オーベルシュタインの政治学【後編】~ラインハルトと「王の二つの身体」(銀河英雄伝説の考察)

napoleon

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⇒オーベルシュタインの政治学【前編】~マキャベリズムと国家理性(銀河英雄伝説の考察)

「あの男は、予の存在が王朝の利益と背反するときは、予を廃立するかもしれぬな」

(皇帝ラインハルト)

田中芳樹『銀河英雄伝説10』東京創元社、2009年、118頁。

家産官僚制と依法官僚制

前編における「私兵」の問題を、違う側面から見てみましょう。

帝国と同盟の国家機構を比べた場合、決定的に異なるのは、帝国があくまで皇帝の「家産」(家の財産)であることです。

専制君主の国家というのは、詰まるところ、皇帝個人の家産、所有物、財産です。

これはゴールデンバウム朝もローエングラム朝も変わりません。

そして軍隊もそうなります(軍隊というのも一種の官僚制です)。

軍隊も皇帝の「私兵」の性格を伴いますし、下剋上で帝権を「簒奪」したラインハルトにとっては、自己のカリスマ性を頼りにするが故に、この傾向は一段と濃くなります。

故に、その下の将兵(特に将帥)は皇帝との属人的な結びつきが強くなりますし、将帥にしても隷下の兵士は、属人的な「私兵」、武将にとっての財産のような性格を持ちます。

他方、自由惑星同盟は、「家産制国家」ではなく、「レス・プブリカ」(公共のもの)。即ち民主国家・法治国家であり、その官僚制は「依法官僚制」(近代官僚制)です。

法に依って公共に奉仕する「公僕」です。その地位・権限は法に依って明確に規定(制限)されています。

だからこそ、ヤン・ウェンリーは、バーミリオン戦域会戦で、帝国総旗艦ブリュンヒルトを射程に収めながら、合法的な停戦命令に従ったのです。

オーベルシュタインの思考を推理してみれば、建国期の動乱が終われば、将来的には、属人的な国家機構・官僚制から依法的なそれへの変革を望んでいたと考えても、飛躍ではないと思います。

なぜならスタート(秩序状態)を維持し続けるには、属人的な専制国家のままでは、後々、都合が悪くなるからです。

では、彼はなぜ、専制君主に仕えるのでしょうか?

「王の二つの身体論」とラインハルト

では、専制君主たる皇帝ラインハルトは、オーベルシュタインにとって如何なる存在なのでしょうか。

ここで参考になるのが「王の二つの身体」という概念です。

これは文字通り、王には二つの身体があるという考えで、それは、「自然的身体」と「政治的身体」です。

前者は、もちろん生身の国王個人です。これは、もちろん人間ですからいずれ死にます。

対して、後者は、フィクションとしての玉座、王の権威の連続性のことであって、フィクションであるから、死ぬことはありません。

これが合わさって、王権は継続します。

銀英伝に話を戻すと、幼帝エルウィン・ヨーゼフ2世が自由惑星同盟に「亡命」してしまうと、王権は引き割かれてしまいます。ここにゴールデンバウム朝の終わりが見えます。

ラインハルトはどうでしょうか。

オーベルシュタインにとっては、ラインハルトは政治的身体(玉座)という器にとって最良の自然的身体です。

前編におけるヴィルトゥとフォルトゥーナの議論を思い出していただきたいのですが、このフォルトゥーナ(運命の女神)というのは、後ろ髪は禿げていて、前髪しかありません。

もし、幸運をつかむなら、そのタイミングを逃して、慌てて後ろから彼女を掴もうとしても手遅れなのです。ですから、彼女が前から来たタイミングを逃さない(見抜く)力も ヴィルトゥ なのです。

このことを的確に評していたのが、オーベルシュタインではなく、敵方のシェーンコップです。

「皇帝ラインハルトは、運命が彼にことわりなく傍を通過しようとすれば、その襟首をつかんで、彼にしたがわせようとします。よかれあしかれ、それが彼の身上です。」

『銀河英雄伝説7』2009年、66頁。

正確には、ラインハルトは、その「掴む」 ヴィルトゥ を持ち合わせている故に、女神を捕まえることが出来る訳で、これは常人には真似できないことです。

とはいえ、ラインハルトも神ではなく人ですから、全てにおいて、オーベルシュタインを満足させる訳ではありません。

オーベルシュタインが「オーベルシュタインの草刈り」による政治犯の投獄と、それを「生贄」にしたイゼルローン共和政府への「開城」を要求する策を画策し、これに抗議するビッテンフェルトらに対して、

「その皇帝の誇りが、イゼルローン回廊に数百万将兵の白骨を朽ちさせる結果を生んだ」

「・・・!」

「一昨年、ヤン・ウェンリーがハイネセンを脱してイゼルローンに拠ったとき、この策をもちいていれば、数百万の人命が害われずにすんだのだ。帝国は皇帝の私物ではなく、帝国軍は皇帝の私兵ではない。皇帝が個人的な誇りのために、将兵を無為に死なせてよいという法がどこにある。それでは、ゴールデンバウム王朝の時代と、なんらことならぬではないか」

