銀河英雄伝説に見る政治体制論・国家論の考察【前編】~「民主政」と「共和政」の狭間で

athens

「人類の創成とともにゴールデンバウム王朝があったわけではない。不死の人間がおらぬと同様、不滅の国家もない。余の代で銀河帝国が絶えて悪い道理がなかろう」

(皇帝フリードリッヒ四世)

田中芳樹『銀河英雄伝説1』東京創元社、2016年、223頁。

田中芳樹の傑作スペースオペラ『銀河英雄伝説』。いまも多くの人を魅了してやまない傑作ですが、多分に、政治学上の議論を含んでいる作品です。

その一つが、否、主題なのが、

最悪の民主制(民主政治)は、果たして最良の専制支配に優るのか?

というものです。

では、そもそも、「民主制(デモクラシー)」(民主主義)とは一体何なのでしょうか?

「民主共和制」?

本作では、自由惑星同盟の政治体制・政治理念を「民主共和制」「民主共和主義」と幾度も言及されています。

ここで当然のように仲良く並んでいる「民主主義」(民主制)と「共和主義」(共和制)は、そのままイコール(同義)のものなのでしょうか?

実は、ことはそう単純ではありません。まずは、共和主義から見てみましょう。

一口(ひとくち)に「共和主義」と言っても、実に多義的です。時代や論者によって、その使用法は、大きく異なります。

単純に思いつくのが、「君主(制)に反対する(君主が存在しない)のが共和主義」という定義ですが、実はそうとも言い切れない。

一体どういうことか。

共和主義の源流としては、古代のローマ共和制が挙げられますが、「共和国」とはラテン語の「レス・プブリカ」(公共のもの)に由来します。

古代ローマの哲学者キケロなどが典型ですが、国家(レス・プブリカ)は、公共のもの(事柄)であり、誰かの私的なもの(例えば専制君主個人の)ではない。

この公共のものによって公共利益(≠私的利益)を達成するのは、自由な市民であり、その為には、市民には教育によってもたらされる「徳」(公共精神)が必要である、と。

こう考えると、君主を戴いていても、公共の利益を考えた自由な市民による君主国であるならば、「共和国」と言えるのではないでしょうか。

例えば、現代の欧州の立憲君主国家群はどうでしょう?

勿論、君主制を認めない共和制論者もいます。

ただ、共和主義の大筋のところには、恣意的な専制支配への抵抗と公共の利益という一致点があるように見受けられます。

さて、この共和主義の伝統は、古代ローマの後、特にマキャベリ以降に、西欧政治思想で復権します。

例えば、アメリカ合衆国は、自身は共和制国家と自負しているでしょう。

他方、民主主義(民主制・デモクラシー)はどうでしょうか。

出自的には、やはり古典古代ですが、こちらは、古代ギリシア、特に都市国家アテナイの民主制が挙げられるでしょう。

ところが、デモクラシーの方は、歴史的には、あまり評判がよくありません。

アテナイの直接民主制は、民会に市民(男性のアテナイ人のみですが)が集まって、議論・弁論によって国制を決定するという、民主主義の理想を、ある種、具現化していました。

しかし、それが上手く行ったかというと、そうとも言えません。

ネガティブな「民主制」

「民主共和制とは、人民が自由意志によって自分たち自身の制度と精神をおとしめる政体のことか」

(皇帝ラインハルト)

『銀河英雄伝説5』徳間書店、1997年、360-361頁。

デモクラシーといえば、その最初の1ページには、古代ギリシア、特に都市( ポ リ)国家()アテナイのそれが挙げられるでしょう。そもそもデモクラシーという言葉が古代ギリシア由来です。

自由民たる市民による直接民主制。それは「平等(・・)な市民の全員参加政治」です(但し奴隷制を前提にし、かつ女性は排除されていました)。

民会には市民全員が参加し、そこで政治的な決定はなされます。

行政の中核たる評議会メンバーも抽選(投票ではありませんよ!)で、市民誰しもが選ばれる可能性がありました。専門の役人の存在(現代でいう官僚制)も、抽選による定期交代で回避しています。全ては市民の平等の為です。

