【考察】「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」では何が描かれるのか?~ゴジラvsマッカーサー?ゴジラvs警察予備隊?(本編鑑賞後考察の追記あり)

この考察記事は、前半では、公開前の予想記事。後半には、公開後に映画本編鑑賞した上での考察記事に分かれています。目次から、お好きな方をお読みください。

政治・軍事方面での考察が中心です。

公開前考察

(2023年7月15日執筆)

無防備の国民には友しか存在しない、と考えるのは、馬鹿げたことであろうし、無抵抗ということによって敵が心を動かされるかもしれないと考えるのは、ずさんきわまる胸算用であろう。

カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社、2006年、60-61頁。

去る2023年7/12に、今年12月に公開される新作ゴジラの予告映像が解禁されました。

タイトルは「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」。

驚いたのが、その舞台が終戦直後の日本らしいということです。

キャッチコピーは

「戦後すべてを失った日本。その(ゼロ)が、(マイナス)になる」

ということで、これは色々大変なゴジラ映画になりそうな予感がします。

監督は、「絶望に絶望を塗り重ねるような設定」と語っているそうです。

さて、では、「終戦直後」と「絶望」を掛け合わせると、一体何が生まれるのか?

今回は、不肖、政治学徒の私めが己が守備範囲で妄想してみます。

監督と公開日

本題に入る前に、本作の監督、山崎貴。

映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では、ゴジラが高度成長期の東京に上陸し、破壊の限りを尽くす場面を描いていました。

その場面でも、軍隊(自衛隊や米軍)は姿を見せず、一方的に蹂躙される東京が描かれています。

これは公開された予告映像と、かなり似通っていました。

また、公開日の11月3日。

これはご存じ「文化の日」ですが、それは、日本国憲法公布の日です。

戦後そのものを体現した日本国憲法公布日に、その戦後を破壊するであろうゴジラの公開日を充ててると考えるのは穿ちすぎでしょうか。

更に言えば、11月3日は、戦前まで「明治節」。つまり明治天皇の誕生日です。

明治天皇といえば、日本の「近代」最初の天皇です。

それを意識すると、大政奉還で始まった近代日本が、アジア太平洋戦争で敗北し、更に、ゴジラで止めを刺されるという暗喩かもしれません。

戦う術がない?

さて、ここからが本題です。

過去のゴジラ作品の時代設定と終戦直後の最大の違いは、政治学的には日本政府に主権・統治能力がないことに尽きます。

ご存じのように、1945年9月の降伏文書の調印から1952年9月の7年あまり、日本は国家主権を喪失(停止)していた訳です。

その間、日本の統治権を行使していたのはダグラス・マッカーサー元帥率いるSCAP(スキャップ)(連合国軍総司令部、いわゆるGHQ)です。

天皇も日本政府もその隷属化にありました。

そして重要なのは、日本政府は軍隊を持っていないことです。

敗戦により、日本帝国陸軍・海軍とも武装解除されています。

自衛隊の前身となる警察予備隊の発足は1950年8月。
つまり、この期間、日本には独力の軍事組織がないわけです。

ゴジラ襲来は一体何年なのでしょうか。

警察予備隊が発足するまで、日本にある軍事力は占領軍です。

その占領軍は、アメリカ軍を主体に、英軍、豪州軍、インド軍ですが、ほぼ米軍といっていいでしょう。

同胞なら、いざ知らず

政治的「絶望」とは何か?

