赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい」再読~なぜ「戦争」は希望になるのか?(感想・雑感)

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素直な人だと思う。

率直にそのまま書けばこういう感想になります。

一切の飾りなく、現状の苦境を吐露すれば、こういう言にしかならないでしょう。

「論座」2007年1月号に掲載された赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい~三一歳、フリーター。希望は、戦争。」

それを、所収して、反論や再反論などを載せて一冊の単行本したものが『若者を見殺しにする国』です。

埋め難い「距離感」

初出当時から考えても、格差問題と国際関係がより深刻になる中、久方ぶりに本書を再読して、特に思ったのが、反論を加えている知識人・識者の人々の視座です。

その視座は、やはり「持てる者」の高みからの批判に見受けられます。

「持てる者」と「持たざる者」には、決定的な断絶・距離感がある。

持たざる状態を想像することは、それを経験していない者にとっては、やはり困難であり、経験したものでしか味わうことのない苦しみがあります。

その点を認識しているかどうかで、発言も大きく変わるでしょう。

どうも、著者に向けられた反論の多くには、戦火で苦しむ人、強制労働を強いられている人に向かって、「お前たちはアウシュビッツのユダヤ人よりは、はるかにマシなことに感謝しろ」とでも言うような酷薄さがあるように思えてなりません。

また、著書の主張に対しての知識人らの反論を読んでいてもう一点感じるのは、知識人らが想定している「戦争」が実は、戦争の内実を捉えきれていないのではないか?というものです。

問題は「戦争」の特殊性・絶対性・徹底性・不合理性にあるのであって、そこの想像力が「浅い」と感じるのです。

もしかして、「北朝鮮からミサイルが1発飛んでくる」「尖閣諸島周辺での小競り合い」程度のことを考えているのか?

著者が言うように、戦争になれば、それも全面戦争になれば、全てひっくり返される可能性があります。

全国民が、貧しき者も富める者も、同じロシアルーレットに立たされる。

合理的計算の遥か彼方にある「戦争」

いわゆるライフプランとか人生設計といった類のものは、持てる者が己の人生の保険として掛けているわけですが、もちろん人生何が起こるかなぞ、神ならぬ人にはわかりません。

それでも、持てる者は持たざる者よりも、人生を平穏無事に達成できる確率は高いわけです。

ところがその確率を大きく狂わせるものがあります。

天災と戦争です。

なぜなら、それが予測不可能な大破壊をもたらすことを意味するからです。

本書に対しての反論、例えば、「まず犠牲になるのはお前だ」論は、戦争を予測可能な、持てる者は容易に回避できる者と信じているところからでてきた発想でしょう。

それは「戦争」を甘く見過ぎです。

机上の、あるいは事前の合理的計画・計算・準備・戦況予想も、実際の戦場(戦争)では、様々な偶然や非合理な行動などによって、阻害され狂っていきます。これをプロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは「摩擦」と表現しています。

考えのなかだけでは、誇張されたこと、真実ではないことと思われるような出来事が、現実の戦争においては至る処に生起するのである。

クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波所書店、2000年、132頁。

指導者も、敵情や戦況を全て把握できるわけではないので、その決断は常に不完全な中で行われることになり、「戦場の霧」と呼ばれる状態に置かれます。

つまり一切の行動は、薄明のなかで行われるのである、それだから霧や月明かりのなかの朦朧とした像のように実際よりも大きく見え、怪奇な外観を呈することも稀ではない。

クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波所書店、2000年、70頁。

富裕層だろうが権力者だろうが、流れ弾に当たることもあれば、突然の空襲に殺されることもある。

日本を脱出するのに乗った国際線旅客機が敵機と誤認され撃墜される。

避難の途中で、野盗や暴徒に襲われ殺されるかもしれない。

絶対安全だと思っていた街に、まさかの核攻撃があることだってある。

挙げればキリがありませんが、戦争にはそのようなコントロールの出来なさが付いて回ります。戦争が予測可能で、コントロール可能なものなどという発想は、日本の知識人の知的傲慢でしかありません。

国際政治学における教訓のひとつに、1914年があります。

それは列強各国が国際関係のコントロールを失い、あれよあれよという間に第一次世界大戦へ転がり落ちてしまった状況を指します。

今、この記事を書いている時に、ロシアがウクライナに全面侵攻を仕掛けていますが、果たして、この全面侵攻を予想できたでしょうか?

