堀新『13歳からの天皇制』読後雑感~せめぎ合う二つの国家観~

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憲法を通して「天皇」「天皇制」を考えるというコンセプトで書かれた本です。

思った以上に、著書自身の思想(天皇制への賛否)に関しては韜晦して、抑制的・禁欲的に書かれており、憲法(日本国憲法・大日本国憲法)と天皇制に関しての教科書として構成されています。

天皇制のような感傷的になり易い政治問題(宗教問題?)で、自身の立場・主張を超えて、ただただ論理的に書くということは、なかなか難しいです。

特に、日本の場合は高等教育も含めて、こういう訓練をしていないので、すぐに人格攻撃に転嫁する傾向があり(インテリも含めて・・・)、そんな中で、論理で詰めていく本書は、“自身の立場・主張を超えて”良書であると思います。

日本国憲法と天皇制の相性の悪さ

本書は日本国憲法と象徴天皇制の相性の悪さを強調しています。

一方は社会契約論などをバックボーンにしており、他方は、その社会契約論が打倒した(市民革命)対象の身分制の延長にある。

そもそも対極にあるこの二つが、同じ舟に乗っているのが現代の日本ということになりましょうか。

この議論は、本書を読んでいただければ、理解できるので、関連するであろうこと、読んで思いついた事をつらつらと・・・。

法学畑ではない人間の雑感です(本書の本筋から脱線著しいかも・・・)。

「人権」を巡る誤解と混乱

いわゆる「人権」に関しては、左右で激しい対立を生んでいますが、そもそもの誤解はないのか?

「権利」というと「利」が入るので、「利益」「利得」といった可変的なものをイメージしてしまいますが、福沢諭吉は「権理」と訳していました(『学問のすすめ』)。

「利」と「理」では大分印象が違って来ると思います。

「理」は「理性」に通じ、普遍(不変)に通じます。

「利」のイメージだと、「私」の利益など可変的なものとして、権利が奪われたり、放棄したり出来るようなものとして捉えられますが、「人権」というものの本質は、そこには無いのではないでしょうか。

「人権」は、その本質が「自然権」であり、究極的に自己防衛権に帰せられます。それは普遍的なもの(形而上)であるので、そもそも、無くなったり与えたりできる「もの」ではない。

つまり、形而上的なもので、次元が違う。日本語の「権利」の印象とは相当違うものです。

本書では、「前国家的権利」として解説している箇所と関連します。

「国家が人間に与えた権利」と考えると、「国家が人間に与えたのなら、国家が再び人間から没収するのも勝手だ」という理屈が導かれることになりかねないので、「国家が与えるまでもなく、もともと人間に備わっていた権利」として構成するわけです。

堀新『13歳からの天皇制』かもがわ出版、2020年、79頁。

「国家」をどう捉えるか?

結局、天皇制を巡る問題は「国家とは何か?」という論点に行き着く気がします。

本書は「憲法」の本ですが、その憲法を制定する時の主体(憲法制定権力)が、一体、どういうビジョンで建国(=制憲)したのか?という点です。

「国家」には大きく二つの考え方があります。

  1. 国家は社会の上位概念であり、社会を包括する大きな共同体(一元的国家論)
  2. 国家も社会の中の他の社会集団と同等(並列)な一つの機能集団(多元的国家論)

