。現実の尖閣諸島問題のような強硬策ではなく、懐柔策で接近してくる。

そうすることで、日本と西側、特に日米関係に楔を打ち込むことが出来ます。

このような状況では、日本の防衛政策・自衛隊の状況も史実と大きく変わります。

史実(現実)では、中朝からのミサイル脅威が増大し、その為に、防衛費において、莫大なミサイル防衛予算が割かれています。防衛費が大きく変わらずに(GNP1%枠)、この負担を続けることは、非常に大きな負担で、通常戦力の維持に支障をきたしてきました。

3.11以降、巷では、いわゆる「自衛隊スゴイ論」が喧伝され、国民にもそのイメージが浸透してしまいましたが、蓋を開けてみれば、自衛隊の通常戦力は危機的状況です。

正化日本では、中国は対日圧力を緩和し、懐柔策に出るでしょうから、中国からの脅威は減りますし、同時に、中国の圧力で北朝鮮の挑発的な行動も自制されるかもしれません。

そうすると、ミサイル防衛という課題自体(更には南西諸島防衛)が、大きくその優先順位を下げて、正化の防衛・自衛隊は、史実ほど切迫・緊張した状態には置かれないでしょう。

では、そのような状況下での正化の日米関係はどうなっているのか?

国家理性とイデオロギー

国際関係を考える上で、イデオロギーの結びつき、つまり「同じ自由民主主義陣営」だから、という面と、国家理性による結びつきの両面があり、この両面が複合的に絡み合って、国際政治は展開していきます。

イデオロギーは理解しやすいとして、後者の「国家理性」とは何か?

「国家理性(レーゾン・デタ)」という概念は聞きなれないかもしれませんが、人口に膾炙する言葉でいえば「国益」と、ほぼ同じ概念です。正確には「国益」の元になる概念でしょう。

フリードリッヒ・マイネッケは『近代史における国家理性の理念』で次のように言います。

「国家理性」と呼んだもの、つまり各国家は自己の利益という利己主義によって狩りたてられ、ほかの一切の動機を容赦なく沈黙させる、という一般的な規則から生ずるものである。しかしそのさい同時に、「国家理性」は、つねにただ適切に理解された利益、つまり、単なる貪欲の本能から浄化された合理的な利益のみを意味する

『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1964年、148頁。

国家が国家自体の生存を何よりも優先するというこの論理は、ほとんど、国家・政治にとっての宿命のような響きがあります。

戦後日本は、米国の占領統治により、すっかり自由民主主義というイデオロギーに染まったわけです。

戦後日本が西側自由民主主義陣営の一員であることに違和感はありません。

ところが正化日本は、すっかり思想的に様変わりした。戦後民主主義は自殺した。

ではどうなるのでしょうか。

冷戦期、米ソ両国が激しく対立して、世界を二分するかのように、軍事同盟を締結した訳ですが、米国を盟主とする西側にも、とても、民主主義国家とは言えない国々があったわけです。

お隣の韓国軍事政権や李登輝以前の中華民国(台湾)、フィリピン、中南米諸国etc.

これはどういう事かというと、国家理性によって、国益(軍事戦略、地政学上)の観点から、同盟している訳です。

イデオロギーからいえば同盟できるわけがない。

正化日本も、ほぼこれと同じ形になります。

検閲という言論統制をやっている日本は、もはや自由民主主義の友人とは言えないが、国家理性・国益の観点から、西側の主要国・友好国の地位にいるに過ぎない。

思想的にはアレ(・・)だけど、利益があるから一応仲間(いや、子分・手下)、みたいな。

ここから、いわゆるダブル・スタンダードの問題も起因するわけですが、ともかく「デモクラシーを理解できなかった権威主義・社会主義のエコノミックアニマル」として、日本は西側陣営に顔を並べることになります。

「海外の新聞でもメディア良化法についてはたまに取り上げられてるしね。良化法を持つ日本は準民主国家かつ準社会主義国家でもある『コウモリ』だって強烈な批判も見たことがあるわ。いくらソ連が崩壊したからとは言っても、民主主義社会に強烈な社会主義アレルギーがあることに変わりはないしね。国際世論は当麻先生に強く同情するはずよ」

