2020年は新型コロナウイルスが猛威を振るい、世界的に暗い影を落としています。
日本でも、緊急事態宣言が発令されるなど、緊迫した日々続いています。
そんな中、日本政府の対応や日本社会の反応などに関して、いくつかのフィクションと絡めて論じられることが増えています。
そのひとつが、1993年のアニメーション映画「機動警察パトレイバー2theMovie」(監督:押井守)です。
その作内の描写と現状があまりに「酷似」していると話題の様です。
今回の一連の「国難」と何が酷似しているのでしょうか?
何が酷似しているのか?
本作は、「ある男」が日本に対して仕掛ける「戦争」に、この国が翻弄されてゆく様を描いた異色のアニメーション、ポリティカルフィクションです。
では、ご存じの方も多いかと思いますが、一応、あらすじを見てみましょう。
1999年、東南アジア某国に派遣された陸上自衛隊PKO派遣部隊は、反政府軍の攻撃に対して、一発の応戦も許されずに全滅。生存者1名。
それから3年後、何者かの謀略による横浜ベイブリッジ爆撃事件勃発。
それを機に続発する不穏な事件は、自衛隊と警察の対立を呼び、遂には、首都への自衛隊の治安出動にまで発展した。
降りしきる雪、折しも2月26日。
米軍の介入の時が迫る中、戦端の開かれた東京で、事態を収束するため、特車二課第2小隊、最後の出撃が始まる。
本作と新型コロナウイルス禍の酷似点として、次のような言説が多く見られます。
第一に、危機に対して後手に回る日本政府の対応が酷似。
防疫対策など、一連の事態には後手に回っているという批判の声が大きくなっています。
パトレイバー2でも、日本政府の対応は決断できない内に、状況は加速度的悪化していきます。それに対する対応が泥縄式です。
また、事態の見通しが楽観的です。これを本作の事実上の主人公である後藤喜一警部補が警視庁の幹部会議で呟くシーンを重ね合わせる向きが多いようです。
「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代る。そして最高意志決定の段階では、現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けている時は特にそうだ。」
元はジェイムズ・ダニガンの『戦争のテクノロジー』という本の一節です。
この台詞が、現在の政府の対応ぶりそのままであると話題です。
そして、この後、作中では、とうとう恐れていた事態が起きます。会議室に飛び込んできた警察官が、「決起」した自衛隊ヘリが都内を空爆していると伝え、「戦端」が開かれた事を一同が理解した時、後藤の怒声が響きます。
「だから!遅すぎたと言っているんだ!!」
後手に回る日本政府の対応に、このシーンをSNSに貼り付ける方が後を絶ちません。
第二に、日本政府ではなく、作中の日本社会と今の社会の状況が重なる。
作中、都内には陸上自衛隊が治安出動し、東京は事実上の戒厳令下に置かれます。
作中では事実上の戒厳令下に、戦車を横目に通勤するビジネスマン、新宿アルタ前の装甲車、武装した自衛隊員の横で待ち合わせするOL・・・という有事と平時の奇妙なコントラストが描かれます。
一方、現実は新型インフルエンザ等特別措置法による「緊急事態宣言」が都内に布告され(後、全国に拡大)、学校、観光施設、商業施設が軒並み休業状態になっています。
しかし、緊急事態宣言後も平時と同じように感染リスクの中、満員電車で通勤客は仕事に向かいます。この光景が、パトレイバー2の「戒厳令の中の日常」とオーバーラップした訳です。
それは先見性なのか?
確かに現実は、パトレイバー2の中のテーマや光景と重なります。
それだけ本作の質の高さが証明された訳かもしれません。
止まれ。しかし、それは先見性なのでしょうか?少し違和感を覚えます。
つまり、パトレイバー2の描写・暗喩が的を射ていたとしても、それは「先見性」や「予言」の類なのか?
おそらく、それは、先見性ではなくて、日本社会の本質的な部分での病理を抉り出した故に傑作となり、今回の新型コロナウイルス禍にも、その日本の変わらない「本質的」な部分が顕れたのではないか。
長い年月残る名作とは普遍的なテーマ、抽象度の高さが、そのひとつの要因を成すでしょう。
つまり「本質」を表現すること。
パトレイバー2は日本社会(あるいは思想)のひとつの「本質」を抉ったのです。
今回の新型コロナウイルス禍を見て、パトレイバー2を連想した方は、丸山真男を読まれると良いと思います。
丸山は日本の統治構造は、「多頭一身の怪物」(中江兆民)であると指摘しています。
つまり、日本には、明確で統一的な国家意志の決断主体がなく、大日本帝国という「怪物」も、それを統御すべき「頭」が1つではなく何個もあるような状況であった。
キングギドラよりも八岐大蛇ですね。
「頭」同士の思想の相違、セクショナリズム、牽制、駆け引き、好悪感情なども入り交じり、国家の意思統一など図れない。
「元老・重臣などの超憲法的存在の媒介によらないで、国家意志が一元化されないような体制が作られたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。」
丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年、38頁。
元老はやがて絶え、日本は国家意志の統一なきまま、いわば「空気」(場当たり的、世論、希望的観測)でパールハーバーまで突き進みます。
丸山は「無責任の体系」という考え方を強調します。
このような多頭一身の怪物、決断主体がないのであれば、それは、必然的に誰も責任をとらないことに繋がります。なぜなら、「誰も」決断していないのだから、誰も、責任者になり得ないのです。
これ、そのまま、今の日本政府と同じではないでしょうか?
