原作はソ連のSF作家ストルガツキー兄弟の1970年代初頭のSF小説です。1979年に、同じくソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーにより「ストーカー」のタイトルで映画化されました。
あらすじ
ある地域に突然出現した異常現象発生地帯。頻発する異常現象の正体も原因も掴めない。住民は消え、派遣した軍隊も帰ってこない。
その地域は「ゾーン」と呼称され、その立ち入りは厳しく制限される。しかし、そのゾーンに、命の危険を顧みず潜入を繰り返す道案内人・異常物体の密猟者などが現れ、彼らは「ストーカー」と総称された。
異色のSF映画
※ネタバレあり
映画と原作では、かなり趣きが違います。
(原作に関してはこちらの記事をどうぞ→ストルガツキー兄弟『路傍のピクニック』~「虫」と「人間」のファーストコンタクト)
本映画版は、日米のSFに慣れていると、かなり違和感を抱く作品でしょう。
冒頭、以下の文が流れます。
「あれは一体何だったのか。隕石の落下か、遠い宇宙から生命体がやってきたのか。
ある一帯に摩訶不思議な世界が生まれた。
そこはゾーンと呼ばれる。軍隊が視察に赴いたが戻っては来なかった。
それ以来、非常線が張りめぐらされた。
適切な対処とは言いきれないが・・・」
ノーベル賞学者ウォレス教授の言葉より
設定の説明はこれだけです。あとは、戦闘シーンもなければ、異星人も出てこない。「ゾーン」の秘密も何も明かされない。CGもアクションもない(序盤に規制線を越境するのに、警備隊に銃撃される位)。
ただただ静謐な、詩的な、ゾーンでの旅路が描かれるだけです。
しかも、タルコフスキー作品のご多分に漏れず、2時間43分の長編です。
本作では、ゾーンの奥にあるという「願いが叶う部屋」にストーカーが、依頼人の「作家」と「科学者」の二人を道案内する「旅路」が描かれます。
途中、異常現象が起こる場所を避けたり独自のルールを守ったりと、目的地にはなかなか辿り着かなく、依頼人たちも焦れます(視聴者も焦れます)。
もしかすると、「ゾーン」の異常現象など、何もない。それは誰かの壮大な「嘘」であり、我々はそれに騙され、付き合わされているだけではないのか?
ストーカー本人だけがそれを盲信している道化ではないのか?
冒頭のノーベル賞学者の言葉が無ければ、そもそもSFなのかが疑わしくなる作品なのです。それほどにSF的「仕掛け」はない。
実は「全てが壮大な嘘」。これが映画の結末でも十分に楽しめるかもしれませんが。
思うに、このゾーンという設定を舞台装置に、タルコフスキーの「詩」が表現されている映画という性格が強いかもしれません。
そんな言葉が、彼特有の映像美と共に語られます。
「ゾーンが通すのは希望を失った人かも」
「経験主義は忘れるんです。奇跡には通用しません。聖ペテロも溺れかけた。」
「ここで叶えられるのは、無意識の望みなんだ。」
最終的に、「願いが叶う部屋」の前に辿り着いたとき、依頼人とストーカーは対立します。
「部屋」の人類にもたらす「危険性」から、「科学者」は爆破しようとします。
「この病窟が悪漢どもに解放されている限り、安眠できない。」
しかし、ストーカーは懇願します。
「人間が希望を持てる場所は地上にはない。ここだけが最後に遺された、人間が希望を持てる場所なんです。」
ストーカーの懇願は病的でもあり、それこそ、「病窟」という表現と対応しています。
転じて、現代と言う病窟の、最後の希望に縋る男の姿です。
チェルノブイリと、もうひとつの「ゾーン」
さて、本作を鑑賞していると、必ず想起されるのが、チェルノブイリ原発事故です。
「ゾーン」という禁断の地が、また、人知の及ばない災厄が、まさにチェルノブイリの暗喩として描かれている。
・・・と、書きたいのですが、事態はそれほど単純ではない。
- チェルノブイリ原発事故:1986年4月26日
- ストルガツキー『路傍のピクニック』:1972年出版
- タルコフスキー「ストーカー」:1979年公開
・・・。そう、チェルノブイリ原発事故の前に本作は公開されているのです。
知らずに観ていれば、まず、時系列は逆転して理解するでしょう。
もはやこの事実自体が、ゾーンにおける「奇蹟」のひとつと言っても過言ではありません。
この「ストーカー」とチェルノブイリの不可思議な関係は、様々な「波紋」というか、「影響」を与えています。
実際、チェルノブイリ原発の立入禁止(制限)区域は、「ゾーン」と呼ばれ(!)、そこに「侵入」する案内人・旅人を「ストーカー」と呼ぶ現象が起きています(!)※1
この、現実が虚構に浸食される現象も本作の神秘性を高めています。
※1 東浩紀・編『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』ゲンロン、2013年、11-12頁、70頁。