有川浩『図書館革命』角川書店、2011年、197頁。

さぞ、サミット(G7 /先進国首脳会議)では、日本国首相は肩身が狭いことでしょう。

『図書館革命』では、当麻蔵人亡命事件で、英米が日本に対して強い批判を行って、日本側が折れる結末でしたが、裏では、日本の「G7からの除名」くらいの脅しはあったかもしれません。実際、一時メンバーであったロシアは、クリミア侵攻により、サミットから事実上「追放」されましたし(G8からG7へ)。

「瓶の蓋」論の再燃と在日米軍

日本が言論の自由のない権威主義的経済大国となった正化では、いわゆる「(びん)(ふた)」論が、米国で活発化するかもしれません。

つまりこれは、日米安保条約・在日米軍は、日本が再び軍国主義に走るのを防ぐ、いわば瓶の蓋の役割を担っているという議論です。

日本が主権を回復し、国際社会に復帰、経済大国の道を歩み、民主政体であることが当たり前になると、非現実的な議論とされてきました。

ところが、90年代(正化)に入って、メディア良化法が成立すると事態は一変します。

メディア良化法が日本におけるデモクラシーの「終わり」であり、「いつか来た道」を想起する欧米知識人は多いでしょう。

これに、中露などへの批判に消極的なことまで加味すれば、在日米軍、ひいては日米安保条約が、本当に「瓶の蓋」である必要が、ワシントンで真剣に議論されるのは想像に難くない。

日本の軍国主義の排除と民主化を推進したGHQ(またはSCAP)の、つまりマッカーサーの占領政策の賞味期限は1980年代までだったことになります。

いわば、マッカーサー(とその配下のニューディーラー達)は、日本の民主主義の「教化」に失敗したのです。

ここから対日政策は、同盟国をどう遇する(連帯する)という観点から、離反と軍国化への警戒・抑止にシフトしてきます。

在日米軍基地の縮小(整理・返還)は、棚上げされ、逆に在日米軍は強化されるかもしれません。

また、中露などへの接近を警戒し、軍事技術の漏洩防止として、自衛隊への米国製兵器の提供(輸出・技術供与)は、制限されたり(いわゆる兵器のモンキーモデルやブラックボックス化)、見送られるでしょう(90年代に配備されたイージス艦は取り止めになるかもしれません)。

かつて、米国はイラン(パーレビ―王朝)に武器供与していましたが、ホメイニ師によるイスラム革命(イラン革命)で、一転、敵対関係となりました。

その為、米国製兵器を保有する反米国家が誕生した訳です。

有名なのは、映画「トップガン」でお馴染み、アメリカ海軍も配備していたF14トムキャット艦載戦闘機でしょう。

米国にとっての悪夢は、中国に日本が接近し、最終的に日中同盟が成立することです。

F15を装備した反米国家など最悪の仮想敵でしょう。

(もちろん、日本が離反した場合、米国の支援・供与がなくなり、米国製兵器の稼働率は年を追うごとに劇的に低下していく事でしょうが)

かつて、冷戦時代にソ連軍が東ドイツに駐留していたころ、駐留ソ連軍は同盟軍(ワルシャワ条約機構軍)のはずの東ドイツ人民軍への警戒を緩めませんでした。

これは、ソ連が、煮え湯を飲まされてきたドイツに対しての歴史的な警戒心から、彼らを全く信頼していなかったということです。

最悪、同じことが日米両軍の関係に起きるかもしれません。

キューバ化する日本?

万が一、日米安保条約が終了(あるいは形骸化)するような状況にまでいった場合、どうなるでしょうか?

