「地上、海上、航空と分ける時代は過ぎ去った。将来、戦争があるとすれば、我々は地上、海上、航空のすべての軍事要素を1つに集中して戦うであろう」
ドワイト・D・アイゼンハワー(1958年)
先日、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」シリーズの「陸軍VS.海軍」を観ました。
旧日本陸海軍の対立を概観する内容です。
冒頭、1976年に行われた旧陸海軍の将校らによる座談会の口喧嘩、失礼、激論のシーンで幕を開けます。
陸軍と海軍の仲の悪さは折り紙付きで、真偽のほどはともかく、日本の敗戦に際して、ある海軍提督が「陸軍にではなく、アメリカに敗けてよかった」(!)という趣旨の発言をした、とかしないとか…。
陸軍と海軍が最後まで統合できなかったことは、旧日本軍が抱えていた巨大な問題のひとつでした。
このような同じ国軍でありながらも内部の各軍(軍の種類=軍種)が対立している状態を「軍種間対立」と言います。
番組終盤、戦後へと話を進め、官僚組織の省庁間対立、さらに高度経済成長期の企業社会にまで、旧陸海軍にみられたセクショナリズムの影を追っていきます。
これはこれで面白い。
しかし、観終わってひとつ違和感がありました。
では、再軍備、その後の「軍隊」はどうなったのか、と。
旧日本軍は1945年に解体されました。
しかし、その後、朝鮮戦争を機に、早くも1950年に警察予備隊、それが保安隊を経て、1954年に陸海空三自衛隊が誕生します。
(海上自衛隊の前身は、1952年発足の海上警備隊)
旧陸海軍をあれほど苦しめた「軍種間対立」は、自衛隊では解消されたのでしょうか。
今回は、「映像の世紀」が描いた「陸軍VS.海軍」の、その続きを追ってみたいと思います。
そして、この問題を日本軍だけの特殊な病理としてではなく、もう少し普遍的な軍事組織の問題としての「軍種間対立(interservice rivalry)」として考えてみましょう。
大本営は「統合司令部」に非ず
「旧日本軍にも大本営があったではないか」
と、指摘される方もいるかもしれません。
しかし、大本営が、現在いうところの軍種の垣根を超えた統合司令部であったわけではありません。
大本営内部では大本営陸軍部と大本営海軍部に分かれており、それはどこまでも「共同」であって、「統合」ではなかったのです。
この「共同」と「統合」とは似て非なるものです。
「共同」とは、対等の軍隊(部隊)が文字通り共に戦う訳ですが、両者の立場は基本的に対等な場合が多い、あるいはどちらかの指揮官が指揮を執るとしても一時的なものです。
戦時中、陸海軍は、作戦遂行にあたり、「共同」作戦であたりました。
その際、大本営レベルでは陸海軍中央協定を結び、現地軍レベルでもそれぞれ、いちいち陸海軍部隊が協定を結んでいます。
陸海軍が共同で作戦を行う場合にも、「大本営陸海軍部中央協定」を結び、さらに必要に応じて現地の陸海軍部隊間でも協定を結ぶという形をとりました。
要するに、指揮命令ではなく、調整に過ぎないのです。
つまり一人の統合指揮官が陸海軍を一元的に指揮するのではなく、独立性の強い二つの軍隊が、その都度「協定」によって連携する構造だった。
戦局が悪化すると、さすがにこの状態を改めるべきだという議論が出てきます。
1945年には大本営陸海軍部の一元化なども議論されました。しかし海軍側からは、「陸主海従」方式になる恐れなどから、強く反対が巻き起こり、結局、陸海軍の統合は実現しませんでした。
日本は、陸軍と海軍を最後まで完全には統合できないまま「別々の国軍」として、敗戦を迎えます。
戦後、自衛隊は「統合」できたのか?