ちなみに行政の実務・現業部門としては公共(デーモ)奴隷(シオイ)(国家の奴隷)が存在していました。公道の保全業務、公衆衛生(死体処理)、陪審の補佐などがあり、なんと警察官すら(トク)持ち(ソタイ)という公共奴隷でした(指揮官は市民でしたが)※1

市民にとっての政治参加に密接不可分なのが、兵役でした。戦時には、市民は全員、兵士として戦います。軍隊が無い、というより、ポリスの市民(団)そのものが軍隊だったと言えます。

平等に戦うからこそ、平等な市民権(政治参加)を得られるという裏表の関係です。

(職業軍人に全て任せている現代の先進国とは大きな違いです)

抽選がある一方、投票もありました。陶片(オストラ)追放(キスモス)と呼ばれる投票制度は、民主政の脅威となるような人物(僭主への野心)を投票で決定して、国外追放にしてしまう制度です。いわば()人気投票。

奴隷制を前提とするとはいえ、アテナイは「民主政」を徹底しました。

ところが、このアテナイ民主政の評価は、後世、あまり芳しくありません。

それはいわゆる「衆愚政」の問題です。

デマゴーグ(大衆扇動家)やソフィスト(知恵の教師、転じて詭弁家)といった人々の台頭で、民主政治の雲行きは甚だ怪しくなっていきます。

(ヨブ・トリューニヒトを見よ)

これを最も象徴するのが、ソクラテス裁判とその刑死です。

ソクラテスが冤罪によって裁かれ、501人の陪審は有罪と死刑を判決します。

この出来事は、その弟子であるプラトンによって厳しく批判されます。

いわば、この「原初体験」は後々まで、「汚点」「原罪」として尾を引きます。

即ち、「デモクラシーなどは、所詮は衆愚政に過ぎない」という意識です。

プラトンの弟子のアリストテレスも、民主制に重きを置いていません。

アリストテレスの政体論

プラトンの弟子であった哲学者アリストテレスは、政治体制を6つに分類しました。

正しい政体が3つ、堕落した政体を3つに分類しました。

正しい政体

  • 王制
  • 貴族制
  • 国制(共和制)

堕落した政体

  • 僭主制
  • 寡頭制
  • 民主制

上記は支配する人数によって分類されています。

ここでの要点は、民主制が堕落政体に数えられていることです。

アリストテレスにとっての、最も(・・)望ましい(・・・・)(「最善」ではないことに注意)政体は、混合政体でした。特に寡頭制と民主制の混合によって欠点を補完し合うような中庸な体制です。

それぞれの政体の長所と短所を見極めて、できる限り混合して国制を「設計」していくというのは、後の歴史においても幾度も試され議論されてきたものです。

例えば、アメリカ合衆国の政治体制を見てみると、多分に混合政体論を意識したものです。

また、モンテスキューの、いわゆる三権分立論も、混合政体論の近代化でした。

ともかく、ここでは、デモクラシーに対して、プラトンもアリストテレスも、肯定的ではなかったことが重要でした。

後世、「神の如きプラトン、神霊(ダイモン)の如きアリストテレス」と言われるほど、この師弟の影響力は圧倒的でしたから、「衆愚政への疑い」は消えることが無かったのです。

19世紀までの共和主義と民主主義についての理解を比較すると

共和政が「公共の利益が支配する政治」であるとしたら、デモクラシー(民主政)は「社会の多数を占める、貧しい人々の支配する政治」に他ならなかった。

宇野重規『西洋政治思想史』有斐閣、2017年、194頁。

という、甚だ、民主主義にとっては辛い評価だったようです。

ところが、第一次世界大戦に際しての、ウッドロー・ウィルソン米大統領の「世界をデモクラシーにとって安全な場所にしなければならない」という、かの議会演説が象徴するように、20世紀になって、デモクラシーは突然、その株を一気に上げた、一種の「成り上がり者」となります。

