この出版不況。新刊書店の閉店ラッシュが止まりません。
その起死回生に各書店が、こぞって導入しているのが、ブックカフェ。
店舗をリニューアルして、ブックカフェを併設。
本に囲まれて、お洒落で知的な時間を過ごす。

・・・しかし、そうは問屋が卸さない。
大概、こういうブックカフェに入って、目にするものは、棚に飾られた本を尻目に、その周りのアンティーク調のテーブルで談笑する客たち。
まあ、読書に集中している人は、滅多にお目にかかれない。
そもそも、談笑と喧騒の店内で、どうしてゆっくり本が読める?
付加価値という“まやかし”
しかし、人は私に言うだろう。
「いやいや、頑固な方よ。読書する為に付加価値をつけているのですよ」と。
なら答えよう。
「おお、寛大な方よ。その付加価値とやらが、読書という崇高な行為を危殆せしめているのだよ」と。

いいですか?大前提、本は「飾る」ものではない。
「読む」ためにあるのですよ。
ブックカフェで起こっていることは、本のインテリア化を進めているだけで、それは詰まるところ「知」のファッション化ではないか?
本を「読む」という価値が下落し続けている文化の中で、単に本を「飾り」として提示してしまう行為は、「本が読まれる」ことには貢献しない。
もちろん、付加価値を付けて、売ろうとする書店の経営努力(悪戦苦闘)には同情を禁じ得ないのだけども、そもそも本を「読む」という行為を忘れてしまった社会に対して、それをやっても、状況が好転するわけがない。
否、むしろ長期的には悪化する恐れがある。
読書が秘教的な行いになる日
本は開かれて読まれない限りは意味がない。
その国の文化で「本を読む」ということが後退したらどうなるのでしょう?
この文脈と異なるが、インターネットの興隆による読書の危機を、ニコラス・カーは次のように悲観的に書いています。
深い読みの習慣-「その静けさは意味の一部。精神の一部」―は、衰退し、縮小しつつある少数の知的エリートの領分となるだろうことは間違いない。
ニコラス・G・カー『ネット・バカ』青土社、2010年、154頁。
一部のインテリ、選良のみが読書を結果的に独占する。
まるで中世に逆戻りしたようですね。
いつの日か、書店というのは、本という「物」が陳列されている骨董品か美術商の店になっていしまっているのではないか?
それを併設したカフェから眺める。
ついぞページは開かれない・・・。
そんな悪夢を時たま夢想する・・・。

ともかく、猫も杓子もブックカフェという状況は決して救世主になりえないと思う次第です。お粗末。