戦後、警察予備隊、保安隊、海上警備隊などを経て、1954年に陸海空三自衛隊が発足します。
旧陸海軍の反省もあり、防衛大学校では陸海空の幹部候補生が同じ学校で統合教育を受けることになりました。
そして自衛隊発足と同時に「統合幕僚会議」も設置されます。
この長である統合幕僚会議議長(統幕議長)は自衛官(制服組)の最高位とされました。
一見すると、戦前の失敗は克服されたように思えます。
ところが、そう簡単ではありません。
当時の自衛隊は、現在のように「統合運用」を基本としていたわけではありませんでした。
基本となるのはあくまで三自衛隊それぞれの(作戦)運用であり、統合幕僚会議は必要に応じて三自衛隊を「調整」する合議体でした。
また「調整」です!政治における「調整」という言葉に御用心をば。
防衛省自身、当時の体制を「各自衛隊ごとの運用を基本とする態勢」と説明しています。
つまり、統合幕僚会議は存在した。しかし、自衛隊そのものが最初から完全な統合運用として作られたわけではなかったのです。
当時の、統幕を揶揄する言葉として「高位高官、権限皆無」というものがあったくらいです。
ホークか、ナイキか――戦後にも残った「縄張り争い」
その分かりやすい例が、地対空ミサイルをめぐる陸自と空自の対立です。
1960年代、米国製地対空ミサイル「ホーク」と「ナイキ」の導入をめぐり、その所管が問題になります。
双方が、我が隊が装備すべきだと主張したのです。
- 陸自は「高射砲の延長であり、高射特科の管轄」
- 空自は「防空用なので当然、全般防空を担う空自の管轄」
結局、SAM帰属問題は、統幕会議でも決着がつかずに、「天の声」こと長官決裁で落着したそうです※1
「低空域防空」を陸自、「高空域防空」を空自が担当することで決着し、陸自がホーク、空自がナイキを運用するという棲み分けが行われました。
空を飛ぶものを撃つのだから空自なのか。
地上から撃つ兵器なのだから陸自なのか。
笑い話のようですが、これは軍事組織にとってかなり本質的な問題です。
新しい技術が登場すると、それが従来の軍種の境界線をまたいでしまうことがあります。
そして兵器の所管は、そのまま任務、部隊、ポスト、予算の問題につながります。
(21世紀であれば、「宇宙軍」でしょうね)
ここに「軍種間対立」が生まれます。
MiG-25函館亡命事件――戦慄のフレンドリー・ファイア寸前
もっと深刻な例もあります。
1976年9月6日に発生した「MiG-25函館亡命事件」です。
ソ連防空軍のヴィクトル・ベレンコ中尉がMiG-25戦闘機で日本領空に侵入し、函館空港に強行着陸しました。
当時の最新鋭戦闘機が西側へ亡命するという、冷戦史上でも屈指の大事件です。
その後、米国から、「ソ連軍がMiG-25を奪還あるいは破壊する公算が大」という情報がもたらされると、情勢は一挙に緊迫化しました。三自衛隊が警戒態勢を上げ、特に陸上自衛隊は、当の函館に函館駐屯地を構え、駐屯する第28普通科連隊は、事実上の臨戦態勢に入ります。
ところが、ここで陸自と空自の連携不足が露呈します。
陸自側が臨戦態勢をとっていたところ9月11日午後3時頃、識別不明機3機が函館空港へ向かっているとの対空情報が、連隊にもたらされる。
ソ連軍の戦法として、特殊部隊(スペツナズ)や空挺部隊を載せた輸送機が、滑走路に強行着陸(あるいは空挺降下)し、襲撃してくる可能性はあった。
駐屯地には、対空陣地が急設されており、L-90対空機関砲が配備されていた。
直ちに、射撃態勢が取られ、そこで、まず、点検射としての曳光弾が上空に発射され、いよいよ実弾による目標への対空射撃の寸前––
3機が航空自衛隊機と確認との報が入り、あわやの友軍誤射、大惨事は回避された。
(同時に、完全武装の1個中隊を満載した車列は、駐屯地を飛び出す寸前だった)