終戦直後、占領下の政治的な意味での「絶望」とは何かを考えると、それは、国家・政府が自前の軍隊を持たない事でしょう。

国家と軍隊(物理的強制装置・暴力装置)は切っても切れない関係にあります。

国家権力の本質、必要最小限の機能・目的を秩序の維持とその為の強制力に見る論者も多いです。

例えば、いわゆる「夜警国家」論のように、国家の役割は究極的に夜警(国防・治安)に過ぎない。更に一歩進んで、むしろそこに限定(制限)すべきだ、と。

近代政治理論で枢要な地位を占めるトマス・ホッブズは国家(コモンウェルス)について、次のように述べています。

それが「地上の神」と呼ばれるのは、コモンウェルスに住むすべての個人によって与えられたこの権限を持って、彼は自分に付与された強大な権力と強さを生かし、国内の平和と秩序を維持し、そして、団結して外敵に対抗するために、人々を威嚇することによって多くの異なった意志を一つに結集させることができるからである。そして、このような力を持つ彼のなかにこそコモンウェルスの本質がある。

トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(『世界の名著28 ホッブズ』中央公論新社、1999年、196頁。)

ホッブズは、強大な力を持つ国家を、旧約聖書の怪物リヴァイアサンに喩えているのです。

ここで、疑問がわくかもしれません。

確かに、日本には自前の軍隊はない。

しかし、その旧日本軍を打倒した強大な占領軍、アメリカ軍がいるではないか?

しかし、米軍はあくまで占領軍であり、日本人は他者でしかありません。

おまけに、つい先日まで戦っていた旧敵国人です。

アメリカ占領軍に日本防衛の意志があったとしても、それは、日本国民を守るというよりは、自国の勢力圏の維持の為の占領政策、つまり、アメリカの国益に過ぎない。

仮に、そこにゴジラが上陸したとして、彼らの戦い方は、日本軍隊のそれとは全く異質なものになるでしょう。

優先順位的に、国民の保護は後回しにされ、ゴジラ殲滅が優先されます。それはつまり、コラテラル・ダメージ(やむを得ない巻き添え)のハードルが極めて低いということ。

映画「シン・ゴジラ」では、首相が、逃げ遅れた住人の巻き添えを回避する為、ゴジラへの攻撃を中止させる場面が出てきますが、全くこれとは逆の事態が想像される。同胞ではないのです。

日本の民間人の被害に全く躊躇せずにゴジラを攻撃する米軍。

そして、その究極の形は、通常兵器がゴジラに無力だと分かった時、GHQが、ひいてはホワイトハウスが、何を決断するか?という点に掛かってきます。

即ち、数年前に広島と長崎で使用したばかりの、原子爆弾を東京で使用することに何の躊躇も覚えないという状況。

「ゴジラ-1.0」と「シン・ゴジラ」は、もしかすると相似形として作られ、前者は主権を喪失した国家の悲劇を、後者は主権を持てど右往左往する国家の悲喜劇を比較するような形になるかもしれません。核使用という政治決断を通じて。

ゴジラvs警察予備隊

では警察予備隊が発足している1950年以降ならば、日本は、何とかゴジラに対抗できたのでしょうか?

ところがそうはいきません。

警察予備隊は、その名称の通り、軍隊を想定されながら、非常に警察色の濃い実力組織として発足しました。

旧日本軍のカラーを脱色する為、旧軍の高級軍人は当初採用されませんでしたし、警察予備隊の高級幹部は、旧内務官僚(警察官僚)が多くを占める事態になります。

戦前、陸軍と内務省(警察)は対立関係にあり、警察は陸軍に煮え湯を飲まされてきました(例えば、226事件、例えば「ゴー・ストップ事件」)。

朝鮮戦争勃発に伴う、再軍備問題に、旧内務省は警戒し、同時に、ある意味で復讐の機会を得ました。

装備に関しては、既に日本陸軍は解体されていたので、米軍の余剰兵器などの供与で武装していく事になります。

いわば、軍隊と警察の中間ともいうべき「警察軍」のような存在が誕生したわけです。

この「ヌエ的」な状況を取り繕うため、米軍から供与されたM24軽戦車を「特車」と呼称したり、階級名に「警察」と入ったり(大佐相当が「一等警察正」、大尉相当が「一等警察士」etc.)、かなり混乱した状況が見られました。

警察予備隊に関するマッカーサー元帥の構想は、将来四個師団の陸軍に増強できる疑似軍隊をつくることであった。(中略)