(その前に、米国は何としても阻止するでしょうが)

まず、いくつかの在日米軍基地は絶対に返還しないでしょう。

(日本側は横田基地を首都圏第三国際空港にしたいでしょうが)

在日米軍基地は、極東戦略のみならず、米軍の世界戦略を支えるハブの存在にあたるからです。手放して、在日中国軍基地になぞさせるわけがない。

特に、横須賀基地はまず手放さないでしょう。米海軍の大型正規空母を受け入れられる貴重な軍港ですし、首都東京の目と鼻の先であり、東京湾の入り口を抑えている。

考えられるのは、キューバのグアンタナモ基地の前例踏襲です。

キューバでは、親米のバティスタ政権が、カストロらによるキューバ革命で倒され、反米政権が成立しました。

しかし、そのキューバには以前から租借しているグアンタナモ海軍基地があり、米国はそれを返還せずに維持しています。反米国家の中に、地雷原で囲まれた米軍基地がある奇妙な状況。

在日米軍基地も同じようになるかもしれません。

また、米軍基地が集中する沖縄の運命も劇的に変化するかもしれません。

つまり、日米関係の悪化は、沖縄に何をもたらすのか。

大前提として、米国は沖縄を軍事戦略上の理由から全く手放す気はない。

それを踏まえた上で、日本の米国からの離反を想定せざるを得ない状況が迫っているなら、採りえる最上の策は、沖縄を「琉球」として、日本から分離独立させ、米国の保護国のような状態にしてしまうことです。

たとえ、日本が離反しても、強大な「不沈空母」たる琉球が存在することで、米国の東アジアでのプレゼンスを維持するのです。

日本の代わりとしての琉球です。

ただし、この想定には、沖縄県民の反基地感情が考慮されていないので、そこをどうするのか。米国側に沖縄のその立場・感情を理解し、米政府をリードできる人物がいることと、沖縄側にこの状況を上手く利用できる度量をもった政治家がいることが条件になるでしょう。

(関連記事:ゴルゴ13「沖縄シンドローム」~沖縄が独立する日

学術的な日本の国際的地位の低下

「学問の自由は、これを保障する」

日本国憲法第23条

上記までの議論は、ハードパワーのお話で、更にはソフトパワーでも、正化日本には大きな変化が起こるでしょう。学問の世界です。

いわゆる理系、即ち理工医はともかく、人文・社会科学系の学問は衰退することになる恐れがあります。

理工医は、実学として、そのまま研究は継続できるでしょうし、むしろ国も大きく投資するでしょう。

しかし、人文社会科学は逆に苦境に立たされます。

そもそも、国家が恣意的に検閲を行うということは、一体学問に何をもたらすか?

トマス・ホッブズは、以下のように書いています。

もしも「三角形の三つの角は、正方形の二つの角に等しい」ということが、領土についてのだれかの権利とか、所有者の利益とかに反するならば、この説の審議は論争されなくとも、幾何学にかんするあらゆる著作は焼きすてられ、関係者の力の及ぶかぎりこの説が抑圧されたであろうことを私は疑わないのである。

トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(世界の名著28)中央公論新社、1999年、138頁。

これ、そのまんまメディア良化法ですよね。

学問的真理が権力維持に邪魔であれば、全力で排除する。

学問的真理、その主な舞台となる高等教育、大学はどうなってしまうのでしょうか。

大学図書館は、大学教育・研究を支える中核の施設です。

メディア良化法の下で、大学図書館の扱いがどうなっているのかの、記述が無いので、推測が難しいのですが、私立大学、自治体設置の公立大学(都立大など)、国立大学で、状況が違うかもしれません。

第1巻の終盤、「情報歴史資料館」攻防戦に見られるように、私立図書館は図書防衛権を持つようですので、蔵書は守られるであろうと推定されます。

自治体設置の公立大学は、微妙な立ち位置ですが、図書隊が介入できるかもしれない。

では、国立大学は?国立ですから・・・

とまれ。ですがここでひとつの光明があります。

「大学の自治」の問題です。

憲法23条では学問の自由が掲げられていますが、ここから導き出されるのが「大学自治」の原則です。

学問は、自由な言論・議論・研究を通じて行われるものですから、外部の権力・勢力が介入することは、それが喪われることに繋がります。

よって、大学は、歴史的に外部(特に国家権力や教会)と緊張状態の中、権利の闘争(大学の自治)を続けてきたと言えます。

日本も例外ではなく、戦前でも、国立の帝国大学も、国家権力(文部省や内務省)と緊張状態にありました。

戦後、憲法23条や各種法令や判例で、大学の自治は強化されてきました。

正化の日本政府も、おいそれと、その境界を乗り越えて、検閲権を大学に行使しようとしないでしょう。

一番ありそうな例は、大学がメディア良化法における一種の無風地帯・エアポケットのような形に落ち着く状況かも知れません。

体制も「学者が象牙の塔にこもって、社会に大きな影響を与えない限りは、黙認する」し、大学(教授団)も、「学問の自由の為、最後の砦として、検閲抗争に目を背けて、大学自治を守る」という、妥協です。