陸自と空自がそれぞれバラバラに動いていたための、「ハプニング」でした※2
理屈の上では双方とも正しい行動をしていても、全体としては危険な状況が発生します。
「軍種間対立」とは何なのか
ここで少し視野を広げてみましょう。
おそらく、一般には、「軍隊」という一つの巨大組織が最初に存在し、それを仕事(機能・任務)別に陸軍・海軍・空軍へ分割した(割り振った)ようなイメージがあるのではないでしょうか。
しかし歴史を振り返ると、むしろ逆です。
もともと陸軍と海軍は、それぞれ異なる歴史、組織、文化、教育体系、戦争観を持つ組織として発達しました。
更に、20世紀になると航空戦力が登場し、徐々に空軍が独立していきます。
つまり、最初から一枚岩だった軍隊を三分割したというより、もともと別々に発達してきた軍事組織があって、それを、便宜上、「国軍」と総称したというべきかもしれません。
しかし、近代戦・現代戦・総力戦は、それら三軍が一つのシステムとして統合して戦うことを強いてきます。三次元の戦いです。
ここで「統合運用」「統合作戦」「統合指揮」という「統合(jointness)」「統合軍」の問題が大きくクローズアップされます。
しかし、そうだからといって、明日から1つになって戦いましょうとは、問屋が卸さない。
そもそも軍隊は巨大な官僚機構です。
官僚組織である以上、セクショナリズムから完全に自由ではありません。
自分たちの任務は何なのか。
どの兵器を自分たちが持つのか。
どれだけの人員を確保するのか。
そして国家予算のうち、いくらを自分たちが獲得するのか。
軍事上の合理性だけでなく、組織の存続や権限、文化、伝統まで絡んできます。
世界最強の米軍でさえ「軍種間対立」から逃れられない、否、激しい対立があります。
現在、統合作戦、統合軍制が最も高度に制度化され且つ成功しているといわれるのが米軍です。
「アメリカ軍には陸軍が二つ、空軍が三つある」
よく「アメリカ軍には陸軍が二つあり、空軍が三つもある」などと言われてきました。
これはどういうことかというと、地上戦力は、陸軍と海兵隊が存在し、航空戦力にいたっては空軍だけでなく、海軍(海軍航空団)も海兵隊(海兵航空団)も強力な航空部隊を保有している点を揶揄しているのです。
普通に考えれば、
「だったら航空機を全部空軍にまとめればいいではないか」
「海兵隊を陸軍に吸収すればいいだろ」
と思ってしまいますが、そうは問屋が卸しません。
海軍には自前の空母航空隊が必要ですし、海兵隊は自らの地上部隊を直接支援できる航空戦力を重視します。
そして、その背後にはそれぞれの軍種の戦争観、伝統、権限、ポスト、そして予算があります。これに輪をかけて、各軍の政治力があり、ワシントンの連邦議会に強力なパイプを持ちます。
こうなってくると、「合理的に、綺麗に三軍に集約」などに手を出したい者はワシントンのどこにもいないでしょう。
「誰が、何を、どれを使ってやるのか」――キーウェスト合意
第二次世界大戦後、この問題は米軍でも大爆発します。
1947年の国家安全保障法によって空軍が陸軍から独立し、国防長官、統合参謀本部などを備えた新しい国防体制が作られました。
すると当然、
「では誰が何を担当するのか」
という問題が発生します。
とりわけ激しかったのが海軍と新生空軍の航空戦力をめぐる争いでした。
1948年、初代国防長官ジェームズ・フォレスタルは各軍首脳をフロリダ州キーウェストに集めます。
フォレスタルが突きつけた問いは、実に単純でした。
「Who will do what with what?――誰が、何を、どれを使ってやるのか」
その結果生まれたのが「キーウェスト合意」です。