このように予備隊は創設期より、法律的にははなはだ疑わしく、曖昧模糊として、いかにもすっきりしない立場におかれているのである。したがって予備隊編成の初期の段階では、予備隊と折衝する米軍顧問は、平気で二枚舌を使いわけねばならなかったし、予備隊の指導者でも事情を知っている少数のものを除いては、話の辻つまが合わず途方に暮れていたようである。元警視のある管区総監は 彼の部隊が警棒のかわりにMワン小銃を支給されたのを知って、本当にがっかりしたそうである。

フランク・コワルスキー『日本再軍備』サイマル出版、1984年、39頁。

もし仮に、この警察予備隊草創期に、東京にゴジラが上陸した場合、どうなるか?

当時の警察予備隊は定員75000名。

内、首都圏を担任するのは、第1管区隊(師団に相当、兵力1.5万人)です。しかし、担当地域が東北南部から関東甲信越、東海地方一部と、広範囲だった為、もしゴジラ上陸が突発事態であったならば、すぐに東京に部隊を集中することは難しいでしょう(機動力が足りない)。

また、米軍からの「お下がり」で武装しているのですが、問題は練度でしょう。

警察予備隊は、旧陸軍からスライドした組織ではなく、一から旧内務(警察)官僚が作り出した組織です(この点、西独の再軍備とは異なる。西独は旧軍人が加わっていた)

それを米軍人が教官となって訓練を始めた一からの組織です。

従って、予備隊創設から間もなくの練度では、まだ軍隊として出動するには甚だ力不足です。

警察予備隊創設を指導した在日米軍事顧問団長のシェパード少将は、

「警察予備隊の上級幹部は専ら警察官僚であり、質の良い将校が不在である。装備兵器の水準から国内騒擾には対処する能力を有するものの、外国からの攻撃に対しての戦術運用は不可能である」

.横地光明『自衛隊創設の苦悩』勉誠出版、2020年、91頁。

と評しています。

もし、在日米軍がいれば話が違いますが、そもそも警察予備隊は、朝鮮戦争(1950-1953年)の勃発に伴い、在日米軍主力は朝鮮半島に投入され、その穴埋めとしての存在でした。

朝鮮戦争の勝敗を左右する?

もし、朝鮮戦争の真っただ中に、ゴジラが日本に上陸していたら。

朝鮮戦争は、日本にとって朝鮮特需を呼ばれるほどの景気をもたらしました。

つまりそれは、朝鮮半島で戦う米軍(を主体とした国連軍)にとっての後方基地だったことを意味します。

その日本がゴジラに襲われるのは、被害の程度にもよりますが、半島への補給上、重大な事態を招きかねない。

下手をすると、国連軍の敗走にもつながります。

混沌の中に注入される絶望

色々好き勝手に書いてきましたが、現時点では、全く情報がなく、ただ、解禁映像からの断片情報からの憶測、妄想に過ぎません。

しかしながら、わざわざ、ゴジラ映画の舞台を終戦直後に設定するというのですから、あの混沌の時代を生きた、動かした人々、昭和天皇や吉田茂、野坂参三、丸山真男、マッカーサーもウィロビーも登場させて、一大ポリティカル・スリラーを観たいものだと、個人的には願わずにはいられません。

公開後考察(ネタバレあり)

※以下、ネタバレあり

(公開2日目、2023年11/4執筆)

ゴジラマイナスワン、観てまいりました!

という訳で、答え合わせ!鑑賞前の考察はどの程度、的を射ていたのか?

結論から言うと、大ハズレ!あまりに斜め上の設定に仰天しました!