つまり、この為政者・政府の「無決断」「無責任」「場当たり的」「非合理的」な状況は、今に始まったことではないし、1945年以前の日本にもあったこと。
要するに、戦前から、「何も変わっていない」のです。
なので、現政権だけを責めても(責める必要はあるのですが)、それはミクロ的な部分であり、もっとマクロなエートス、政治的文化の次元の話だということです。
(この辺りの議論はこちらの記事を→日本の政治家の問題、それ本当に問題?~政治的メシア主義を考える~ )
そのマクロ的な本質を絶妙に投影しているからこそ、パトレイバー2に感嘆するのでしょう。
故に、先見性という事とはやや違う。
ちなみに、明治大正の元老に相当する超憲法的存在は、戦後日本には存在し、今もあります。
アメリカです。
戦後日本の「危機」
振り返れば、戦後において、危機は何度も訪れています。
その度に、今回の新型コロナウィルス禍のような光景は毎回再現されています。
3.11東日本大震災のような直近の大災害だけではなく、それこそ無数に。
特に、パトレイバー2の関連で言えば、1976年のミグ25函館亡命事件です。
函館空港にソ連軍のミグ25戦闘機が領空侵犯の上に強行着陸。
この際、警察は陸上自衛隊の介入を認めず、自衛隊が蚊帳の外に置かれる異常事態となりました。
更に追い打ちをかけたのが、米国から「ミグを奪還する為、ソ連軍が函館侵攻の可能性大」という情報です。
この情報に日本政府はどうしたか?
何もしません。まさかの無策です。
これに追い詰められたのが、函館駐屯地の陸上自衛隊第28普通科連隊でした。
政府は何もしない。しかし、実際にソ連軍が来たら法的根拠が無くても戦わなくてはならない。まさに前門の虎後門の狼です。
連隊は独自の判断で出動準備を進めます。
更に、他の海上自衛隊、航空自衛隊とも意思の疎通は取れていない。
まさに多頭一身です。
日ソ開戦が差し迫った状況ですらこの有様です。
新型コロナウィルス禍の対処より酷い。
つまり、危機に対するこれが、日本の「政治」の伝統、エートスです。
ちなみに、この孤立無援とも言える第28普通科連隊。パトレイバー2の第2小隊と似ていませんか?
緊急事態宣言は戒厳令ではない
さて、次に新型コロナウィルスの緊急事態宣言での日常と非日常の交錯に関して。
確かに、「緊急事態宣言」という言葉の厳めしさが、パトレイバー2の「戒厳」状態とオーバーラップするというお話です。
今回の緊急事態宣言、「自粛」「要請」「お願い」のオンパレードで大分、名称のイメージとの落差を感じた方は多かったと思います
それでも、シャッター通りが生まれ、都心の人口が激減しているのは、日本人の「空気」を読む力、同調圧力を狙った「上手い」統治手段、政治手法かもしれません。
「自粛」であれば、まさに責任を採らない、「無責任」ですから。
さて、確かに日常は様変わりしましたが、それはやはり「戒厳」とは「違い」ます。
ここで「戒厳」を考えたいのですが、周知の通り、日本には戦後、「戒厳」を布告する為の法律である「戒厳令」(太政官布告第三十六号)が存在しません(1947年廃止)。
唯一近いのが、自衛隊法上の治安出動ですが、これも、見方によっては文事官憲の支援(警察の第二軍の投入)に過ぎないとも言えます。出動部隊は警察官職執行法を準用する訳ですから。
但し、実定法(現実に立法されている法律)としては存在しませんが、それは「ある」という考え方があります。実定法を超えた自然法として存在していてるということです※1。
(詳しくはこちらの記事をご覧ください→楾大樹『檻の中のライオン』読後雑感~2つの「政治」への恐怖心)
では、「戒厳」が自然法的に存在しているという解釈に立って、それを発動(布告)した場合(パトレイバー2の描写はこれに近いのですが)、新型コロナウィルスの緊急事態宣言と本質的に何が違うのか?
もちろん、武装した自衛隊が出動している訳ではありません。
そうではなくて、思想的・観念的な次元として。
それは、そこに「敵」がいないことです。
「え?新型コロナウィルスという敵がいるだろ?」
というご指摘はあるでしょう。
しかし、ここでの「敵」とは、生身の「人格」「意志」「理性」「思想」を持った存在者です。
それが相手としていない限り、それは「政治的」ではない。
新型コロナウィルスは、公衆衛生上の社会問題であって、政治問題ではない。
付随する、あるいは派生する問題は政治的ですが、それそのものが「政治的」では決してないのです。
「戒厳令」とは、国内の秩序を維持する為の「内敵」の撃滅の布告という極めて「政治」的な行為です。
新型コロナウイルス禍で、いくら世相が緊迫し、政府がより強い態度で自粛を強要したとしても、「内敵」としての人間がいなければ「戒厳」と、それは本質的に違うのです。
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【脚注】
※1.いわゆる「戒厳令」や「国家緊急権」と呼ばれる強権には、二つの潮流がある。一方は、大陸法系(独仏)の「合囲法」、他方は英米法系の「非常法(軍法)」である。前者は、実定法・成文法としての戒厳であるのに対し、後者は慣習法・不文法としての性格が強い。詳しくは、小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年。または、大江市志乃夫『戒厳令』岩波書店、1978年