前者は大陸系(ドイツ)、後者は英米系に顕著な国家観です。

前者の一元的国家論(特にヘーゲル)は、国家がそれ自体、価値ある道徳的実体であり、国民も国家(国家の生命)への奉仕者として捉えます。

これは、天皇支持者(ロイヤリスト)にとっては理解し易い国家観だと思います。「日本」という国家それ自体が価値あるものなのですから。

これは、そのまま、日本においては「家族」のイメージにつながり、天皇を家長とする国家イメージになりました。(家父長制)。

なんといっても、日本語の「国家」というのが読んで字の如く「国の家」なのですから。

一方、後者の多元的国家論(ハロルド・ラスキに代表される)は、真逆の考え方で、国家は、他の社会集団と同じ、ひとつの「機能」をこなしている集団の一つです。

ラスキは、国家を「サービス団体」とまで言い切ります。

ここでの「国家」は、日本人のイメージだと時の政府や政権をイメージした方が良いのかも知れません。

要するに、国家を目的と考えるか、手段と考えるかの対立軸です。

前者であれば、天皇の余地は大きく(必要不可欠?)であるし、後者であれば、その余地は少なくとも政治的文脈では極めて小さいものにあるでしょう。

それは、その国の政治文化(大部分が無意識の)の大勢によって、選択されるかと思われます。

故に、現代日本においては、前者の政治的意識(国家観)が優勢なのでしょう。

宗教共同体と政治共同体

そもそも、社会の集団(共同体・機能集団)には、それぞれ様々な役割・機能があるわけです。

そこで、「天皇・皇室」の役割というのは何かと考えたとき、これはもう文化的、宗教的な事柄以外の何物でもない。

「天皇」という宗教共同体、言ってしまえば「天皇教」(小室直樹)なるものです(「神道」との関連は、複雑になるので、ここでは触れません)。

問題は、「天皇教」という宗教共同体が「日本国」という政治共同体と完全一致する必要があるのかどうか、ということです。

一元的国家論にしてみれば、話は簡単で、「一致すべき」となるでしょう。

国家の「物語」として天皇を戴く以上は、それは「国教」だからです。

東ローマ帝国の教皇皇帝主義と近いものです。

対して、多元的国家論は、政治的共同体が全てを総括する訳ではないですから、一致する必要はありません。

他の宗教共同体や文化共同体と同等並列します。

そもそも、一つの政治的共同体に複数の宗教共同体や文化共同体が同居している例など、いくらでもあります。

「大きな物語」としての天皇

現状の日本が象徴天皇制を採っているのは、一元的国家論を維持する為の、ひとつの「大きな物語」としての側面が非常に強いと思われます。

それは、物語(神話)であるが故に、近代合理性(ひいては科学)とは、これまた相性悪く、話の噛み合わなさに繋がります。

その典型が天皇の血統や男系固守の説明に無理に「科学」を絡めて議論し、更に混乱・迷走する状態に如実に現れます。

本書でも以下のように言われています。

まず、神話上の存在である神武天皇にY遺伝子という概念を持ち込む意味があるのかという疑問に加えて、「なぜY染色体が引き継がれないといけないのか」という理由を説明することができないのが弱点でしょう

堀新『13歳からの天皇制』かもがわ出版、2020年、111頁。

「抵抗権」の問題を解決できない

日本国憲法が社会契約論を土台にしている以上、この相性の悪さは付き纏うでしょう。

一元的国家論を採り続けて、おそらく一番問題になってくるのは「抵抗権」(革命権)の問題ではないでしょうか。

日本国憲法をお読みになりますと、前文に「そもそも国政は国民の厳粛な信託による」とあるのにお気づきと思いますが、そのことばをつかったのはロックであります。(中略)権力が信託に違反したときには、いつでも信託を撤回する、取り返すことができることになりまして、人民の側に革命権を確認するわけであります。

福田歓一『近代の政治思想』岩波書店、1997年、153-154頁。

日本国憲法は社会契約論が土台であり、それが米国の占領軍(GHQ)の原案であることは周知ですが、その当の米国の憲法、というか米国独立革命のバックボーンが社会契約論者であるジョン・ロックです。

そしてロックも、ラスキも、抵抗権を認めています。

一社会集団である国家(政府)が、その機能を果たせないなら、別の国家に交換するという訳です。

すると、困った事に、日本の場合、一元的国家論の傾向が強いので、政府の交換という発想は、国家への反逆、天皇への謀反のような状態になってしまい、現状、ロイヤリストが多数であろう日本人にとっては心理的抵抗は極めて強いものになります。

ここに「お上」に逆らうな、という契機があります。

「天皇の前ではすべての臣民は同じだ」という理屈なら成り立ちますが(実際、「一君万民論」という思想はありました)、現実には、天皇に近い立場や階級の人間と、それ以外の人間とで格差が生まれることが避けられませんでした。

堀新『13歳からの天皇制』かもがわ出版、2020年、79頁。

この天皇との近さ(距離)の議論は、丸山真男が論文「超国家主義の論理と心理」で問題にした点と同じです。

「朝廷」ではダメなのか?

このような相性の悪さ、居心地の悪さを解消するウルトラCが「朝廷」です。

ローマ教皇庁(バチカン)に倣って、一層のこと「朝廷」では駄目なのでしょうか?

西洋政治思想史を眺めると、国家と対立する勢力の存在があります。典型は教会です。

教会と国家王権は主導権争い、支配権の線引きを争い、それが聖俗分離に繋がります。

日本で聖俗(宗教と政治)の分離は不可能なのでしょうか?

京都に「朝廷」を復古して、ラテラノ条約よろしく“世俗”の日本政府と協定を結び、そして後々、一宗教法人となるとか。

そうすると、国家の余計な「神聖化」を避けられ、かつ「天皇・皇室」の不純化(世俗権力による利用)を避け純粋な宗教として存続することができるでしょう。

なぜ、政治制度として保障が担保されなければ、即“断絶”すると考えるのでしょうか。

天皇が「信仰」の問題であるならば、外面的な制度に拘らなくても存続します。逆に、内面(信仰)を置き去りにして外面を整えたり維持しようとしても、それは空っぽの映画のセットを作っていると変わりません。

かつて、古代アテナイの政治家ペリクレスは言いました。

「アテナイとは、アテナイ人のことであって、アテナイを囲む城壁などの建築物のことではない」

天皇・皇室の存続は、国家体制・政治制度の議論や体裁よりも、ロイヤリストの内面(信仰心)に掛かっている気がしてなりません。

なお、憲法に関しては、こちらもオススメです。近代憲法と国家権力の関係について↓