「予はオーベルシュタインを好いたことは、一度もないのだ。それなのに、かえりみると、もっとも多く、あの男の進言に従ってきたような気がする。」
(皇帝ラインハルト)
田中芳樹『銀河英雄伝説10』東京創元社、2009年、117頁
田中芳樹『銀河英雄伝説』といえば、言わずと知れた日本SF、スペースオペラの傑作です。その中で重要な役割を演じることになるのが、新銀河帝国の重鎮パウル・フォン・オーベルシュタインです。
作中、「ドライアイスの剣」「絶対零度の剃刀」などと称され、容赦ない権謀術数によってラインハルトによる新銀河帝国建国の影の立役者です。最終的に軍務尚書、元帥に昇りつめました。
その政略は徹底した政治的合理主義であり、まさにマキャベリズムが具象化したような存在でした。
今回は、みんな大好き(?)オーベルシュタイン元帥の行動原理・思想に全2回に渡って迫ってみます。
マキャベリズムとは何か
一般に、マキャベリズムは権謀術数の代名詞として扱われています。
まさに陰謀家であるオーベルシュタインをマキャベリアンと称することは多いのですが、では、そもそもマキャベリズムとは、どのような政治思想なのでしょうか。
ニコロ・マキャベリ(1469年-1527年)の登場によって政治学はその性格を変えました。
古代(ギリシア・ローマ)においては、政治学は倫理学(及び哲学)と密接不可分な関係であり、そこでの主題は「如何に善く生きるか」という点にありました。
中世になると、政治学は「神学の侍女」として、消極的な存在に甘んじました。
それが、マキャベリによって、倫理学や神学から全く独立した存在・領域としての政治学が成立することになります。
では、政治学の独自領域とは何か?
それは「スタート(stato)」です。
スタートというのは英語のstate(ステイト)、つまり「状態」のことです。
何の「状態」かというと、それは「秩序状態」を意味します。
つまり、マキャベリ以降の近代政治学の主たる問題は、「秩序状態」の形成・維持に関する「技術(アート)」の問題になったのです。
アリストテレスは「人間は政治的動物である」だとし、人はポリス(都市国家)を離れては生きていけず、それが人間の本性であると考え、自ずから秩序を指向し、秩序が生まれると考えました。
しかし、マキャベリは、この秩序の自明性を否定します。
人は邪悪な存在であり、「力」(権力機構)によって秩序状態を形成・維持するしかないと考えます。
そして、この物理的力に、精神的力が合わさると真価を発揮できると考えます。
この精神的力とは「ヴィルトゥ」といいます。
この要素には、勇気、正義、愛、節制、誠実、慈愛などが挙げられます。
突然、倫理的な色彩を帯びた単語群が踊りますが、これらの要素は、あくまで、政治的秩序に貢献(手段化)できるかが問題であり、そこに倫理的・道徳的色彩はありません。
さて、そんな人間が秩序状態を人為的に構築しようとするとき、言う間でもなく絶対的存在であろうはずもなく、そこでは「運命(フォルトゥーナ)」に左右されます。
ですが、この運命に翻弄されるのではなく、人は自由意志によって、「運命の女神」(幸運)を掴もうとします。この時に役立つのがヴィルトゥ(力)です。
つまり、秩序(スタート)を創出・維持せんとする者は、ヴィルトゥを使ってフォルトゥーナという外的要因(障害)に屈することなく、幸運の女神を掴まなければならない、ということになります。
国家理性とは何か
マキャベリにとっては、スタート(秩序状態)こそが重要であり、それはヴィルトゥによって人為的に創出されるものです。
ここまででわかるように、全てが政治的有効性の論理の中で捉えられているのです。
結果重視の政治的リアリズムです。
さて、この様なマキャベリの政治思想を始祖とした、一つの政治学上の概念が存在します。
それは「国家理性(レーゾン・デタ)」です。
フリードリッヒ・マイネッケ『近代史における国家理性の理念』によれば、
国家理性とは、国家行動の基本原則、国家の運動法則である。それは、政治家に、国家を健全に強く維持するためにかれがなさねばならぬことを告げる