しかし、このケースでも、体制側は、大学入学者数を抑制する政策を打ってくるでしょう。

反体制を育てる苗床になる大学よりも、実学(経済成長に利する)に寄った専門学校や理工医の単科大学を優遇するかもしれません。

皮肉なことに、これにより、いわゆる「大学の大衆化」には歯止めがかかり、「大学のエリート化」に復古するかもしれません。

ですが、もし教授団が過度に萎縮してしまうと、いずれの大学でも大学当局は、検閲による没収・廃棄を恐れて、次善の策として、検閲対象、あるいはなりそうな書物を、全て閉架書庫に移してしまい、かつ閲覧制限を設けることで、実質的に「死蔵」してしまうかもしれない。

なにせ、相手は、法務省の国家機関でありながら、良化法賛同団体という「私兵」で、テロ行為までする連中です。

検閲抗争の「戦火」が大学構内に及び、貴重な蔵書が永遠に失われるくらいなら、封印してしまおうと。

いつか、言論・出版の、学問の自由が回復されるその日まで・・・。

書籍が閉架・制限されることで、人文社会科学の教育・研究は大きく後退します。

書籍・資料・史料が読めないんですから。

こうなると、特に「政治」と緊張関係にある学問の代表である哲学や政治学は、もはや日本では成立の余地がないのかもしれません。

また、学術書の類の出版も、かなり困難になるでしょう。

作中の描写を見る限り、一般文芸や大衆雑誌の類で、あれだけ狩られるのです。学術書なぞ壊滅的でしょう。

高等教育の危機です。優秀な頭脳が、海外、特に西側の大学や研究機関に移籍・移住することになります。実質的な亡命です。

確かに、図書館は検閲対抗権を持ち、図書隊によって蔵書を死守し、閲覧の機会を確保し続けています。

しかし、一般大衆が、分けても、インテリ層が、自由に本が買えない状態が30年近く続いてしまったとき、何が起こるのか。この時代、本は、検閲・自主規制・高額化の三重苦を味わう訳です。

果たして書店に、岩波文庫は棚に並んでいるのか?未来社は?みすず書房は?

インテリ層の文化資本の継承、インテリの再生産が途絶える可能性は?

また、東京のインテリ、読書層を支えてきたとも言える、世界最大の古書店街・神保町。

ここは正化日本に存在しているのか?

もし、ここが「消滅」していれば、それこそ取り返しがつきません。

古代の叡智の宝庫であったアレクサンドリア図書館の「最期」については諸説ありますが、イスラムの軍勢に焼かれたとされる説では、次のような「劇的」な言葉により、「焚書」が決断されています。曰く、

「ここにある書物が、()(ーラ)()と同じであれば不要であるし、もし()(-ラ)()に反するならば有害である」

とオマル(ウマル、第二代カリフ)は命じたとされています※2

もし、神保町古書店街が潰滅した時、時のメディア良化委員長は、こんな言葉を吐いたのかもしれません。曰く、

「ここにある書物が、国体と同じであれば不要であるし、もし国体に反するならば有害である」

と、言ったとか言わないとか。

突然、「国体」などという古めかしい言葉が出てきましたが(もちろん、国民体育大会に非ず)、国家権力が恣意的に検閲・焚書できるならば、実質的に「国体」は蘇っています。

(「国体」のお話は後述します)