マッカーサー将軍の本部によって、その時点までに実施された占領政策の性質は、一見して、共産主義の乗っ取りのために、日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった

ジョージ・F・ケナン

アメリカ軍介入せず

今回の時代設定は1947年。日本は敗戦からまだ2年であり、米国を主体とする連合国の占領統治下にあります。

従って、日本政府は武装解除されており、固有の軍事力が存在しません。

そんな中でのゴジラの出現です。普通に考えれば、占領軍が対応する以外ないのですが、ここから話がおかしくなります。

マッカーサーは、ソ連との緊張状態の高まりを受け、米占領軍が軍事行動をすることは好ましくないとして、日本政府に何とかしろと言ってきます。

ありえません。

1946年3月には、チャーチルが有名な「鉄のカーテン」演説を行い、米ソの蜜月は儚くも終わりを告げようとしていました。

米ソの緊張関係が増していたとしても、それを理由に、ゴジラという「害獣駆除」が出来ないというのはナンセンス極まりない。

まず、マッカーサーの占領軍には、軍事占領した以上、被占領国民を保護する義務が、国際法上(ハーグ陸戦協定)生じます。

交戦関係国あるいは機関から正式な命令・指示を受けた占領軍が、被占領国の住民を保護し、同時に公共の秩序の回復と維持機能を提供することは、ハーグ陸戦規則によって課せられた義務なのである。

小栁順一『民軍協力(CIMIC)の戦略』芙蓉書房出版、2010年、29頁。

マッカーサーの占領軍司令部(SCAP、いわゆるGHQ)には、その上位機関として、「極東委員会」が存在していいます。

そこには、ソ連も中華民国(蒋介石の国民党政府)も参加しているので、ゴジラなる「害獣」によって被占領地(日本)の公共の秩序が脅かされているのに、米占領軍が「何もしない」というのが、問題にされない訳がありません。

特にソ連は、米軍単独占領の正統性を突いてくるでしょう。

「日本人民を守れないなら、我が赤軍も日本占領に参加するべし」と。

(日本占領に英印豪軍が参加していますが僅かです。ソ連軍は排除されています)

むしろ、米ソが緊張状態に、関係が悪化しているなら、尚更、米軍はゴジラを駆除しようとするでしょう。駆除せずに、「放置」「日本に丸投げ」する方が、米ソの緊張は高まります。

なぜなら、ゴジラの跳梁は、スターリンに、「米国に日本統治の力量なし」という介入の口実を与えるからです。仮に、ソ連軍が介入してゴジラを駆除できれば、ソ連の評価は上がり、日本の民衆の感謝と支持も獲得でき、日本赤化の大きな一歩となるでしょう。

また、日本政府に丸投げして、限定的な軍事力の行使を認めることは、連合国側の当初の対日方針としての日本非武装化・武装解除に逆行する、実質上の再軍備であり、到底、容認できる筈もありません。

下手をすると、日本の右派勢力に利用されかねない。

ワシントンも、当然それは百も承知ですから、マッカーサーのこんな「馬鹿げた指令」を許すはずがなく、朝鮮戦争前にマッカーサーは解任されるでしょう。

ソ連に付け入る口実を与えないために、米軍によって、速急に、断固として、確実に、ゴジラは駆除されるはずです。それがバランス・オブ・パワーを基本とする国際政治の現実です。

義勇軍、かく戦う

と、まあ、そうは言っても、米軍が狸寝入りを決め込んでしまっては、日本は独力でなんとかしなければならないのですが、手持ちの正規軍がないので、解体寸前の旧軍を動員して、必死の攻撃を繰り出すわけです(なんだかなぁ…)

一応、日本政府は、旧海軍の残存部隊をかき集めて対応しているようです。

(海上保安庁の創設すら1948年ですから…)

故に、この辺の戦力も、ほとんど「義勇軍」の類です。

そして、ゴジラが東京を襲撃する過程では、何と、旧陸軍の中戦車(3式?)が、国会議事堂前で砲列を敷いて、ゴジラを攻撃します。

旧陸軍の戦車部隊が義勇軍??