『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1964年、49頁。
もっと詳細に
「国家理性」と呼んだもの、つまり各国家は自己の利益という利己主義によって狩りたてられ、ほかの一切の動機を容赦なく沈黙させる、という一般的な規則から生ずるものである。しかしそのさい同時に、「国家理性」は、つねにただ適切に理解された利益、つまり、単なる貪欲の本能から浄化された合理的な利益のみを意味する
同上書、148頁。
この言葉はマキャベリズムほど人口に膾炙していませんが、それは、別の言葉に、ほぼ置き換えられているからです。つまり、それは「国益」です。
国家(=秩序状態)の創出・維持を指向する国家理性の考え方が、マキャベリの政治思想を始祖にしたことは明らかでしょう。
統帥本部長ロイエンタールが、オーベルシュタインの「哲学」を問う場面がありますが(第6巻・飛翔篇)、まさに、この「国家理性」こそが、オーベルシュタインの「哲学」(思想・行動原理)だったようです。
実際の彼の行動から見てみましょう。
目的の為には手段を・・・
オーベルシュタインの非情さを端的に示したのは、ヴェスターラントへの核攻撃でしょう。
門閥貴族連合の盟主ブラウンシュヴァイク公は自身の領地であるヴェスターラントでの領民の叛乱(というか一揆)に対し、熱核攻撃を行うという狂気の決断をします。
これを事前に察知し、阻止しようとするラインハルトを、オーベルシュタインは制します。
これは奇貨である、と。
このまま核攻撃を実行させ、貴族連合の悪逆非道を世に知らしめれば、人心は離れ、反貴族の機運は沸騰し、ラインハルト陣営の勝利を確実にするものだと。
「この内戦が長びけば、より多くの死者がでるでしょう。また、大貴族どもがかりに勝てば、このようなことはこのさき何度でもおこります。ですから、彼らの兇悪さを帝国全土に知らしめ、彼らに宇宙を統治する権利はない、と宣伝する必要があるのです。ここはひとつ・・・」
「目をつぶれというのか」
『銀河英雄伝説2』2010年、238頁。
結局、オーベルシュタインの言を受け入れ、ラインハルトは、ヴェスターラントを「見殺し」にし、非戦闘員200万人が核の業火に焼かれます。
しかしながら、オーベルシュタインの目論見通り、その犠牲は、「最高の」プロパガンダになり、貴族連合の早々の滅亡をもたらします。
政治的合理性、つまり、天秤に人命を秤にかけた訳です。
結果的には、死者の、あるいは不幸の総量は減ったのかもしれません。大の虫を生かして小の虫を殺す。
個人の倫理・道徳的には首肯し難いものがありますが、まさにこの葛藤こそ、国家理性の抱える葛藤でもあります。
国家は罪を犯さずにはいられないように思われる。もちろん、このような異常にたいして道徳的感覚は再三再四反抗する―しかし、歴史的な効果はない。
『 世界の名著54 マイネッケ』 63頁。
政治の特殊性は、あらゆるものが「手段化」される点にあるとも言えます。
宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。
こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。
丸山真男『政治の世界 他十篇』岩波文庫2014年、91頁。
この政治の特殊性(優越性)を、もっとも認識し、自己の行動原理にしているのが、オーベルシュタインと言えるでしょう。
分割して統治せよ
オーベルシュタインの持論として、ナンバー2不要論がありました。
特に、キルヒアイスの存在、彼亡きあとにはロイエンタールに関しても、オーベルシュタインは危惧していました。
なぜ、それほどナンバー2を忌避するのか。
それは、ナンバー2による簒奪・下剋上を警戒していたとも言えます。
ナンバー2は排除しなくてはならない。それはローエングラム朝の開祖たるラインハルトが、一代というより半代と称すべきほどに急激に勃興したなりあがり者であって、主君と臣下との関係が制度化されておらず、伝統としても成立していないからである。ナンバー1にとってかわりうるナンバー2など存在を許してはならない。