特に20世紀末に米ソ冷戦が米国の勝利で終わると、西側のデモクラシー体制、この場合、リベラル・デモクラシーが歴史のゴールだというような見解もあらわれます。

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そのようなことで、現代デモクラシーといえば、リベラルデモクラシー(自由民主主主義)を人は思い浮かべがちですが、「自由主義」は、ある種、「共和主義」とは対抗関係にあります。

大雑把に言えば、「自由主義」が「政治からの自由」を志向しがちなのに対して、「共和主義」は「政治への自由」を重視すると言えます。

この「自由主義」プラス「民主主義」の体制に対して、その問題を指摘する声は、やはり「共和主義」の方から上がりました。

「行き過ぎた民主主義」(≒衆愚政?)に関して、まさに自由惑星同盟の「最期」に、それが言われています。

「要するに、同盟は命数を費い果たしたのです。政治家は権力をもてあそび、軍人はアムリッツァに見られるように投機的な冒険にのめりこんだ。民主主義を口にとなえながら、それを維持する努力をおこたった。いや、市民すら、政治を一部の政治業者にゆだね、それに参加しようとしなかった。専制政治が倒れるのは君主と重臣の罪だが、民主政治が倒れるのは全市民の責任だ。あなたを合法的に権力の座から追う機会は何度もあったのに、自分の権利と責任を放棄し、無能で腐敗した政治家に自分たち自身を売り渡したのだ」

『銀河英雄伝説5』徳間書店、1997年、333頁。

ビュコック元帥のこの言葉は、そのまま共和主義者による民主政批判です。

逆に言うと、これをひっくり返したものが、共和主義の目指す理想的共和制と言えます。

とはいえ、共和主義者といえるビュコック元帥が、その最期で「民主主義」を口にします(マル・アデッタ星域会戦)。

紙コップが老人の口の位置でかたむいた。

「・・・民主主義に乾杯!」

総参謀長がそれに和した。破滅と死を前にして彼らは、淡々とすらしていたが、老人の顔にはややてれくさげな表情がうかんでいた。柄にもない説教をしたと言いたげであった。

『銀河英雄伝説7』東京創元社、2016年、223頁。

散々、「民主政」と「共和政」の差異・対抗関係を論じてきましたが、このビュコック元帥の姿に、両者の複雑な関係を垣間見た思いがします。

それはつまり、2つの政治概念は異なるものでありながら、全く無縁のものと論じることも出来ないと言う、誠に愛憎相半ばする男女の機微に比するような関係にあります。

英国政治学の泰斗バーナード・クリックの言葉を借りれば、

デモクラシー的という言葉が意味してきたものの歴史と、「共和政」および「共和主義」の歴史とは、ごく最近まで複雑にからみ合っており、切り離すことが困難だった

クリック『デモクラシー』岩波書店、2004年、8頁。

この苦悩を最も味わったのが、ヤン・ウェンリーではないでしょうか。

おそらくオーベルシュタインに近い政治的合理主義者であったシェーンコップからの「(そそのか)し」に頑として首を縦に振りませんでした。

シェーンコップ曰く、

「現在の自由(フリー・)惑星(プラ)同盟(ネッツ)の権力体制がどれほどだめ(・・)なものか、能力的にも道徳的にもですが、それをあなたは骨身にしみて知っている。にもかかわらず、全力でそれを救おうとする。こいつは大いなる矛盾ですな」

『銀河英雄伝説2』東京創元社、2009年、121頁。

後編では、そんな「矛盾だらけ」の民主共和制に対して、専制はどれほど優れてるのかを、考えてみます。

【後編に続く】

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銀河英雄伝説に見る政治体制論・国家論の考察【後編】~「専制」はプラトンの夢を見るか