有川浩『図書館戦争』の政治学的考察②(政治思想的側面)~戦後民主主義の死と前近代への回帰

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「考察①(軍事的側面)~第三・四の武装組織としての図書隊、メディア良化隊」

戦後民主主義が虚妄だとか、平和憲法なんてつまらんということを公然と主張できること、そのこと自体が、戦後民主主義がかつての大日本帝国に対して持っている道徳的優越性を示すものではないでしょうか。

丸山真男「二十世紀最大のパラドックス」※1

前回の記事では、図書隊・メディア良化隊という準軍隊が存在する「正化日本」の状況を軍事的側面から妄想考察してきました。

そして、その権力行使の様態が史実の戦後日本と全く異なるものであることがわかりました。

今回は、更に掘り下げて、その背景にある思想的問題を考えていきます。

「戦後民主主義」の死

前回記事の最後にご紹介した、横柄なメディア良化隊員の姿と、現実の日本で見られる官憲の態度との乖離。

それの意味するところは、戦後民主主義下のエートスが死んだ、ということでしょう。

「エートス」というのは、個人あるいは集団(国民・民族)などの、内面化された行動様式です。

単なる行動(外面)ではなく、内面化、つまり、思想・信念・欲求の意識・無意識両面から起因する様式です。

その染みついたものが、昭和から正化に元号が変わる頃、変わってしまったのです。

良化隊員の粗暴な、権威主義的な態度・言動からは、戦後民主主義のエートスが喪われた、少なくとも大きく損なわれたことが窺われます。

それはなぜか?

苛烈な全体主義体制を経験した日本は、その反省(かつ恐怖心)から、「国家」あるいは「政治権力」への不断の警戒心を抱くようになりました。国家との緊張関係です。

敗戦によって日本はようやく、国家の一元的な支配に対する抵抗の根拠を見出したといえるかもしれません。強い反戦感情とともに、国家への旺盛な批判精神こそが、戦後民主主義の特色となりました。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社、2020年、233-234頁。

戦後民主主義を考える上で、日本国憲法の存在は欠かすことが出来ません。

その日本国憲法が、アメリカの押し付けかどうかはさておき、英米の政治思想の強い影響を受けていることは間違いないでしょう。

英米の政治思想と、戦前に日本が強い影響を受けた大陸ヨーロッパ(特にドイツ)の政治思想との違い、この場合、特に国家観ですが、「国家」には大きく二つの考え方があります。

  • 国家は社会の上位概念であり、社会を包括する大きな共同体(一元的国家論)
  • 国家も社会の中の他の社会集団と同等(並列)な一つの機能集団(多元的国家論)

前者は大陸系(ドイツ)、後者は英米系に顕著な国家観です。前者の一元的国家論(特にヘーゲル)は、国家がそれ自体、価値ある道徳的実体であり、国民も国家(国家の生命)への奉仕者として捉えます。

国家は神秘的な存在にまで昇華します。

戦前の大日本帝国はまさにこれですし、現在の右派・保守派もこちらの考え方に近い人は多いでしょう。

対して、後者の多元的国家論(ハロルド・ラスキに代表される)は、真逆の考え方で、国家は、他の社会集団(教会とか学校)と同じ、ひとつの「機能」をこなしている集団の一つです。

ラスキは、国家を「サービス団体」とまで言い切ります。

ここでの「国家」は、日本人のイメージだと具体的な行政機関(市役所とか)や政権をイメージした方が良いのかも知れません。

そこに神秘性とか道徳的価値の源泉という側面は見られません。

戦後日本は、基本的に、占領軍の方針もあり、こちらの国家観が基本にありました。国民は、国家への奉仕者ではなく、逆に主権者であり、国家(政府)はサービスを提供(奉仕)する存在です。

日本国憲法もこの路線の下にあります。

例えば、皆さんが市役所なり県庁なり、公的機関に問い合わせた際、担当公務員から「お客様」と呼ばれることが多々あります。これはある意味で、戦後の国家―国民の関係を考える上で象徴的です。