大ざっぱに言えば、陸軍は地上戦、海軍は海上戦、空軍は戦略航空戦、海兵隊は水陸両用戦を主要任務としながら、それぞれが必要な能力を一定程度保持するという「縄張り」が整理されました。
海軍航空隊も消滅しませんでした。
ところが、これで軍種間対立が終わったわけでもありません。
翌1949年には空軍のB-36戦略爆撃機と海軍の大型空母をめぐって対立が再燃し、いわゆる「提督たちの反乱」にまで発展します。
軍種間対立は、制度を一つ作れば消滅するような簡単な問題ではなかったのです。
フォレスタル国防長官の悲劇
そして、この米軍統合の中心にいたのが初代国防長官ジェームズ・フォレスタルでした。
彼自身、もともとは海軍長官です。
その人物が今度は国防長官として、陸・海・空軍をまとめなければならなくなりました。
しかし軍種間の予算争いと権限争い、トルーマン大統領との擦れ違い、冷戦初期の巨大な重圧のなかで心身を病み、1949年に国防長官を退任。
その直後、入院先の海軍病院から転落して死亡します。
自殺とされています。
もちろん、彼の死を単純に「軍種間対立のせい」とすることはできません。
しかし、皮肉な象徴ではあります。
世界最大の軍隊を「一つの軍隊」にまとめる仕事は、それほど困難だったのです。
ちなみに、面白いのは、「統合」に反対するのは、日米ともに海軍にその傾向が強く見られる点です。
「軍種」と「統合軍」
ここでアメリカ軍がたどり着いた答えが面白い。
軍種そのものをなくしたわけではありません。
むしろ陸軍、海軍、空軍、海兵隊、宇宙軍という軍種は残したまま、「軍隊を作る組織」と「軍隊を使って戦う組織」を分けたのです。
陸海空軍などの各軍種は、人を集め、教育し、訓練し、装備を整え、戦力を作る「軍政」面を担任。
一方、実際の作戦は太平洋軍、中央軍、欧州軍、戦略軍、輸送軍などの「統合軍」が遂行します。これは「軍令」の部分です。
米国防総省の説明を借りれば、各軍種は「organize, train and equip」、つまり組織・訓練・装備を担当し、統合軍が実際の作戦を担当するわけです。
現代の軍事用語では、しばしば「フォース・プロバイダー」(軍種)と「フォース・ユーザー」(統合軍)と説明されます。
つまり、前者が育て・維持し、後者が使う。

そして1986年のゴールドウォーター=ニコルズ法によって、この「統合」はさらに強化されます。
指揮系統は大統領―国防長官―統合軍司令官へと整理され、さらに高級将校には軍種をまたいだ「統合勤務」の経験が重視されるようになります。
つまり、制度だけではなく人事制度まで使って「陸軍だけを知っている将軍」「海軍だけを知っている提督」を減らそうとしたのです。
日本も半世紀かけて「統合」へ向かった
では戦後日本はどうなったのでしょうか。
1954年の自衛隊発足時から統合幕僚会議は存在しました。
しかし、それは基本的には三自衛隊間の調整を行う合議体でした。
大きな転換点となったのが2006年です。
統合幕僚会議(及び事務局)が廃止され、「統合幕僚監部」が発足。
それまでの「各自衛隊ごとの運用を基本とする態勢」から、正式に「統合運用を基本とする態勢」へ移行しました。
陸・海・空幕僚長がそれぞれ防衛大臣を補佐するのではなく、自衛隊の運用については統合幕僚長が一元的に大臣を補佐する仕組みになったのです。
統合幕僚長は大臣を補佐する最高の軍事専門家であると同時に、実際の部隊運用まで担います。
しかし、ここで終わりませんでした。
大規模な統合作戦を継続的に指揮する場合、戦略レベルで大臣ひいては内閣を補佐する仕事と、戦略レベルで全部隊を指揮する仕事を一人に集中させることの限界です。
それを浮き彫りにしたのが、2011年の東日本大震災です。
未曽有の大災害に自衛隊は、事実上の全力出動。