ともかく、この状況では、国民全体の教養レベルの低下は避けられませんし、長期的には学術・文化レベルの凋落も避けられません。

早晩、経済大国、先進国から脱落するでしょう。

インターネットの興隆の中、近未来の読書に関して、こんな「予言」があります。

深い読みの習慣-「その静けさは意味の一部。精神の一部」―は、衰退し、縮小しつつある少数の知的エリートの領分となるだろうことは間違いない。

ニコラス・G・カー『ネット・バカ』青土社、2010年、154頁。

正化日本は、これがもっと大規模に国策として進行してしまうのです。

方舟としての沖縄独立

ところで、先ほど、沖縄県が米国の後押しで、日本から分離独立したケースをお話ししましたが、これが日本語圏(・・)の学術的・文化的衰退への処方箋、救いになるかもしれません。

もし、沖縄が民主共和政体としての「琉球」で独立できたならば、そこは、同じ日本語圏でありながら検閲の無い、日本語話者のインテリ・メディア、クリエイターにとっての逃避地として最適の地となるからです。

考えてみれば、日本語を国語・公用語とする別の国家が存在しても、別段、不思議なことではありません。

日本人は「日本」という国家が自明のものとして捉えがちですが、国民国家は多かれ少なかれ、人工的・作為的なものです。

「国語」という概念自体、近代に国民国家(ネイション・ステイツ)を「人工」的に作る際に、一言語をある地域全体の共通語として学校教育によって規律・矯正したものです。

そもそも、共同体には様々なレイヤーがあって、政治共同体(国家)としての「日本国」と文化的共同体(「クニ」)が必ずしも完全一致する必然性はありません。

特に、沖縄においては。

英語を公用語とする国家がいくつもあるように、日本語を公用語とする国家が2つ(日本国と琉球共和国)あっても不思議ではありません。

そう考えると、琉球には、メディア良化法を忌避する日本からの「移民」が大幅に増え、日本語の人文・社会科学が自由に研究・教育され、サブカルチャーを含む文化・文芸が興隆します。

日本語圏の学術・文化・文芸にとって、そこはまさに「方舟」なのです。

学術的・文化的に将来、日本に逆転する未来すら夢ではない。

当麻蔵人亡命事件も、もし、沖縄が分離独立していたら、その第一候補でしょう。

「未来企画」なら、このプランを採用するでしょうか?

宗教警察化するメディア良化隊

公立図書館を例外にするにしても、検閲によって、国内の批判勢力・反対勢力を、ほぼ沈黙させ、体制側に都合のいい方向に国内を誘導可能になった正化の日本政府ですが、それは、実質的に正化に「国体」が復活したことを意味します。

正化日本の「国体」、つまり、メディア良化委員会・良化隊が「検閲」によって領導する、それは何か。

それは、一元論的国家への回帰でしょう。

本来、「国家」、「政治体制」、「政権」というのは、それぞれ全く別のものです。

ところが、日本では、これを全て同じものと見てしまう傾向があります。

メディア良化法はこの視点・感覚を強化する恐れがあります。

特に、恣意的な検閲権を行使する「政権」は、自身の思惑・イデオロギーを、社会正義として、社会全体に浸透・教化させることができます。

つまり、積極的に自己のイデオロギーを宣伝しなくても、自己のイデオロギーに反する書物を排除し、社会から遠ざけ、隠すことで、実質的に社会の方向性をコントロールできる。

権力とって、最も経済的な権力行使は、被治者(国民)が自発的に服従してくれることです。

日本でそれをやろうとすれば、手っ取り早いのは、「政権」を、その時に一時的に政治を担っている国民の代理人ではなく、日本人が日本人たるゆえんたる日本「国家」と同一視させることでしょう。

いわば国家の「神聖化」です(戦後民主主義の真逆)。

そうすれば、「政権批判」は「反日」や「売国奴」のレッテルのうちに葬ることが出来る。

丸山真男は「国体」を「非宗教的宗教」と表現しましたが※3、まさにメディア良化法の完成は「非宗教的宗教」でしょう。正化という時代の「国体」です。

その意味では、良化隊は実質的に「宗教警察」です。

「宗教警察」と聞いて、多くの人は身震いしたり、眉をひそめるでしょう。

そこで連想されるのは、かつての異端審問所や検邪聖省、現代で言えば、サウジアラビアの勧善懲悪委員会、イスラム国(IS)のヒスバ庁でしょうか。

その恐ろし気なイメージとは別に、宗教警察が担っている別の側面を考えましょう。

サウジの勧善懲悪委員会と市民の関係についてですが、

勧善懲悪委員会が市民にとって、社会に対する「ガス抜き」のような役割を果たしているとも考えられる。たとえ様々な生活規範に不満を持ったとしても、閣僚やウラマー、ましてやイスラームの教えそのものを批判するわけにはいかない。しかし、勧善懲悪委員会であれば容易に批判できるというわけだ。