実際には、天皇制と民主主義、つまり2つの国家観が同舟するという複雑な、アンビバレントな状態だった訳ですが、曲がりなりにも、後者の道を意識的には選択してきた訳です。

それが戦後民主主義のエートスでした。

ここで、英米、特に米国の建国思想を考えてみたいのですが、そこで欠かせないのは、ジョン・ロックでしょう。

ジョン・ロックと言えば、ホッブズ、ルソーと並び社会契約論で有名ですが、彼は米国の独立革命の思想的背景をなしました。

ロックの国家観・権力観は、

その第一の仕事は偶発的な紛争の解決にすぎない。これを被治者の側から申しますと、心配なのは権力が無能なことよりも、権力が強すぎて人民の権利を侵すことであります。

福田歓一『近代の政治思想』岩波書店、1997年、154頁

自律した個人からしてみれば、政府は最低限で良いわけで(小さな政府)、強大な政府・権力機構(大きな政府)などは、危険極まりないものです。いわば必要悪。

つまり、国家権力への警戒心があるのです。

では権力を警戒し牽制する手段は何か?

権力分立はシステムとしてそうでしょう(ロックは二権分立、モンテスキューは三権分立を言う)。

ロックは、政府が信託に値しない時は、人民による抵抗権(と革命権)を認めています。

ちなみに米国の銃規制はこの抵抗権と微妙に絡んでくるので、非常に機微な問題を孕んでいます。

もしかすると、図書館武装化の論拠には、抵抗権の発動があったかもしれませんね(法思想の違いを無視してですが)。

しかしながら、抵抗権発動は最終手段であり、本来であれば、その前段階で、事態を改善したい(権力の暴走を是正したい)。

その要になるのは、現代であれば何でしょうか?

すぐに思いつくのがマスメディア。

しかし、それだけでは片手落ちです。

そこにまさに、国民の知識・教養といったものが関わってきます。無知では、今度はマスメディアに利用されてしまいます。

戦後民主主義の理論的指導者とされた丸山真男は、民主主義とは永久革命であるといいます。

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化―物神化―を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義()いう(・・)()()制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。民主主義的思考とは、定義や結論よりもプロセスを重視することだといわれることの、もっとも内奥の意味がそこにあるわけです。

丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年、156-157頁。

銃と剣を持たない国民が持てるのは、知識・教養と言う名の武器だけです。

それを作り出す源泉こそ「本」に他ならない。

その本こそ守らなければならなかった時に、日本人はそれを捨ててしまった(メディア良化法の成立)。

これこそ民主主義の物神化、骨抜き、形骸化です。

日本国憲法の形骸化です。

国民が、権力を監視する武器を失えば、権力は増長します。鎖を説かれた猛獣です。

権力の肥大化は政治の物理法則です。止まるところを知りません。

既出した良化隊員の一般人に対する態様をみれば明らかでしょう。

丸山は、「権利の上に眠る者」の話をしています。

これは、ただ、自分が債権者であると安住しているだけで、請求することをしなければ、やがて時効によって債権を喪失するという、民法の一法理を、民主主義に敷衍してみたのです。

「国民はいまや主権者となった、しかし主権者()ある(・・)ことに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者ではなくなっている事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです。

同上書、155頁。

正化のある朝、日本の民主主義、国民主権は、「終わりの始まり」を迎えたのです。

つまり、国民が、民主主義・日本国憲法のもたらした権利の上に、まさに眠ったのが、メディア良化法という鬼子を産み、検閲抗争というビヒモス(旧約聖書の怪物、転じて「内乱」の象徴)を招来したのです。

戦後民主主義の死、というよりは、戦後民主主義の自殺です。

良心の自由と権力

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」

マタイ伝

日本国憲法第21条は、「検閲」を禁じています。

これを堂々と厚顔無恥にも乗り越えたのが、メディア良化法です。

日本国憲法を巡る問題としては、第9条と再軍備の問題、即ち自衛隊の存在がまず思い浮かびます。

メディア良化法とそれを根拠とした検閲は9条に勝るとも劣らない問題となるのは必至です。いや、より大きな問題かもしれない。

さて、そもそも「検閲」の何が問題なのでしょうか?

