哲学カフェが流行っているそうです。
もともとフランスで生まれたもので、アカデミズムではない、市井の人たちが、「哲学する」場ですね。
悪いことではないのですが、手放しに喜べるかどうかを、ちょっと考えてみましょう。
考えるヒントは、孔子の『論語』
子曰く、学びて思わざれば、則ち罔し。思いて学ばざれば、則ち殆うし。
です。
本当に「哲学」カフェなのか?
いきなり直球なのですが、一体、何をもって「哲学」カフェを定義するのか?
「哲学」の定義というか、意味付けなしで名乗るわけにはいかないはずです。
狭義の形而上学(存在論・認識論)とかで使っているのか、広義の学問すべての意味なのか?
はたまた、フィロソフィアの原義通り、「知を愛する」ことを指しているのか?
もっとぶっ飛ぶと、これのどれでもない、主催者の完全オリジナル(!)な定義とか・・・。
ある程度、学問をやっていた方から見ると、「哲学」の範疇から、かなり離れた会も存在するようで、社会学カフェ(社会問題カフェ)や自己啓発カフェを名乗ったほうが実態に近い会もあるようです(別に悪いとは言っていません)。
本来の「哲学」から考えると、具体個別な現象から普遍的な思想、あるいは抽象的な公理を導き出す(本質を探る)方向に、大なり小なり方向性が向いてないと、「哲学カフェ」を名乗るのは難しいかな?と思います。
「哲学カフェ」なのか「哲学史カフェ」なのか
抽象的な議論・対話を目指しているとしても、ここを取り違えると、参加者は深刻なジレンマに陥ることになるでしょう。
市井の人々が自分たちの言葉で問題を語り合うというのは、なにも哲学史の知識を語り合う場ではありません。
もちろん参考として、哲学史上の哲学者・思想家の理論・思想を参考にするのはいいのですが、それは、哲学カフェの本質ではないはずです。
哲学カフェは、あくまで、自分の言葉で考えて、語り合う場です。
哲学史自体の検討・議論をしたければ、それはアカデミズムの場に足を向けるべきでしょう(大学の勉強会や私ゼミetc.)。
哲学史を参考にするなら、言葉なり理論を自分の言葉に咀嚼して、自分の言葉にして語るべきです。
ましてや、哲学史の知識で優越感に浸るようなことがあったら、もう目も当てられません。
それは、自分が理解していないから自分の言葉にできない結果です。
それこそ「学びて思わざれば、則ち罔し。」ではないですか。
無人島の天才は・・・
では、哲学カフェの場と、哲学史は全く無関係か?と問われると、それは違うと思います。
哲学カフェにおいて、まったく哲学史を無視することは、勿体ない。と思っています。
哲学カフェで、何かの問題(「貧困」でも「恋愛」でもなんでもいいのですが)を議論するときに、その問題だけを提示して「はい、考えましょう」と議論を進めていくと、その会の参加メンバーの考える力だけに頼ることになってしまう。
全員が力量十分とはいかないでしょうし、議論自体の水準が低くなったり、独善に陥ったりするリスクがあります。
まさに、「思いて学ばざれば、則ち殆うし」ですね。
そのリスクを回避し、ある程度の議論の水準を維持ないしは出発点にしようとするなら、哲学史の偉大な遺産を利用した方が理にかなっている気がします。
ここに、哲学カフェとアカデミズムの哲学(哲学史研究)の接点が生まれる。
こんな話をどこかで読んだ気がします。
無人島に天才がいて、彼は、なんの教育も受けていないのに二次方程式を生涯かけて解いた。
確かに天才だが、もし、彼が子供の時から人並に算数・数学の教育を受けていたら、彼の人生はどれだけ偉大な数学者として業績を残せたか?(出典がわかりません。細部は違ったかも・・・)。
貧困ならマルクスとか、恋愛ならプラトンとか、そういった先人の理論や言葉を手掛かりに対話を出発する。
やり方は、いろいろあるでしょう。本を読んでもいいし、名言を抜粋してもいいし。
そもそもアカデミズムは、市井の人が「考える」=「哲学する」ときに、その道しるべになる役割もあるはずです。
まあ、何が言いたいかというと・・・
いろいろ偉そうに言ったんですが、結局、何が言いたいかというと、「哲学カフェ」で満足せずに、本を(できれば古典)を読んで下さい、と。
「あらゆる良書を読むことは、過去の最良の人々と語り合うことだ。」
デカルト