時代を色濃く反映する動画投稿サイトの世界。
従来の常識では考えられないような企画が次々生み出される世界ですが、最近、「私人逮捕系YouTuber」なるものが流行(?)しているようです。
これは、YouTuberが、痴漢をしていると思われる人間、高額転売をしているらしい人間、違法薬物の売買をしていると思しき人間を、詰問し、時に強制力をもって「私人逮捕(常人逮捕)」し、その様子を撮影し、動画にアップするというものです。
まあ、こう書いただけで、そのリスクの高さは明らかで、各方面で物議を呼び、また、法律の専門家からも批判的な指摘が相次いでいます。
法的な(刑法や刑事訴訟法)問題は、その手の方々にお任せするとして、この一連の行為は、行政の、もっと言えば国家の側から見ると、どうなのか?という視点を考えてみます。
そこには、法的問題を超えて、深刻なリスクが見えてきました。
つまり、彼らは、「一線を越えて」、国家という虎の尾を踏んでいるのではないか、と。
国家の目的とは何か?
国家(政治的共同体)の目的とは何でしょうか?
国民の幸福追求、福祉、など色々挙げられるでしょうが、近代国家のそれは「秩序の維持・創出」です。
近代国家を「ステイト(state)」と言います。これは、「状態」を意味しますが、転じて「秩序状態」のことを言っているのです。
近代国家の目的が「秩序」にあるというのは政治学でも根強い考え方で、いわゆる夜警国家論などが典型ですね。
社会契約論で知られる16世紀の思想家トマス・ホッブズは、「自然状態」という国家が無い状態を仮定してみました。完全なアナーキー、無法状態・無政府状態です。
そこでは、生存の為の資源は希少な為、これを巡って果てしない闘争が繰り広げられます。
「人は人に対して狼」であり、「万人の万人に対する闘争状態」という修羅の巷です。
絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い。
ホッブズ『リヴァイアサン』※1
リアル『北斗の拳』な訳です。映画「マッドマックス2」の世界ですね。
そんな状態をどう脱出するのか?
その答えは、毒はより強力な毒をもって制すべきというものです。
自然状態での大小無数の暴力を、ひとつの巨大な暴力(権力)によって、圧倒してしまおう。
即ち、強大な国家(コモンウェルス)を創出し、無秩序状態から秩序状態に転換するのです。
そのあまりに強大な存在である国家を、ホッブズは、旧約聖書に登場する恐るべき怪物「リヴァイアサン」に模しました。
無秩序に戻らない為に、強大な国家権力が必要であり、国家以外の私人が、不法行為を行えば、直ちに鎮圧・刑罰を与える能力が与えられています。
物理的強制装置の独占
そのようなリヴァイアサン=近代国家にとって、極めて重要になるのが暴力の独占です。
もし暴力が分散していると、自然状態に逆戻りしてしまう契機になってしまいます。
そこで、国内の暴力の行使の権能を国家は独占します。
これを、「暴力装置」(マックス・ウェーバー)あるいは「物理的強制装置」と言います。
何の事を言っているかは、すぐにお分かりかと思いますが、即ち軍隊と警察です。
国家は、自己の暴力以外の暴力を非合法化します。
私人の実力行使(暴力)は違法行為として処罰の対象となりますが、軍隊や警察の暴力行為はそれが適法である場合は正当・合法(違法性の阻却)となります。
警察官が凶悪犯を射殺しても、防衛出動中の自衛官が敵兵を殺害しても、刑務官が死刑囚の死刑を執行しても、殺人罪その他に問われることはありません(刑法35条)。
すべて秩序を維持し、自然状態を回避する為の「暴力」です。
警察権
近代国家の目的は確認できましたが、それが「私人逮捕」とどう結びつくのか。
これは特に、「警察権」の問題に関わります。
物理的強制装置の一方の雄である警察が、国内の秩序維持(治安)を図るために行使する権能(犯罪捜査、許認可権、逮捕権、実力行使)が「警察権」ですが、これを、最も広範に行使できる最大の存在が警察です。
トートロジーみたいに思われるでしょうが、警察権は警察だけに限定されません。
日本で言えば、厚生省麻薬取締部や海上保安庁、国会の衛視、自衛隊の隊内警察である警務隊などにも警察権は限定的な形で付与されています。
また、変わったところでは、旅客機の機長や船舶の船長にも警察権がある場合があります。
しかし、日本国内において、最も広範に、ほとんど例外なく警察権を行使できる存在は、警察庁を頂点とする都道府県警察です。
(日本警察が手を出せないタブーは、それこそ在日米軍くらいでしょうか)
俗な言い方をすれば、警察の独占的利権・縄張りとは、警察権の行使によって達成される「治安」です。
警察庁(と都道府県警察)は、戦後日本において、極めて強力な組織力・情報力・執行権限を振るってきたわけで、一般社会はもちろん、自衛隊の首根っこを押さえ、公安情報(選挙情報)で政権にも重宝され、肩で風を切る存在です。
「国内治安維持」を目的に、ほぼあらゆる場面に介入しようとします。
そこには強烈な「治安」に対しての自信と独占欲が見え隠れします。
