森達也『千代田区一番一号のラビリンス』~ジャンル不明!まさにラビリンスな天皇小説【感想・雑感】

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「そんなこと言っていたら何もできない」

「だからタブーなんだよ。全方位的にトラップがある。それが天皇制の本質だ」

森達也『千代田区一番一号のラビリンス』現代書館、2022年、214-215頁。

「天皇小説」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか?

一番多い答えは、深沢七郎の『風流夢譚』でしょうか。

なにせ犠牲者まで出してしまった「事件」です。

また、具体的な書名が挙がらなくても、そこには、「タブー」「菊のカーテン」「右翼の抗議」などという禁忌のキーワードが連想されます。

しかし、そんなタブーを、まるで無いかのような小説が出版されました。

著者は、あの(・・)森達也。そう、常にタブーに挑戦する映像作家です。オウム事件に関するドキュメンタリー映画「A」は衝撃的でした。

そんな彼が『天皇小説』を書いた!

恐いもの見たさ半分にページを開いた私は、当初の予想に反する読書体験をすることになりました。

※以下、ちょっとネタバレあり

まさかの主人公

ある日の神保町。硬派で知られる某書店の名物である新刊コーナー(通称:軍艦)をブラブラと眺めていると、ふと見に留まった本。

書名は、森達也著『千代田一丁目一号のラビリンス』。

千代田区一丁目一号・・・

その聞き覚えのある住所に、足が止まります。

え、皇居?

これ小説だよね?

次の瞬間には、もう本を手に取り、ページを繰っていました。

そして衝撃を受けます。

大概、天皇が小説上に「登場」するといっても、その名前だけだったり、一瞬だったり、公式の場であったり・・・と、要するに「匂わせ」や「ゲスト」だったりと、いわばカメオ出演的なものが大半です。

ところが本作。

主人公は「明仁(あきひと)」。

その妻は「美智子」。

その夫妻が、御所のリビングでテレビを眺めながら会話しているシーンから始まります。

誤ることなく、天皇と皇后、その人です(舞台設定は平成末期、代替わり直前)。

ストレート豪直球に面喰いました。

これは大変な小説だ・・・。躊躇することなく、レジへ。

※以下、ネタバレあり

あれ?ちょっと違う

とまあ、こんな調子で、買い急いで、読み始めた訳です。

まさか、こんな「問題小説」が発売されていたとは・・・、全くの不覚。

それもその筈、当日、何軒も廻った神保町の新刊書店では、ランドマークとさえ呼ばれる某大型書店本店(間もなく閉店・建て替え)も含めて、本書は新刊コーナーに陣列はなかった(!)発売間もないのに。

恐るべし「軍艦」。

夢中になって翌日には読了した訳ですが、その感想を一言にまとめると、「あれ?ちょっと違う」

読む前は、社会派のリアルに限りなく近いフィクション(政治色強め)を想定していたんですが・・・。

なんというか、アレです。強いて言えば、まるで恩田陸の作品のような感じでした。

本作の世界観は、現実の平成末期ですが、唯一異なるのが、「カタシロ」と呼ばれる異常な物体(一反木綿というかモノリスというか)が国内各地で目撃され、原因も正体も判明せず、かといって害もないので、いつのまにか放置されているという世情。

これが、本作にオカルティックで、どこか不穏な空気を与えている。

そこに、天皇皇后のお話と、主人公映像作家の森克也(著者と一字違い)のお話が、並行して進むと言う形式。

現実と交錯する

天皇皇后が平成の御代の御本人なら、登場人物も実在の人物が(一部変名で)登場しているのが本書の特徴。

森達也本人は勿論、山本太郎、木村三浩、政治コント集団「ザ・ニュースペーパー」、さかなクン(!)etc.

フジテレビも実名で登場しますね。

また、現実にあった事件も登場します。

山形国体での発煙筒事件や、物語に重要な役割を果たす園遊会での手紙渡し騒動・・・etc.

話の展開で、とある議員がご進講に招かれたり、やや強引すぎるきらいはありますし(絶対に政府・宮内庁が認めないでしょうね)、一般参賀での警備や天皇の「お忍び」の描写はリアリティに欠ける気がします(某メンバーがある扮装をして参賀に入場する一幕は、さすがに警備公安に阻止されそう)。