田中芳樹『銀河英雄伝説10』東京創元社、2009年、112頁。

オーベルシュタインにとっては国家理性を合理的に追及することが第一であり、ラインハルト個人の感傷や帝国軍諸将の軍事的ロマン主義は、スタートに益するヴィルトゥでない場合は無用かつ有害なものです。

あくまで、ラインハルトが選択肢(人選)として「最良」であるからであって、その帝権の存在意義・正統性も、国家理性に適うからに他なりません。

オーベルシュタインにとっては、政治的合理性と政治的な結果(スタート)が全てであり、もし、ラインハルトがその座に相応しくなければ、すぐにでも切り捨てかねません。

軍隊はスタートの為の軍隊であって、私兵(家産)ではないからです。それを皇帝自身の感傷(誇り)の為に「浪費」するなど許されないことです。

「あの男は、予の存在が王朝の利益と背反するときは、予を廃立するかもしれぬな」

田中芳樹『銀河英雄伝説10』2009年、118頁。

ラインハルトのこの自嘲気味の言葉は、正鵠を射ています。もっと正確に言えば、「王朝」にとっての「国家理性」に。

この「切り捨てることも辞さない」というのは、キルヒアイスを喪い、ラインハルトが失意の中にあった時がもっとも「危険」であったかもしれません。

「閣下、私はあなたをまだ見放してはいません。(中略)ですが、これ以上過去ばかりをごらんになって、未来にたちむかおうとなさらないなら、あなたはそれまでのかただ。宇宙は他人の手に落ちるでしょう。」

『銀河英雄伝説2』2010年、334頁。

この宣告は象徴的です。ある意味、ラインハルトも「手段」でしかないのです。

但し、オーベルシュタインにとっては、おそらく自分も手段に過ぎない。そこが彼の空恐ろしいところでしょう。

前編冒頭で、「近代政治学はアートの問題が主流となる」と書きましたが、まさに、皇帝ラインハルトとはオーベルシュタインのスタートのアートの「作品」と言ってしまえるかもしれません。

ましてローエングラム王朝と皇帝ラインハルトとは、オーベルシュタインにとって終生を賭した作品であった。

『銀河英雄伝説6』2009年、152頁。

黄金樹は倒されなければならない

ここで人は、こう疑問を持つかもしれません。

秩序(スタ)状態(ート)が最重要であるならば、ゴールデンバウム朝の秩序でもいいではないか。わざわざそれを壊乱し、血を流して別の秩序(スタ)状態(ート)を創出する手間・犠牲を払うのは矛盾ではないのか?」と。

なるほど、確かに、ゴールデンバウム朝にも、秩序がありました。

遡れば、ラインハルトに対してオーベルシュタインは、ゴールデンバウム朝への「憎悪」を吐露していました。しかし、切掛けではあっても、彼が、個人的な憎悪のみで、王朝の打倒を企図するものなのか?

ここで再びマイネッケの「国家理性」の問題になります。

「国家理性」には、クラートス(自然的なもの/暴力・権力)とエートス(倫理的なもの/倫理、善観念)の両面が存在します。

この両者が上手く融合されない、折り合いがつかない、緊張状態にあるところに、政治の困難性・悲劇性がある訳です。

確かに、政治は暴力ですが、政治の全てが暴力という訳ではなく、そこには倫理的なものも存在します。つまり「正統性」の問題です。

確かに、マキャベリズムは、目的(スタートの創出・維持)が手段を正当化しますが、作られる秩序(スタート)が「地獄」であっていいわけではない。

ゴールデンバウム朝で言えば、劣悪遺伝子排除法にせよ、流血帝アウグスト2世にせよ、悪法・暴政・悪政は枚挙のいとまがない。

さりとて、衆愚制に堕した自由惑星連合に与するのも理に(かな)わない。

デモクラシーは、そのコスト・時間の割には、政治的合理性に適う政治的判断をするとは限りません。むしろ、政治的合理性に反する場合も多々ある。

政治的合理主義者たるオーベルシュタインにしてみれば、第三の道を選択することになります。

強大でかつ英邁な専制君主による最短、最効率の道を。

それで結果的(・・・)()、善政な秩序(スタ)状態(ート)が創出できれば、一体なんの不都合があるのか?と、オーベルシュタインならば言い放つことでしょう。ヤンのように民主共和制の愚鈍な手続き「過程」なぞ、時間と労力の無駄でしかない。

いつも思うのは、是非、オーベルシュタインとヤン・ウェンリーの議論というものを見てみたいものです。この「政治は結果が全てか?」という困難な問いを。

【参考文献】

田中芳樹『銀河英雄伝説』全10巻、東京創元社。

らいとすたっふ『エンサイクロペディア銀河英雄伝説』徳間書店、1992年。

『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1969年。

福田歓一『政治学史』東京大学出版会、1986年。

マキャヴェッリ『君主論』岩波書店、1999年。