例えば、2023年6月に発生した岐阜県の陸上自衛隊射撃場で起こった自衛隊候補生による銃乱射殺傷事件。
自衛隊施設内で起こった事件なので、本来、その管轄権(警察権)は自衛隊の隊内警察である警務隊(憲兵。外国のMP、ミリタリーポリスに相当)の筈ですが、拘束された犯人を逮捕したのは通報で駆け付けた岐阜県警ですし、その後の捜査も、警務隊単独ではなく、岐阜県警との合同捜査の形を採っています。
これは、戦前だと考えられないことではないでしょうか。
戦前に同じような事件があっても、終始、陸軍憲兵の独断場で、警察が介入する余地は恐らくありません。
そもそも戦後の警察庁(旧内務省系)は、戦前に陸軍に吞まされた煮え湯の、意趣返しの如く、憲法上、疑義があった自衛隊を、陰に陽に強く統制してきました。
自衛隊の前身である警察予備隊は、その創設から警察官僚が主導していました。
長年、制服組に対して優位を保ってきた防衛省の内局(背広組)も警察官僚が多数を占めています。
物理的強制装置の他方である軍隊(自衛隊)を抑えることは、国内治安に対しての絶対的優位性を確立します。
(故に、警察にとっての悪夢は、自衛隊の国内治安への介入、即ち「治安出動」です)
リヴァイアサンの尾を踏む
ここまで読まれてくると、国家にとっての暴力がどれほど重要か理解できるでしょう。
本来、緊急避難として、例外として存在していた「私人逮捕」を、安易に行うのがどれほどのリスクか。
有形力(暴力)の行使、囮捜査を含んだ質問・捜査活動、これらは明らかに警察権であり、私人逮捕系YouTuberという活動は、即時、私人による警察権の行使となってしまいます。
大袈裟に言えば、それは、自然状態への復帰を目論む行為であり、国家というリヴァイアサンの尾を踏んでしまっているのです。
近代国家を語る上で欠かせない概念に「主権」というものがあります。
「主権」とは16世紀の思想家ジャン・ボダンが提起した概念です。現代でも「主権国家」や「主権侵害」など、ニュースで耳にしますね。
この「主権」とは何か?
ざっくり要約すると、主権とは「一定の地域(国内)で、絶対的かつ、恒久的な不可分・不可侵な最高の権力」です。まさにリヴァイアサンの名に相応しい。
多少、揺らぎや議論・諸説はあるとしても、現代でも「主権」の大枠はここにあります。
国内で、中央政府と全く関係ない私人が権力を振るうことは、権力の分割であり、「反乱」に値します。
そのような行為は、自警団、私設警察の類です。
国家の一構成員の警察権の不法な行使は主権国家に対しての叛逆と言っても過言ではない。
以上のように、国家の主権から考えても、警察の国内治安に対しての強烈な縄張り意識から言っても、「私人逮捕」の蔓延は看過できないものの筈です。
早晩、何らかの反応が、国家権力からなされるでしょう。
リヴァイアサンに抗う術を自ら捨てるのか?
他方、被治者、つまり国民の側から見ると、私人逮捕系YouTuberの行為はどういう意味を持つのでしょうか?
ここには法と政治の微妙な関係が大きく関わってきます。
リヴァイアサンたる国家(政治権力)が暴走したり、悪政に走ったりということは当然考えられるわけですし、その傍証は歴史に溢れています。
つまり、自然状態への転落を防止するリヴァイアサンは、同時に、国民を踏みにじるかもしれないという、諸刃の刃です。
国家が必要悪と言われる所以がここにあります。
そこで、国家の暴走を食い止めよう、非常ブレーキを設定しようとする試みがなされてきました。
例えば、権力分立。国家を三権(司法権・立法権・行政権)に分立させ、相互に抑制・監視させ、均衡しようという権力システム。
また、憲法というのもそうです。
憲法は、国家を縛るために存在しています。
そして、警察権に関しては、「デュー・プロセス(適法手続き)」によって、それに歯止めをかけています。
国民は、基本的に無防備であり、強大な国家権力の前では、無力に等しい。
故に、警察権の執行が適切に行われ、個人の人権が侵害されないように、各種法令で守ることにしています。
これが極めて厳格な米国だと、権力側のデュー・プロセスの瑕疵によって、真犯人が無罪になることも有りうる。
日本でも例えば、揉めるに揉める職務質問にしても、警察官職務執行法を根拠にしていますが、その活動には膨大かつ複雑な判例の積み重ね、法の解釈がある訳です。
とても一般人にはすぐ理解できる代物ではない。
逮捕したら、逮捕したで、凡雑な刑事争訟法に基づく手続きが待っている。
なんで、こんな面倒なことになっているかと言えば、それは司法権と警察権(行政執行権)の鍔迫り合い、そして、国家権力と市民社会の人権を巡る攻防な訳です。
それを、全く無視して、デュー・プロセスなぞ無いかのような自警団的な私人逮捕は、デュー・プロセスそのもの、法秩序そのものを破壊してしまう、ダムに穿たれた小さな穴になりかねないのです。
デュー・プロセスは、個人の人権を守る武器であり、被治者の側がそれを自ら破棄するかのような振る舞いは、リヴァイアサンに自らを人身御供に供するかの如き、自殺行為です。
※1.永井道雄・編『世界の名著28 ホッブズ』中央公論社、1999年、157頁。