『銀河英雄伝説7』2009年、30頁。
ラインハルト陣営は民主共和制・法治国家ではありません。
勃興したばかりの専制君主制であり、そのシステムは極めて属人的です。
ラインハルト陣営の諸将は、軍人というよりも武将です。
制度的な縛りが極めて緩い。ここが近代民主国家の軍人である自由惑星同盟軍の諸将と決定的に異なる点です。
同盟の軍人に求められるのは、その法的地位(指揮権)に限定されたプロフェッショナリズムです。なので、その行動も、属人的なリーダーシップというよりは、官僚的なヘッドシップの性格が常に付きまといます。ヤン・ウェンリーが自由に采配を振るえない理由もここにあります。
つまり、軍事におけるプロフェッショナリズムということは、法治国家としての政治的統制に服しなければならない側面を放棄できません。
対して、専制君主たるラインハルトは、その属人的なカリスマ性によるリーダーシップが権威と権力の源泉です。
ヘッドシップなどよりもリーダーシップに期待されますし、その地位を左右されます。
その配下の諸将も同じです。軍人というより武将というニュアンスが強い。
同盟軍の将兵は、あくまで国民軍であり、同盟憲章及び同盟政府に忠誠を誓うでしょうが、帝国軍の場合、その軍隊は、ラインハルト個人やその下の諸将に忠誠を誓う、一種の「私兵」のような性格があります。
例えば、ビッテンフェルト提督に対する黒色槍騎兵艦隊(シュワルツ・ランツェンレイター)の関係などが好例でしょう。
司令官の拘留で、隷下の部隊が激発し、軍務尚書の部隊と睨み合うというのは、極めて属人的な現象です。
このような性格の軍隊である以上、ナンバー2の存在は、極めて危ういものとなります。
オーベルシュタインの立場に立ってみれば、ナンバー1の下には、並列した複数の有力者が分割して並列して、均衡していた方が遥かに安全だと考えます。
ローマの昔から採られてきた「分割して統治せよ」です。
実際、ナンバー2と言っても過言ではなくなった「新領土総督」ロイエンタールが「叛乱」を起こすことになります。
近代民主国家、もっと具体的には現在の西側先進諸国では、ヘッドシップ、政治的統制が徹底されているので、このようなことは極めて起こり難いです。
例えば、陸上自衛隊の第7師団長は、その地位に対して、赴任して、指揮権・監督権を行使しているだけですから、中央(政府・防衛省)から(不当に)解任されたとしても、そこで師団自体が「叛乱」するというのは、ほとんど考えられません。自衛隊の軍備は全て日本国のものなのであって、そこに「私兵」は存在しないのです。
芸術家提督ことメックリンガーが、新銀河帝国の軍権は、中央に集約した方が良いのではないかと、漏らしていましたが、
「陛下がフェザーンにうつられるのはよいが、私はすこし軍制改革が不安だ。軍事力は中央集権でよい。軍管区のそれぞれに兵権をあたえれば、ひとたび中央の統制力がおとろえたとき、割拠の原因となるのではないか」
『銀河英雄伝説7』2009年、45-46頁。
まさに慧眼です。
戦乱・建国期を過ぎれば、官僚制的な国家システムを整備する段になるのですから、軍人にして政治家である「武将」は消える(政軍分離)ところまでオーベルシュタインのタイムスケジュールにはのっていたでしょう。
例えば、オーベルシュタインがビッテンフェルトの謹慎を命じた際、ミュラーが、黒色槍騎兵の「激発」を懸念した際、
「ミュラー提督らしからぬ不見識だ。黒色槍騎兵は帝国軍の一部隊。ビッテンフェルト提督の私兵ではるまい」
『銀河英雄伝説10』2009年、111-112頁。
と応じているところなど好例でしょう。
してみれば、もし、オーベルシュタインが暗殺されなければ、存外、ミッターマイヤーの国務尚書就任を歓迎したかもしれません。但し、「退役」の条件付きで。彼の軍服を脱がせたでしょう。
ちなみに、同じような「専制」国家で、意図的にナンバー2にはならずナンバー3で止まった人物としては周恩来が挙げられるかもしれません。
後編では「私兵」の問題を別の角度から見てみましょう。
【続】
★後編はこちら
⇒オーベルシュタインの政治学【後編】~ラインハルトと「王の二つの身体」(銀河英雄伝説の考察)