その本質を、手塚慧が語っています。

「この世に『正しい』検閲など存在しない。検閲には必ず為政者の恣意が反映される。たとえどんな悪書であろうと、それを実際に見て判断する権利を国民は持っている。もちろんそれで不利益を被る国民がいる場合は、その表現物の扱いに慎重になるべきだが、その救済の判断は司法に委ねられるべきだ」

有川浩『図書館革命』角川書店、2011年、76頁。

歴史を振り返ると、西欧においては、世俗権力(国王)と宗教権力(ローマ教会)の長い戦いと緊張関係がありました。

この結果、外面と内面の分離という考え方が生まれます。

つまり、世俗権力の管轄は、外面(行動)に限られ、内面(個々人の信仰や良心)には立ち入らず、もっぱら、それは教会に帰属すべきだ、と。

「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という訳です。

実際、権力と信仰が一致すると、宗教戦争のような悲惨な事態を引き起こします。

やがて、近現代に入っても、西洋諸国に、この原則は引き継がれます。

権力と良心という二つの極の対抗がだんだん激しくなり、これを通じて、等族国家の時代には国王の大権 prerogative と臣民の特権 privileges との間に作られていた対抗関係が、やがて近代的な主権 sovereignty と人権 human right という構成へとこの時代に移っていくのである。

福田歓一『政治学史』東京大学出版会、1986年、255頁。

政治権力は、国民の外面の行動に対して法に基づき規制するのみで、内面(思想・良心・信仰)に介入(統制)しない。

即ち、権力が、これが「良い」「悪い」と恣意的に線引きすべきではない。それは新たな「宗教戦争」の始まりの(かね)です。

検閲は、この線引きそのものです。

政治権力が「良化」するとか「善導」するとか、「当為」(~べき)の問題に介入することは、その当の政治権力にとっての「善悪」なのであって、普遍的なものではありません。

それを続ければ、否応なく全体主義・専制支配に帰着します。

「平成」ではなく「正化」であった本当の理由

(この節は、特に牽強付会かもしれません。)

戦後民主主義の死を招いた、大きな理由のひとつとして、それを実践した、ある人物の不在が、この「正化」という元号には隠されているかもしれません。

それは、平成の天皇(明仁天皇)の存在です。

平成の天皇が、日本国憲法のリベラルデモクラシーの強い支持者であることには、異論はないかと思われます。

立憲君主という極めて微妙な立ち位置ながら、その行動と言葉の片鱗にそれを示されてきました。

ただ人として限界のなかに生き、それでも国民と共感共苦し、その姿を赤裸々に示すことによって、人間天皇がいてくれるとこの国は違うと、国民に認めてもらう。それが戦後民主主義下での天皇の生きる道である。

片山杜秀/島薗進『近代天皇論』集英社2017年、213頁。

つまり民主主義時代の象徴天皇は民主主義を促進し、あるいは擁護するためには身命を賭するものだといる覚悟が、昭和天皇から今上天皇へと受け継がれているのです。

同上書、216頁。

前述したように、本来、民主主義と天皇制の相性は決して良いわけではない。戦後日本は、そんなアンビバレントな状態だったのですが、そこを天皇個人がリベラルな立場に立ったことで、両方の調停者として、戦後民主主義・象徴天皇制の矛盾を解消、いや、止揚した訳です。

片山は、平成の天皇ついて「象徴天皇についての最大の思想家」と評しています(同上書214頁)。

東宮御教育常時参与として、皇太子明仁親王の教育にあたった「国師」小泉信三(経済学者・慶應義塾塾長)は、皇太子教育に関する覚書(御進講覚書」)に以下のように遺しています。

新憲法によって天皇は政事に干与(かんよ)しないことになって居ります。()かも何等の発言をなさらずとも、君主の人格その識見は自ら国の政治によくも()るくも影響するのであり、殿下の御勉強とは修養と日本の明日の国運をも左右するものと御承知ありたし。※2

(原文ママ)

君主の人格(天皇制で言えば「聖徳」)が、無意識・形而上的にその国家のエートスを既定したり、最後の防波堤になる。

平成以降は、冷戦構造の崩壊、経済の停滞などで、「経済大国の黄昏」の感があり、また「戦後民主主義」にもその気配がありました。そんな時に在位し、行動(被災地や戦跡への行幸)した平成の天皇の姿、いわば「平成流」は、まさに防波堤として、ミネルバの森のフクロウは黄昏に飛び立つ、ではないでしょうか。

では、そんな戦後民主主義と共に生きた「平成」の天皇は、『図書館戦争』の世界線に存在しているのか?