とはいえ、いずれも物語全体を通して気になるレベルのものではありません。

天皇制と天皇と

本作のひとつの狙いは、天皇制と天皇個人を分けて考えるという部分にあると読めます。

おそらく平成は、天皇への国民の支持が極めて高い時代だったのでしょう。

その大きな理由は、平成の天皇皇后の「人柄」に依るところが大きい。

本作を読んでて、その明仁天皇の描写に、違和感を持たず、「ああ、陛下ならこう仰るだろうなあ」と思うのは、実は不思議なことです。

別に自叙伝が発表されているわけでもなく、記者会見も自由に語れるわけではない。

ところが、我々は、なぜか陛下の気持ちを「ご推察」できるし、なぜだか「お人柄」を存じ上げている。そしておそらく外れてはいない。

それは、有形無形な様々な制約がある公式な「お言葉」に、それでも込められたご自身の言葉の妙、更には言葉よりも行動で、表情で、ご自分を語って、それを国民の側が受け止めると言う、絶妙で、極めて不思議な関係が成立しているからでしょう。

このような状態は日本にも天皇制にとっても幸福でしょうが、そこにはひとつの陥穽があります。

それは、天皇制というシステムとその座にいる天皇個人を同一視してしまう点です。

天皇個人と天皇制の間にある齟齬、乖離、両者が重ならない部分が見えなくなってしまう。

天皇個人と天皇制に関しては、政治学者の丸山真男の論文「超国家主義の論理と心理」(1946年)が未だに重要でしょう。

丸山は、日本人が主体的な自由な「個人」ではなく、国家(天皇制)がその私的領域まで包容してしまい、全ては、中心点たる天皇への距離で決まってしまうと喝破しましたが、では、そのシステムの中心点にいる天皇個人は近代欧州専制君主の如き「自由な個人」であるかというと、そんな事はなく、皇祖・皇統という過去に縛られていると指摘します。

かくて天皇も亦、無限にさかのぼる伝統の権威を背負っているのである。天皇の存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇統もろとも(・・・・)一体となつてはじめて上に述べたような内容的価値の絶対的体現と考えられる。

丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、27頁。

天皇個人も天皇制からは自由ではない。

本作では、主人公の森克也が、明仁天皇の声を聞こうとするのは、その辺りの天皇個人の心情を「ご推察」しているといえます。

ともかく、この両者の同一視は、いずれ深刻な問題を生むでしょう。

極論、聖徳(人徳)がない天皇が位についたとき、どうするのか?

たしか、このジレンマは保守派の論客だった西部邁が言っていたと記憶しています。

その時、天皇制は重大な岐路に立つでしょう。

オカルトと天皇

天皇その人をここまでリアルに描いた中で、本作を一種の幻想的なフィクションに仕立てているのは、「カタシロ」です。

ところが、この存在、物語で全く違和感がない。

その理由は、誤解を恐れずに言えば、天皇というのはオカルトと相性がいい。その言い方が不敬であるならば、神秘的と言い換えてもいい。

そもそも極めて宗教的な存在、加えてアニミズムの側面が強い存在ですし。

オカルトは隠されたものの意ですが、天皇ほど隠されているものは、現代だとそうお目にかかることが出来ない。

冒頭で、本作がまるで恩田陸の作品のようだと書きました。

ノスタルジアの魔術師と言われる恩田陸ですが、その「ノスタルジック」とは、遠い、見えない、わからない、知っていたようで知らない、覚えているようで覚えていない、という「不安」「不安定」という要素で全体を彩られており、その感覚は、オカルト的なものと相性がいい。

やや強引ですが、「天皇」という存在は、その意味で、恩田陸的な世界観と実はものすごく相性がいい。

本家の恩田陸作品には天皇は登場しませんが(匂わせる描写は存在します)。

それを森達也が柵をヒョイと乗り越えてしまった。

その蛮勇、いや快挙には喝采を送ります。

その森達也についてですが、私個人が彼の作品で、一番好きなのは、『オカルト』です。

その中の、キーになる概念・理論で「羊・山羊効果」というのがあります。

オカルト現象自体が、それを肯定する人間と否定する人間でその現われ方に、なぜ(・・)()差が出るというものです(例えば、肯定派には超常現象が現れ、否定派には現れない等)。

観察者の存在かつそのバイアス自体が、現象に影響を与えているかもしれない。

オカルトは人目を避ける。でも同時に媚びる。その差異には選別があるとの仮説もある。(中略)現象が観察者に迎合する。媚びようとする。あるいは拒絶する。

森達也『オカルト』角川書店、2012年、49頁。

天皇制の存在も、やはりオカルトとの親和性から、このような不思議な存在といえないでしょうか、

天皇制(時の天皇個人ではない点に注意!)という摩訶不思議なシステム・存在が、まるで意志をもっているかのように、人目を避けようとし、媚びようとし、あるいは拒絶する。

日本人というのは、長い間、その手のひらの上で右往左往している一群に見えて仕方ありません。いや、天皇・皇族の方々も・・・。

正直、森達也という人が、こういう物語を書くのは想像しませんでした。

それにしても、終わり方まで「霧に包まれたような」恩田陸ぽい幕切れでした。