(中略)それは閣僚やウラマーにとっても都合が良い事態だということになる。場合によっては自らに及ぶ可能性がある市民の不満を、勧善懲悪委員会が受け止めているというのが実情であろう。

高尾賢一郎『イスラム宗教警察』亜紀書房、2018年、135-136頁。

この観点から、良化隊の存在を考えてみると、高圧的な良化隊の態様は、「悪役」を演じさせて、国民一般の憎悪を一身に受けることを目的にしているかもしれません。

もし、戦前のように、警察が検閲を行えば、警察への市民の見方は大きく変わるでしょう。

つまり、警察への好感度や信頼度は下がり、それが検挙率の低下、ひいては政権・体制の不安定化に繋がります。

それを避けるために、わざわざ良化特務機関を創設した。

そして、日本の政治状況(中央―地方関係)から、不可解と言わざるを得ない広域地方行政機関「図書隊」の設置も、検閲抗争を演じさせ、国民一般の検閲への不満の「ガス抜き」として、黙認した可能性もあります。

また、国際社会(特に欧米)に対しては、「良化隊」に批判の矛先を向けさせることが、狙いかも知れません。

ちょうど、イランの革命防衛隊が欧米からの槍玉に常にあがるように。

そうすることで、警察や自衛隊を良化法・検閲抗争の枠外に置くことで、欧米との関係に影響を及ぼさないために。

具体的には、警察の海外警察との捜査協力、犯罪者引き渡し。そして安全保障面では、自衛隊と米軍、つまり日米安保体制に。

こうして、良化隊のみを「悪役」にしておけば、いざ情勢が急変した時、彼らを切り捨てて、捨て駒にすれば、日本政府の被害は最小限に抑えることが出来ます。

ナチスの突撃隊の末路ではありませんが、「()兎死(うとし)して走狗烹(そうくに)らる」

トカゲのしっぽ切りですね、政治は恐い。

メディア良化法成立の真相

さて、今まで、正化日本を取り巻く国際関係を見てきましたが、では、そもそも、昭和政界の七不思議とまで言われる、このメディア良化法は、なぜに成立し得たのかを「推理」してみましょう。

「え?それは、あなたが、日本人の民主主義への努力の放棄みたいな話を、第2回で散々やっていたでしょう?」

そう、その通りです。

メディア良化法成立の下地、土壌は、確かに1980年代末に用意されていた。

ですが、国際政治の国家理性の問題などを見てきた今、その苗床から、徒花を芽吹くように仕向けた者がいても、決しておかしくはないでしょう。

それは誰か?

答えはひとつです。

中国でしょう。

中国共産党政府は、将来に、自身の一党独裁や言論統制が必ず、西側の懸念材料になると推測したのでしょう。その時、日本という、隣国かつ経済大国で、西側の有力国が、同じ「言論統制国家」ならば、欧米からの批判を緩和できるだろう、と。

更には、日米同盟を日中同盟に転換することの礎にも。

まさに国家百年の計。

実際、メディア良化法成立の翌年1989年6月には、天安門事件が起きて、西側との関係は悪化します。

そこで、中国政府は、日本国内の親中派政治家や知識人などへの工作を仕組んだのかもしれません。

メディア良化法成立の「闇」、ブッラクボックスを玄田は次のように語っていました。

「そのカードを切れば半径五〇〇㎞圏内が吹き飛ぶ熱核爆弾と同じと思え。良化法はもちろん、切った兄貴も図書隊も、今の政界地図も現内閣もまとめて吹っ飛ぶ。世の中には触れると破滅する暗部ってもんがあるんだ」