本編でマッカーサーが「日本政府の安全保障機関の強化」を指示していますが(まるで再軍備・警察予備隊設置指令の前倒し)、この戦車部隊も東京防衛に急遽、再編され、内務省か東京警視庁あたりの指揮下だったのでしょうか。

(余談ですが、あのゴジラの熱線だと、GHQのあった有楽町の第一生命ビルも巻き込まれてませんかね?マッカーサー生きてる?)

しかし、まだここまでは序の口です。

本題は、ここから。

相模湾で、ゴジラ駆除作戦が行われることになりますが、これは民間有志が行います。

大事なことなので二回言います。民間有志がゴジラを倒します。

オヤジさん出番だよ

銀座蹂躙までは、政府の影がチラチラしていましたが、最終盤になると、旧海軍の元軍人達の有志が駆除作戦を行います。

さすが団結力のある海軍だ。陸海軍統合にも最後まで反対だったもんな。

本作が、国家による有事対応を全面に押し出した「シン・ゴジラ」のアンチテーゼであろうことは、容易に看て取れます。

民間人の義勇軍、市民の自発蜂起としての義勇軍。

しかし、なにか求心力が足りない気がします。

1947年ならば、ここで起ち上がるのは、本当に彼ら旧海軍軍人のグループでしょうか。

個人的にですが、ここで登場すべきなのは、息を吹き返しつつある日本共産党、特に、オヤジこと徳球、徳田球一ではないでしょうか。

戦前、非合法化され弾圧されていた日本共産党は、戦後、合法政党となります。

1945年10月には徳田は釈放。

1946年1月には中華民国から野坂参三が帰国。

当時の日本共産党の党勢は今では想像できない勢いがありました。占領軍すら協力していました。

終戦直後の日本は虚脱状態だった。心神喪失状態だった。息をつくまもなく次々と大日本帝国に解体の鉄槌が下されていった。日本人は、それを見て見ぬふりをした。もっぱら自分の命をつないで生き延びることに懸命だった。

たった一つの例外は共産党だった。野坂参三以下、日共の党員はさだめし凱旋将軍というところだった。日本の価値は完全にひっくり返り、昨日までの「賤民」は一番の上位に昇った。

片岡哲哉『日本永久占領』講談社、1999年、98-97頁。

ところが、1947年2月に、二・一ゼネストがマッカーサー指令で中止に追い込まれ、占領軍と共産党の蜜月が終焉を見ます。ゴジラ襲来はこの前でしょうか、後でしょうか?

そんな情勢下でゴジラ対策を日米両政府が責任放棄。

これは好機ともいえます。

日共書記長の徳田が人民の義勇軍を率いてゴジラを駆除すれば、人民の力で日本人民自身を守ったことであり、無責任な、統治能力のない、ブルジョア日本政府やアメリカ帝国主義占領軍に対しての実質的勝利にもなります。

1945年8月15日を、体制転換として、実質的な革命とする「八月革命説」というものが存在しますが、ゴジラを人民の力で倒すことが出来れば、これこそ「1947年日本人民革命」と誇れるでしょう。

これだと、駆除作戦の正念場で、救援に駆けつける民間タグボート群は、ソ連艦隊にかわっていたかもしれません。

(まあ、完全に妄想ですが)

反国家としてのゴジラ映画

一応、総論めいたことを書きますと、本作はとことん反国家、反政治に貫かれている作品でした。

敗戦によって日本はようやく、国家の一元的な支配に対する抵抗の根拠を見出したといえるかもしれません。強い反戦感情とともに、国家への旺盛な批判精神こそが、戦後民主主義の特色となりました。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社、2020年、233-234頁。

民間主導の駆除作戦というのは、市民の自発的努力、もっといえば、国家抜きで、社会レベルで危機を克服できるという、「国家」への「社会」の勝利を謳っていると言えます。

終戦直後という最も国家への忌避感が強く、なおかつ国家が希薄な時代を舞台設定にしたこと。

民間=「社会」によって、十分やっていけるのだという、リベラルな、戦後民主主義的な思想背景を強く感じた作品でした。