「正化」の今上天皇は同じ人物なのか?

もちろん、パラレルワールドのお話なのですが、どうも、この苛烈な、戦後民主主義が死んだ「正化」の時代と、史実の平成の天皇のイメージは結びつけ難いように感じられます。

(・・・やっぱり穿ち過ぎかもしれませんね)

さらに不吉なことに、図書館戦争の世界線では、昭和天皇の大喪の礼を狙った化学兵器テロが起こったという。もちろん、これは、地下鉄サリン事件をモチーフにしているのでしょうが、間接的とは言え、皇室を狙ったテロに対して、世論やその後の社会情勢が辿った道は、史実のオウム事件以上のインパクトがあるでしょう。

果たして、正化の皇室は、象徴天皇制はどうなっているのか・・・。

正化と応化

『図書館戦争』の「正化」という元号を見ると、いつも連想するのが「応化(おうか)」という元号です。

この元号は、打海文三の小説『裸者と裸者』を第1巻とする、いわゆる「応化クロニクル」シリーズでの日本の元号です。

本作も図書館戦争と同じく「内戦」が舞台になっています。

その内戦の様相は、大きく異なりますが・・・

世界的な経済恐慌と大陸の内戦により社会不安が増大した応化2年11月。

首都圏で、「救国」を掲げる佐官グループに率いられた第1空挺団及び第32歩兵連隊が決起。

かくして、国軍は四分五裂し、日本は内戦状態に突入した。

各地で軍閥が群雄割拠する中、茨城県常陸市に住む戦災孤児・佐々木海人は、兄弟を守る為、自ら戦火に身を投じていく・・・。

まるで戦国時代のような様相になった日本を舞台にした作品です。

この作品の日本は完全な内戦状態ですが、正化日本は同じ内戦でも、かなり奇妙な形です。

日本政府は崩壊しておらず、自衛隊も警察も存在しているのに、その片隅で武力闘争が行われている不思議な状態。

  • 片や、政治的共同体としての日本国が実質的に消滅している応化日本。
  • 片や、政治的共同体としての日本国が曲がりなりにも成立している正化日本。

前者は理解できますが、後者は一体どういう状態なのか?

「奇妙な戦争」ならぬ「奇妙な内戦」です。

海外と比較してみましょう。ここでは、メキシコの事実上の「内戦」、即ちメキシコ麻薬戦争を例に挙げてみます。

メキシコ政府と戦っているのは麻薬組織(の私設軍隊)です。

これに対して、日本の暴力団や左翼暴力集団と日本警察(政府側)の関係が同じかと言われれば、それは根本的に違います。

なぜなら、日本のそれは、犯罪者の取り締まりだからです。国家の構成員の違法行為の処罰です。一つの政治共同体内部の問題です。

しかし、メキシコでの麻薬組織との戦いは、実質上、「内敵」との戦いの次元です。

メキシコ政府の統治能力に疑問(あるいは不安)を持つのも、それが、構成員の犯罪の域を超えた、「内敵」との戦争(内戦)に陥っているからです。政府が負ける場合もあり得る。

政治的共同体が崩壊する危機です。

例えば、現代日本で、単なる犯罪者から内敵に「昇格」する状況というのは、その犯罪者が、警察までを意図的に殲滅の意志を持って攻撃し始めた段階でしょう。

そして、それが成功する見込み、つまり警察が敗北し、軍隊(自衛隊)が軍事的に出動(治安出動・防衛出動)してくるような状況。これは、もう内戦であり、警察活動ではなく、軍事行動(内敵の殲滅)です。

構成員の違法行為の処罰と矯正ではなく、他の政治単位との生存闘争(敵を殺せ)。

戦後日本だと左翼武装闘争やオウム事件はその性格を強く持っていましたし、近年だと、福岡での特定指定危険暴力団への政府の対応にも、その片鱗が垣間見れます。

翻って、では、図書隊も良化隊も「内敵」なのか?