あのロシア軍相手にウクライナ軍がこうまで善戦しているという予測がありましたか?

ロシアが、アインザッツグルッペン(ナチスの虐殺部隊)よろしくウクライナ市民を拷問・虐殺すると思いましたか?

予想や予測は裏切られます。

現代国際政治学にはミュンヘン、パールハーバー、そして1914年の三つの戦争勃発のアナロジー(類推)がある。ミュンヘンの教訓は融和は危険、パールハーバーは青天の霹靂に注意せよ、そして1914年の教訓はアウト・オブ・コントロールに陥るな、である。

土山實男『安全保障の国際政治学~焦りと傲り 第二版』有斐閣、2014年、415頁。

だからこそ、戦争は最高のロシアンルーレットになりえるのです。

だからこそ、追い詰められた持たざる者にとって、希望は戦争なのでしょう。

知識人は後方にいられると、無意識に思っているが、これは大きな錯覚です。戦争で、神の視点に立てる者などいない。

天災と戦争の決定的違い

もう少し踏み込みますと、一種のカタストロフィを希望とするなら、なぜ「希望は戦争」なのでしょうか。

他の国家単位の破局、「希望は南海トラフ大地震」でも「希望は第二次関東大震災」でも同じではないのか?

これはやはり違うのです。

戦争と天災の最大の違いは「意志」の介在です。そこに「悪意」「殺意」があるかどうかです。

自然に意志はありません。どんな自然の猛威・破壊も、そこに意図があるわけではない。

対して、戦争は勿論、人間の意志の行為です。

そして、そこでの意志は圧倒的な「悪意」であり「敵意」、「殺意」です。

持たざる者は、単に富を持たないのではありません。

著者が繰り返し書いているように人の「尊厳」を持っていない、傷つけられている。

戦争とはこの尊厳を全面的に傷つける行為です。

戦争状態になってはじめて、持てる者も持たざる者も、他者からの敵意という尊厳の危機に平等に陥ることになります。

つまりこれは一種の「承認を巡る闘争」の問題とも言えます。

著者が、繰り返し言う「尊厳」も結局はこの、「承認」という問題に行き着きます。

「尊厳」というのは、他者及び自己が自身を「承認」(あなたは必要な人間だ)しているかということでしょう。

ドイツの社会哲学者アクセル・ホネットは、「承認」を以下の3類型に分類しています。

  1. 愛による承認
  2. 権利(法)の承認
  3. 共同体(連帯)による承認

最初の①は家族や友人から承認される事。②は法的な権利主体として承認されること。

今回、重要なのは③です。それは、様々な共同体の中で、自分が承認(必要と)されること。

格差社会の問題の本質は、経済格差とこの共同体(社会)からの承認の欠如が両輪となっている点にあります。

米国の政治思想家フランシス・フクヤマは現代の「承認」に関して、米国の人種差別を例にして、こう言っています。

黒人の貧困によってもたらされる物質的な欠乏はこのような差別の原因のごく一部なのだ。むしろその苦悩の大半は、多くの白人にとって黒人が(ラルフ・エリスンの表現を借りれば)「透明人間」であり、黒人が憎くてたまらないのではなく朋友として白人の目に映ってこないという事実にある。

フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』(下)三笠書房、1992年、23頁。

いわゆる日本の貧困層の晒らされているのも、同じ状況ではないでしょうか。

日本の場合は肌の色ではなく、正規か非正規かのような経済的「身分」のようなものですが・・・。

承認の反対は、透明人間、眼中ににない、無視です。

こう考えると、「戦争」は「承認」をマイナスの、ネガティブなものに変換するものとも言えるかもしれません。

愛は殺意に置換されます。「お前を殺す」というのは、無視されることとは全く逆に、強く注目する対象ということです(殺害対象として)。

戦争は平時の権利を「例外状態」として停止してきます。

更には、個々人の個性は「敵国人」といった集団に置換され、没個性的なステレオタイプな集団に塗りこめてしまいます。

戦争は、いわば「負の承認」に全員が晒されることになります。

「負の承認」による平等。これで初めて持てる者は、持たざる者の苦しみを理解できるでしょう。

戦争が承認を満足させる

しかし、戦争と承認の関係を考えた時、持たざる者にとっては、「救い」になることが往々にあるでしょう。

日本本土が過酷な戦場になるような最悪の状況を想定した時。そこでは戦時動員・徴兵をかけられて、貴賤出自問わずに、戦場で戦うことになるかもしれません。

すると、今まで承認を得られなかった「持たざる若者」も誰かの「戦友」となり、命がけの戦火を(くぐ)った部隊の、同じ釜の飯を食った「仲間」となり、祖国防衛の「愛国者」になります。

歴史上、戦争に参加したことで、承認を獲得して行った例はいくつもあります。

女性の参政権には世界大戦での女性の活躍(後方での労働力)が背景としてありました。

格差社会の承認なき「持たざる者」にとっては、魅力的に映ってもおかしくはありません。

著者が本書で言うように、戦死したとしても「英霊」です。

自分の人生の結末(価値)が、「貧困の果てに死んでしまった可哀想な人」では承認は満たされませんが、「英霊」として、元首が(こうべ)を垂れる無名戦士の墓の一員になるのとでは天と地の差があるでしょう。

もう国家は解体している?

ところで、この格差の問題は、経済問題・社会問題を語っているようで、それは極めて政治的な問題です。

著者は、あえて、「戦争」という政治の極北に希望を見て、丸山真男という戦後における代表的な政治学者を登場させていますが、意図的か無意識か、あるいは私の牽強付会か、それは、やはり優れて政治的な問題に格差が帰結するからだと推論します。

古代ギリシアの哲学者プラトンは『国家』の中で、様々な政治体制を検討していますが、その中に、「寡頭制」があります。

この政体は、財産を基に評価される国制です。

日本は、確かに普通選挙も確立していますし、かつての制限選挙ではありません。

しかし、その実態、本質は、持てる者の為の国政なのです。

例えば、日本では、著名な経営者の評価が異常に高い。経営においてだけ評価されるのならばわかりますが、いわば「偉人」のような扱いで、その経営手腕や財力がよって、なぜか道徳的・人格的にも「偉い」「尊い」と見做され(イコール)ています。

これは冷静に考えれば、奇妙なことです。富と人徳は本来別のものですし、対立的な関係であることも屡々(しばしば)です。

これはなぜかと言うと、この国では、意識・無意識の内に富が主たる評価基準になっているからです。

その結果、この「経済の機械(マシーン)」のどこにいるのかが、実質的な階級構成になっている。

頂点に富裕層がいれば、その最底辺に「部品」としての非正規労働者がいる。

富めるものと貧しきものが分断されるとき、その国(寡頭制国家)は、実は2つの国であるとプラトンは喝破しています。

「このような国家はどうしても一つの国ではなく、二つの国であらざるをえないということだ。つまり、一方は貧乏な人々の国、他方は金持の人々の国であって、ともに同じところに住み、たえずお互いに対して策謀し合っているのだが」

プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、189頁。

左派は社会の連帯を訴え、右派は国家の団結を口にしますが、寡頭制国家の本質はそれと相容れません。

この「富」に対しての価値観を変えない限りは、つまり、格差問題は、最終的には政治的共同体の統一の解体、日本の解体まで突き進むことになる

右派は心すべきです。国家は解体することを

左派は心すべきです。社会が溶解することを

【参考文献】

赤木智弘『若者を見殺しにする国』双風舎、2007年。

フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』(上・下)三笠書房、1992年。