有川浩『図書館革命』角川書店、2011年、183頁。

中国の工作活動によって、成立したとするならば合点が行きます。

自民党がCIAの資金提供を受けていたとかいうレベルの話ではない。国際的危機を招くレベルのスキャンダルです。まさに核爆弾ですね。

果せるかな、メディア良化法は日本の民主社会を浸食し、日米同盟に楔を打ち込み、2010年代の米中冷戦において、中国の重要な武器となりました。

大陸国家か海洋国家か

メディア良化法成立・進展というのは、詰まるところ、日本が日米同盟を継続するか、日中同盟に乗り換えるかという、岐路に立たされているといっても過言ではありません。

さらにマクロな話をしましょう。

地政学という国際政治学の元祖のような学問があります。

これは、ほぼ不変的な地理的条件から、様々な国家の行動原理や特徴を捉える学問です。

国際政治学では、とかく国際関係を静態モデルの連続として、その間の変化を細やかにとらえようとする傾向がある。いわば微分的です。これにくらべると地政学的な物の考え方は、国際関係を常に動態力学的な見地からみようとするもので、また全体として積分的な要素が非常に強いようにおもいます。

曽村保信『地政学入門』中央公論社、1994年、8頁。

その中で、海洋国家(海洋(シー・)勢力(パワー))と大陸国家(大陸(ランド・)勢力(パワー))という分類があります。

ここでの大陸とは、ユーラシア大陸のことであり、海洋とはそのユーラシアを取り巻く3大陸(南北アメリカ、豪)と島嶼部です(アフリカについては今回は割愛)。

前者の典型の大陸国家は中国とロシアです。

この両者は、その地理的性格から政治文化が自ずから異なっています。

大陸国家は、大陸という広大な土地を支配するために、又、絶えず陸伝いの侵略の脅威から、専制的・集団主義的、全体主義的な政治体制に陥り易い。

他方、海洋国家は、海と言う開かれた出口があり、貿易や海洋進出に適し、また、海という障壁によって、自己防衛がし易い。

ここから、個人の自由な気風、開かれた社会、民主制、海軍国といった特徴が導き出せると言います。

この2つ勢力は長く対立し合っており、一進一退を繰り広げています。

その一進一退の場、最前線は、主に、ユーラシア大陸の沿岸部で繰り広げられます。

米国の戦略学者ニコラス・スパイクマンは、このユーラシア沿岸部「リムランド」こそ、死活的に重要だと分析しています。

日本もこのリムランドの島国です。

そして、日本はリムランドでの闘争において、大陸国家として振舞ったり、海洋勢力についたり、と、時代によって立場を変えています。

日英同盟では海洋勢力であり、その後の大陸進出で大陸国家に化けて、敗戦。

戦後の日本は、民主国家として、西側の一員として、海洋勢力・海洋国家の道を進んできました。

ところが、正化日本は、あたかも大陸国家の如き振る舞いをしています。

日中同盟を選択すると言うのは、大陸国家の道を選ぶことと同義です。

それは、いつか来た道に他なりません。

終わりに

色々と書いてきましたが、多くの場合、正化日本は、史実の日本よりも厳しい状況に置かれているようです。

これら全て、メディア良化法がもたらす災厄です。

権力が、検閲・焚書という手段で、自己の権力の保存を図った時、それは短期的には、一見、盤石になったように確信するでしょう。

しかしそれは錯覚です。

長期的には、国内外に様々な問題を引き起こし、不安定化の道は避けられません。

「陛下、銃剣をもってすれば何事も可能ですが、ただひとつ不可能なことがあります。それは、その上に安座することです」

タレイラン(ナポレオンに対して)

【了】

【脚注】

※1. エドワード・ルトワック『ルトワックの“クーデター入門”』芙蓉書房出版、2018年、170頁。

※2.この説は、後世の創作の可能性が高いとされている。モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』中央公論社、1991年、168-182頁。

※3.丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年、31頁。

【参考文献】

(全3回を通して)

有川浩『図書館戦争』(全4巻+別冊2巻)角川書店、2011年。

片山杜秀/島薗進『近代天皇論』集英社2017年、213頁。

福田歓一『近代の政治思想』岩波書店、1997年。

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年。