正化日本は、国内の公共機関、政府内部の「内戦」という性格を持っています。

この場合、「政府」をどこまで含めるかという議論になるのですが、アメリカの場合、三権全てを「政府」と見做す場合が普通で、対して日本は、行政府のみに用いるのが普通になっています。

この場合の政府は、アメリカ的な、広義のそれで解しますが、日本の地方自治体は、そもそも連邦制の構成主体ですらないのですから、広義に広域地方行政機関も「政府」です。

すると、政府(国家権力)内部の権力闘争という色彩が強くなってきます。

これに参考になるのが、90年代以前の中国政府(軍)でしょう。

前近代的軍隊と中国軍

近代的軍隊とは何か?

近代以前の軍隊は、公私が曖昧で(軍隊なのか?野盗なのか?)、傭兵が活躍し、高度な組織化もなされていませんでしたし、常備の軍隊ではない。各貴族・領主も各々の軍隊を持ち、国王の実態はその名称からは遥かに遠い「同輩中(プリムス・イ)(ンテ)首席(ル・パレス)」です。

ところが絶対主義の時代に入ると、常備軍が登場します。職業軍人(プロフェッショナル)により構成され、厳格な規律で統制・組織化された、大規模な軍隊。

クロムウェルの新型軍(ニューモデルアーミー)にはじまり、ナポレオンの大陸軍(グランダルメ)に完成を見るとも言われます。

翻って、中国軍はどうか。

90年代以前の中国軍(人民解放軍)の評価は、「近代的な国軍の体を成していなく、実質は軍閥化しており、一部の部隊を除いては中央の統制が効いていない」と評されていました。

指揮官同士の酒の席の諍いで、両指揮官の隷下の武装部隊が、衆人環視の中で睨み合うなどという未確認情報が流れてきた時代です。

また、中国軍の各級部隊が独自に会社を経営していて、工業から観光・サービス業まで手広く扱っていることに好奇の目が向けられました。

極端なセクショナリズム、軍閥化する地方部隊、単一の指揮統制ラインの曖昧さetc.

元々、「人民解放軍」という呼称の示す通り、抗日ゲリラ戦・革命軍の性格をもっていた中国軍は、

日本軍の鋭鋒を避けて活発に政治工作をつづけ、各地に解放区を組織したが、いちだんと地方的な政治勢力へと転化しはじめている。「人民の大海に敵をおぼれさせる」という毛沢東戦略をつづけるかぎり、部隊が地方に定着しとけ込もうとする傾向をもつ、派閥体質は避けられなかったのである。

川島弘三『社会主義の軍隊』講談社、1990年、167頁。

こうしたフォーマルな軍事組織が、これを基礎に一つのインフォーマルな「派閥」と化していることを示している。それは、発生のときから地域を異にし、言語(方言)、生活習慣を異にし、また指導者(将領)を中心に幾多の戦闘のなかで人間関係によって長期に結合してきた結果による。同じ釜の飯をくい、戦火をくぐりぬけてきた各将校団の凝集力は、ことあるごとに結束を示す、強靭なものとなる。

同上書、168-169頁。

このような状況は、なるほど近代的軍隊とは言えないでしょう。

そんな中国人民解放軍を酒のつまみに、笑う時代がありました。

ところが、21世紀に入ると様相は一変します。

中国政府は、経済成長と共産党指導部の強力な意志によって、改革に次ぐ改革を断行し、あれよあれよと言う間に、中国軍を世界有数の近代的軍隊に一変させてしまいました

(ちなみに日本では、90年代以前の中国軍像が未だに幅を利かせているので、いざという時、足元を掬われないか心配です)

