テレビ版「機動戦艦ナデシコ」最終回から劇場版「機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-」の間、「空白の3年間」を繋ぐ物語を描いています。
基本的に、テレビ版のドタバタ・ラブコメディーを踏襲していて、気軽に読める一冊です。
とはいえ、一筋縄ではいかないのが本書です。だって、劇場版が、アノ展開ですから・・・。
ナデシコ艦内の延長として
本書では、ナデシコクルーは、火星の「遺跡」をボソンジャンプさせてしまって、全員が、連合宇宙軍に抑留されています(同じ基地内に)。
とはいっても、そこは、あの面々のことですから、ドタバタを演じてくれる訳です。
プロスペクターの大岡裁きやら、アキトとミスマル提督のラーメン勝負やら・・・。
地上に降りても、ナデシコ「艦内」は延長戦にもつれこみます。
テレビ版と劇場版のミッシングリンク
テレビ版と劇場版の作風には明確な違いがあります。
テレビ版が宇宙戦艦という「閉じられた空間」のドタバタを演じながら、大団円に向かうのに対し、劇場版は、一見、「同窓会だよ、全員集合!」的な雰囲気を醸し出しながら、その実、「閉じられた空間」だったナデシコの「閉じられた(固定された)人間関係」は、その予定調和を最初から破壊して進行します。そして、エンディングでも、アキトは旅立っていってしまいます。
始まりの終わり
若いクルーにとって、ナデシコとは学校だったのではないか―そう考える時がある。
閉鎖された空間に、同じような年代の若者が集まり、泣いたり笑ったり怒ったり・・・。そこは、通常の社会と切り離された小さな社会。金や身分や権力などの大人の事情が希薄な、優しい世界。未来は限りなく、だけど、まだ始まっていない・・・。いつだって、そんな気がしている。
大河内一桜『機動戦艦ナデシコ~ルリAからBへ』角川書店、1999年、204頁。
いわゆる「終わりなき日常」です。
この手の舞台には事欠きません。友引高校にしろ、ネルフ本部にしろ、特車2課にしろ、一定の舞台装置の変わらぬ予定調和の中です。
それが、学園なのか、秘密基地なのか、戦艦なのかの違い。
終わらせなければ、延々と続けられる(ファンもついてくる)でしょうが、果たして、それでいいのかと、心の片隅に疑問がよぎる世界です。
本書では、ナデシコクルーのそれぞれの旅立ち・決意が描かれますが、それこそ予定調和の「破壊」の序曲です。
(それが本書終盤でのテンカワ夫妻の「運命」で完成される訳ですが)
「永遠の日常」を終わらせる難しさ
ここで見出されるのは「すでに終わってしまった世界」における「終わりなき日常」という表象であり、抽象的には終末論的・黙示録的な時間観念である。実際そこに描かれた時間観念は「停滞」や「円環」を特徴としている。
宮台真司・他『増補 サブカルチャー神話解体』筑摩書房、2007年、36頁。
「永遠の日常」は、そのファンにとっては、「見慣れた」居心地の良い世界です。
この四半世紀に量産されてきたエヴァンゲリオンの二次創作を想起してみれば明らかでしょう(一体、第●使徒までいるんじゃ!?)。
これを終わらせるというのは、なかなか困難なことだと思います。
終わらせることが、「痛み」になるからです。
代表例を挙げれば、押井守の一時期の手法は特に、この「永遠の日常を終わらせる」に特化されていたのかもしれません。
「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」の「永遠の文化祭前夜」とその破局。
「機動警察パトレイバー2 the Movie」における(パトレイバーの)世界観の大前提(礎)だった「戦後」そのものの解体。
いずれも、従来の作品ファンからは賛否が大きく分かれた「傑作」ですが、従来のファンにしてみれば、「永遠の日常」の解体は、鈍い「痛み」を伴うものですから当然の反応と言えます。
話が脱線しましたが、ナデシコもテレビ版と劇場版だと、前者が好きな人は後者が好みではなく、反対に後者が好きな人は前者が好みではない、という話を仄聞します。
これも同じ現象かもしれません。
ともかく、この2つの作品を架橋する小説は、一読してみては如何でしょうか。