「教育」とは何なのか?
「道徳」が教科(科目)となることで喧々諤々の大論争が続いています。
おそらく「道徳」が教科になることで、社会道徳とか愛国心とか、そういった「政治」的な匂いがするからの拒否反応ではないでしょうか。
そもそも、教育、わけても「学校教育」の目的には2つの側面があると思います。
一つは、国家が国家・社会の維持の為に行う教育。
ナポレオンは「教育とは統治手段である」と言っていますが、まさにこれ。
国民国家にとっては、「国民」を再生産する重要な機関です。
今回の「道徳」議論は、こちらの側面への忌避が主になっているようです。
また、一方、教育には、国家や社会などの特殊的な役割ではない、普遍的な側面があります。
それは、学問そのもの存在理由、即ち真理への欲求というものです。
または「知ること」そのものを愛するということ。
2つの「道徳」
教育にとって、前者が「政治的理由」であるなら、後者は「哲学的理由」でしょう。
では、後者の哲学的理由から「道徳」を考えてみると、そもそも「道徳」を「知る」とは、いかなることか?という問題にぶち当たります。
おそらく「道徳」にも、2つの側面があって、一方は「社会道徳」、他方は「良心」とか「倫理」とか歴史や国家に規定されない超越的に道徳的なもの。
「徳そのもの」と言ってもいいかも知れません。
社会道徳は教えられます。
それは、社会の慣習や儀礼といった特殊共同体的なものであり、意識的・無意識的に関わらず、明示あるいは不文律として共同体が「作った」ものだからです。
しかし、倫理あるいは徳そのものは教えられません。
それは人が「作った」ものではないからです。
いかにして徳が人間にそなわるようになるかといことよりも先に、徳それ自体はそもそも何であるかという問を手がけてこそ、はじめてわれわれは知ることができるだろう。
プラトン『メノン』岩波文庫、1996年。
「道徳」ではなく「哲学」の科目化を
人が作ったものではないのならば、それは、既に「ある」ものであり、「ある」ものは見つけなければなりません。
人の道(法)ではなく、内面の道(内面)の法を発見する(プラトン流に言えば「想起する」)。
では、その手段は?
それは論理でしょう。
論理をもって考え抜くことでしか、それは発見できません。
つまり「徳」を探求する学問とは、おそらく哲学でしょう。
「道徳」という科目は、ここに破綻します。
これ、現在の科目の「倫理」のことを持ち上げているみたいですが、それは誤解です。
それは「哲学史」ではない
ここでよく繰り返される誤謬ですが、「哲学」と「哲学史」は別物です。
ここまで言い切ってしまうと誤解を生んでしまいそうですが、もう少し言い換えるとコインの表と裏。同じコインですが、やはり表と裏は別者。
高校の「倫理」は、ほぼ、この哲学史状態です。
そうではなく、本来、教育でやるべき「哲学」科目は、まずは自分で考えて抽象思考を訓練する場です。
本来の「哲学」からすれば、哲学史の知識などなくてもよろしい。
が、過去の賢人の哲学理論や思想は、我々を独善や誤謬から守ってくれる灯台になる。
フランスの哲学教育
「ある問題が哲学的であるのは、哲学者と呼ばれる人がそう考えたからではない。その問題にすでに哲学的な答えが存在するからではなおさらない。直接問題を扱うことを避けて偉大な哲学者の後ろに隠れるのは、優雅なやり方ではあるが、要するに逃げである」
ちなみにこれは著名な哲学者の言葉ではない。高校生のための受験参考書を書いた高校の哲学の先生の言葉である。
中島さおり『哲学する子どもたち』河出書房新社、2016年、35-36頁。
フランスの哲学教育は日本でも有名です。
リセ(日本の高校に相当)で「哲学」が科目としてかなり重視されており、最終学年では各コースで、文系週8コマ、経済社会系で4コマ、理系で3コマという力の入れよう。
我々日本の高校生には数学や国語、英語並みの授業数ですね。
これを聞いて、日本は、「じゃあ、現在の高校「倫理」をそれだけ増やせば?」と、発想しそうですが、これは違う。
フランスの「哲学」科目は、哲学者の理論も扱いますが、それはあくまで参考のためであり、主眼は、「考える」こと。
いま一度、教育の目的を
人は誰しも、生まれながらに、知ることを欲す
アリストテレス『形而上学』
教育が学問と同義であるならば、その学問そのものである「哲学」が教育科目にないことのほうが、本来異常なことです。
「徳」を持った人間を育てたいなら、社会道徳を教え込んでもお門違い。
「徳」とは何かを考えさせるしかない。
教育は、本質的に、「何か」を知るという行為です。
「何か」を「知る」。
「知る」とは「偽」を知ることではありませんね。
「真」を知ることです(「偽」を知ることも、結果的に「真」を知ることになってしまいます)。
国家の存続のための教育(国民の再生産)を全否定するつもりはありませんが(私、アナーキストではございません)、教育の主軸はあくまで、哲学的な面にあるべきです。
ここの緊張関係が、教育を巡る問題に常につきまといます。
もしも「三角形の三つの角は、正方形の二つの角に等しい」ということが、領土についてのだれかの権利とか、所有者の利益とかに反するならば、この説の審議は論争されなくとも、幾何学にかんするあらゆる著作は焼きすてられ、関係者の力の及ぶかぎりこの説が抑圧されたであろうことを私は疑わないのである。
トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(世界の名著28)中央公論新社、1999年、138頁。
やや大げさですが、権力(政治)と学問の緊張関係ととらえることもできる一文です。
まあ、結局、教育(学問)において、その基礎部分である「哲学」をないがしていれば、その上に、いくら社会道徳やらなんやら建築しても、基礎に失敗したタワーマンションの如く、いずれは倒壊します。
砂上の楼閣です。
為政者にとって、学問は、自分たちに反抗する厄介な目の上のたん瘤かもしれません。
しかし、それをしっかり守らなければ、行く行くは、国力が衰退するという、諸刃の剣であると、指摘して終わりにしたいと思います。
え?お前も哲学者の言葉引用しまくってるだろ、て?(笑)
【参考文献】
プラトン/藤沢令夫・訳『メノン』岩波文庫、1996年。
中島さおり『哲学する子どもたち』河出書房新社、2016年。