では、正化日本はどうでしょう。

ちょうど中国の逆を行ったと言えるでしょう。

中国が近代的軍隊に成長したのに対し、日本は前近代的軍隊へ退歩した。

人民解放軍が企業経営していると笑っていたのが、いつの間にか、「日本は図書館が軍隊を持っている」「軍隊が図書館を持っている」と呆れられ、KGBのような良化特務機関までこしらえて、その2つが武力闘争しているとは、片腹痛し。

結局、政府が厳然と存在し、かつ両機関とも政府内組織である以上、図書隊・良化隊とも「内敵」とは呼べません。

つまり、ここから導き出せるのは90年代以前の中国軍と同じく、それは、政府部内(政治共同体の支配者側)の権力闘争・派閥闘争ということに落ち着くのです。

極論を言うと軍閥と言ってもいい。

法務省が軍隊を持ち、地方自治体由来の図書隊を攻撃し、警察も自衛隊も局外中立を決め込む。文部科学省が「未来企画」の思惑通りに図書隊を管轄したら、中央省庁同士の戦いになります。

特に良化隊は、良化法賛同団体を手駒にしている(ふし)があります(「日野の悪夢」の実行犯など野盗の類です)。

それは軍閥が子飼いの私兵に汚れ仕事を行わせている姿以外の何物でもない。

これらを止められない(統制できない)執政者(内閣総理大臣)は、まるで近代以前の封建国家の国王、文字通り「同輩中(プリムス・イ)(ンテ)首席(ル・パレス)」に過ぎません。

ここまで来ると、日本は近代国家に非ず、と面罵されても、ぐうの音も出ない。

近代国家から前近代国家へ

「そうだね。でも、国家公務組織と地方公務組織が武力闘争をしている現状自体が歪んでいると思わないか。外国から見たらはっきりと内戦状態だよ、この国は」

有川浩『図書館内乱』角川書店、2011年、344頁。

前節で見てきたように、正化日本は、いわば「近代国家から前近代国家」に後退したとも捉えられるかもしれません。

国家権力が「物理的強制装置」(暴力装置)を独占していることが、近代国家のひとつの条件と言え、逆にそれが拡散・分立・群雄割拠・統制不能のような状態は、前近代の国家の姿と言える。

もしかすると、人は、

「暴力装置が独占されているのが近代国家と言うが、例えば米国にも州兵という軍隊があって、広域地方行政機関の図書隊と同じではないか?」

と思われるかもしれません。

同じ地方自治体、都道府県(・・・・)()同格(・・)の州が軍隊を持っているのは、図書隊と似通っている、という見方です。

しかし、これは一見、正しそうですが、間違っています。

まず、大前提の「都道府県=州」という同格論が大きな誤解です。

よく「日本はアメリカの51番目の州」云々(うんぬん)という話がありますが、実はこちらの方が論理的には正しい。

仮に、日本がアメリカ合衆国に編入された場合、日本国それ自体は解体されずに、日本州になります。前者の考え方で行くと、日本国は消えて、東京州とか大阪州になるはずですが、そうはなりません。

なぜなら、日本の都道府県と同格なのは州の中の「郡」です。

日本州の東京郡、大阪郡になるだけです(まあ、そのまま都道府県を呼称に使ってもいいのですが)

では州とは何か?

アメリカの各州はそれぞれ国家です。ワシントンの合衆国政府は、それらが連邦を構成していることによって成立した連邦政府なのです。

建国当初(連合規約)、アメリカは、州(当初は「邦」と呼称)が連合した文字通り「合()国」でした。

連合規約の下でのアメリカ合衆国は国家連合であり、市民は邦政府に自らの権利をの一部を委任し、邦政府が中央政府を創設して権限の一部を再任するという原理によって成り立っていた(中略)。これに対して、連邦制が採用された合衆国憲法の下では、合衆国国民たる市民は自らの権利の一部を連邦政府に直接委任し、別の一部を州政府に委任する等原理になった。

