街を歩いていると、公共機関から委託された警備の人が増えましたねー。
駐車違反監視員は言うに及ばず、違法駐輪の監視員やたばこのポイ捨て監視員etc.
こんなに警備員を配置しなければならないというのはどういうことか?
社会の自浄能力の低下
大衆社会が進行し、社会の匿名性が強くなれば強くなるほど、反比例して、共同体の凝集性は低下していきます。
例えば、「国旗国家法」。
1999年に公布・施行された法律で、国旗は日章旗、国家は「君が代」とするだけの極めてシンプルな法律ですが、成立の際に、左右で一悶着あったのをご記憶の方も多いと思いますが、ここでの論点はそこでない。
君が代や日章旗の正統性もここでは関係ない。
問題は、それを明文化して立法化しているところにある。
実定法と慣習法の狭間で
本当に、文化や慣習になっているのなら、わざわざ、法律になぞする必要はないですよね?
誤解しないでいただきたいのは、「日章旗や君が代が日本に定着していない!」とか言いたいのではなくて、日章旗や君が代を法制化しないと心配だという考えが出てきてしまっていること。
本来、あらゆる規範は個人であれ共同体であれ、内面化(受肉化)されていれば、実体法として書く必要などない。
まあざっくり言うと慣習法ですかね。
それを、実定法にしないといけない、なんでも書いて決めたい、禁止したい!
あれも見張れ!これも見張れ!
・・・これは、社会の成熟度のバロメーターな気がします。
ほら、コンビニとかで、「●●禁止」「●●はお止め下さい。」の張り紙が溢れていることありませんか?
あれって、一部の不心得者に書いているのはわかるんですが、その他99人のまともな人には不快でしかない。
そもそも不心得者は、貼り紙くらいじゃやめませんよ。
誰も得しませんね。
セルフ警察国家
警察国家などというと、権力者がナチスよろしく全権委任法成立させて独裁体制・・・みたいなイメージかもしれませんが、日本で起こっているのは国民のセルフサービスでの警察国家化。
あれもこれも法律で禁止して、その為に警備や立法などのコストを払う。
ひいては大きな政府、行政国家化をまっしぐら。
それを国民自身が求めてしまっているのだから仕方ない。
共同体が成熟しているならば、慣習法で十分なはず。
共同体・社会の自浄作用・自助努力で機能すると思うのですが・・・。
「腐敗した国ほど法律は夥しい数になる。」
タキトゥス