その際に、統合幕僚長の掌握範囲があまりに広すぎるのではないかと、指摘が挙がったのです。
そこで、さらに改革が行われます。
2025年、「統合作戦司令部」が発足
2025年3月。
市ヶ谷に「統合作戦司令部」が発足しました。
統合作戦司令官は、防衛大臣の命令を受け、陸上総隊、自衛艦隊、航空総隊をはじめ、宇宙・サイバーなどを含む自衛隊の部隊を、平素から一元的に指揮します。
一方、統合幕僚長は自衛隊制服組トップとして、防衛大臣に対する最高の軍事専門的助言者という役割に重点を置くことになりました。
陸幕長、海幕長、空幕長は、それぞれの自衛隊を「作る」側(フォース・プロバイダー)を担う。
そして実際に陸海空の戦力を組み合わせて作戦を指揮するのは、統合作戦司令官。
どこかで見た構造ですよね。
そう。
アメリカ軍が長い時間をかけて作ってきた、軍種と統合軍を分ける発想にかなり近づいています。
日本の場合は、米軍に複数人いる統合軍司令官が、一人と考えればわかりやすい。
(但し、手放しに評価できない側面もあります。詳しくは下記のリンクへ)
「陸軍VS海軍」は終わったのか
こうして1945年から現在まで眺めてみると、興味深いことが見えてきます。
旧日本軍は、陸軍と海軍という強大な二つの組織を最後まで完全には統合できませんでした。
戦後の自衛隊は、その反省を踏まえて最初から統合幕僚会議を設置。
しかし、それでも陸・海・空自衛隊それぞれを基本とする運用が半世紀近く続きました。
2006年になってようやく「統合運用を基本」とする体制へ移行。
そして2025年、ついに平時から陸海空の実動部隊を一元的に指揮する常設の「統合作戦司令部」が誕生しました。
旧陸海軍の失敗から、実に80年です。
しかし、これで軍種間対立がなくなったわけではないでしょう。
アメリカ軍を見ても分かるように、軍種間対立は日本軍固有の病理ではありません。
軍隊が複数の専門組織から成り、それぞれが独自の文化、任務、装備、人員、予算を持つ限り、ある程度のセクショナリズムは避けられません。
たとえば、自衛隊統合作戦司令部を巡っては、その場所を巡って、陸自と海自は鍔迫り合いを演じましたし、米軍の近接航空支援機A-10対戦車攻撃機の存廃を巡って、廃止か陸軍への移管にしたい空軍と、存続させたい陸軍、陸軍移管を提案する議会一部で激しい攻防が繰り広げられてたこともあります。
もっと俗な部分では、SNS上では、海軍航空団を主役にした映画「トップガン」「トップガン2」で、米空軍との違いを煽ったりするのも目にします。
重要なのは、軍種間対立を「なくす」ことでは、ほぼ不可能でしょう。
対立が存在することを前提に、それでも戦場では一つの軍隊として戦える制度を作ること。
それが「統合」という思想でしょう。
「映像の世紀 バタフライエフェクト 陸軍VS海軍」は、旧日本軍の陸海軍対立から始まり、そのセクショナリズムが戦後の官僚機構や企業社会にも姿を変えて残ったことを描きました。
しかし、もう一本、別のバタフライエフェクトを描くこともできそうです。
1945年、最後まで一つになれなかった陸軍と海軍。
1954年の統合幕僚会議。
2006年の統合幕僚監部。
そして2025年の統合作戦司令部。
「陸軍VS海軍」の物語は、1945年8月15日以降も燻り続けます。
【了】
【注】
※1. 廣瀬克哉『官僚と軍人』岩波書店、1989年、74頁。
※2.ミグ25事件における、自衛隊の臨戦態勢の経緯は、大小和田八尋『ミグ25事件の真相』学習研究社、2001年、による。
【参考文献】
大小和田八尋『ミグ25事件の真相』学習研究社、2001年。
藤井非三四『なぜ日本陸海軍は共同して戦えなかったのか』光人社、2010年。
村田晃嗣『米国初代国防長官フォレスタル』中央公論新社、1999年。