待鳥聡史『アメリカ大統領制の現在』NHK出版、2016年、46頁

さらに、州兵は、州の軍隊とは言え、大統領によって連邦軍(米軍)に編入することが可能であり、現在では事実上、米軍の予備軍的・本土軍的な扱いになっています。

メレディス事件(1961年)、リトルロック高校事件(1957年)では、黒人の白人学校への通学を阻止しようとする南部の州知事が、州兵を投入するのを阻止する為に、大統領が州兵を連邦軍に編入し、州知事から指揮権を剥奪したこともあります。

もし、連邦軍と州兵が撃ち合う事態になれば、それは、正真正銘の内戦、第二次南北戦争です。合衆国の解体・分裂です。先の人種問題での南部との軋轢に苦しんだホワイトハウスの懸念、想定される最悪の事態はそこにありました。

翻って、正化日本のように、周知の事実として、公衆の面前で、合法的に、政府内機関同士が戦っているなどというのは、とても近代国家とは言えないのです。

繰り返しになりますが、執政者(内閣)がコントロールできない公的武力集団(図書隊)があって、それを別の公的武力集団(良化隊)が攻撃している状態は、前近代国家の有様です。

効率性と相互抑止のジレンマ

ただ、国内の武装勢力が一枚岩であることにも実は技術的な面で、リスクがあります。

それはクーデターに対してです。

米国の戦略家エドワード・ルトワックは次のように警告しています。

とにかく最も重要なのは、軍や準軍事的な組織、そしてその他の安全保障組織を完全に分離することにより、強制力を独占させないということだ。

エドワード・ルトワック『ルトワックの“クーデター入門”』芙蓉書房出版、2018年、3頁。

ルトワックは、特に韓国軍の例を挙げています。

1977年、対北朝鮮戦略の効率化のために、それまで別々だった陸海空三軍の防諜部隊を、「国軍保安司令部」に統合しましたが、2年後に、まさにその司令官だった(チョン) 斗煥(ドファン)少将がクーデターを起こし、軍政を敷きます。

これが、もし防諜機関が統合されずに三機関が競合状態であったならば、クーデターは起こらなかったという指摘です※3

ちなみに、陸上自衛隊に、全方面隊の指揮運用を司る「陸上総隊司令部」の創設を巡る議論でも、同じような議論が垣間見られました(2018年に発足)。

さて、そのような観点から見ると、自衛隊、警察以外に武装組織が存在するのは、クーデターの防止に役立つかもしれません。

もし、東京でクーデターが起こった場合、他の自衛隊部隊が静観(中立化)してしまうと、決起軍を牽制・鎮圧する勢力が存在しません。

警察の機動隊の存在を指摘されるかもしれませんが、機動隊では陸自の普通科連隊に、全国から総力を結集しても立ち向かえません。火力が違い過ぎる。

その点、図書隊・良化隊ならば、普通科に準じた装備ですので、一定の対抗力を期待できます。

特に図書隊は、その地方行政機関的な性格から、軍政には反対するでしょうし、規模も大きい。

更に私見を述べれば、例えば水陸機動団のような両用戦部隊を、陸自ではなく海自に、それこそ本当の意味での日本版海兵隊にするというのも一案だったでしょう。

226事件の際には海軍陸戦隊が反乱軍に対抗する為、芝浦に上陸しています。

(但し、この上記の議論では、本当の対抗勢力たる在日米軍には関しては割愛しています。もしご興味あればこちらの記事を→【機動警察パトレイバー旧OVA「二課の一番長い日」解説・考察】

以上のように、正化日本は、近代国家とは言えない状態に陥ってしまいました。そんな前近代国家たる経済大国日本は、国際社会において、どういう立場に置かれているのか?

最終回(第3回)では、正化日本の国際関係を見ていきましょう。

★第3回に続く

有川浩『図書館戦争』の政治学的考察③(国際政治的側面)~海洋国家か大陸国家か

【脚注】

※1. 杉田敦・編『丸山真男セレクション』平凡社、2010年、440頁。

※2.保坂正康「小泉信三の覚悟と想い」『文藝春秋』2008年8月号、109頁。

※3. E・ルトワック『ルトワックの“クーデター入門”』芙蓉書房出版、2018年、5頁。