銀河英雄伝説に見る政治体制論・国家論の考察【後編】~「専制」はプラトンの夢を見るか

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【前編はこちら】

銀河英雄伝説に見る政治体制論・国家論の考察【前編】~「民主政」と「共和政」の狭間で

前編では、「民主共和制」なるものの実態と、特に民主政の瑕疵を見てきました。

そして、銀英伝においては、自由惑星同盟のデモクラシーは、新銀河帝国の専制に敗れる訳です。

それは、「命数」を使い果たした同盟の衆愚政が破滅の道を転がり込落ちる様です。

例えば、自由惑星同盟にとっての致命的な戦略ミスともいえる帝国領侵攻作戦(アムリッツァ会戦)が、最高評議会(内閣)の政権延命という極めて政略的な理由で決断された事。

例えば、ヨブ・トリューニヒトの如きデマゴーグを元首にせしめたこと。

戦争マシーンとしては、どちらの体制が優れているのか?

この衰亡劇に対比させられたのが、ラインハルト率いる新銀河帝国ですが、その含意は、

「デモクラシーは決定のプロセスに時間がかかるし、そこに党派的な思惑・打算が入り込み、民衆の気まぐれなども相俟って、効率的・合理的な戦争指導・国家運営ができない」

と言えるでしょう。

果たして、デモクラシー国家は専制・全体主義のような国家に比べて、その点で「劣っている」のでしょうか?

全体主義と民主主義の対決であった第二次世界大戦を見てみましょう。

先ほども言及した英国政治学界の泰斗バーナード・クリックは、著書『デモクラシー』の中で、次のように書いています。

奇妙なことに、イギリスは窮地に陥り、日本は合衆国を攻撃したが、イギリスも合衆国も、ナチス・ドイツ以上に大規模で効果的な戦時経済のための動員を達成した。

バーナード・クリック『デモクラシー』岩波書店、2004年、176頁。

英国がナチス・ドイツを上回ったのは、

人びとが相互に信頼して決定権限を委任することができたからであり、また、そうした信頼を基礎として中央政府が立てた計画を実現しようとした人びとが一丸となって働いたからであって、中央政府による絶えまない監視の下で働いたのではないからである。

同上書、177-178頁。

デモクラシーの国家では全知全能であることは期待されていないがゆえに、信頼がより大きなものとなる。それだけではない。失敗の報いがそれほど厳しいものでないがゆえに、信頼もより大きなものになりうるのだ。こうして人びとは自分の手腕を、自分の判断を信頼し、主導権を発揮することになるだろう。

同上書、179頁。

イゼルローン要塞建設が遅れたからと「死を賜った」りするよりも、ヤン艦隊の一見、「緩い」ような統制の方が、遥かに将兵の士気もポテンシャルを高めうる。

ペルシア戦争(BC492~)において、ペルシア帝国の侵略を跳ね返したとき、ギリシア人はなぜペルシア帝国に勝利できたかを自問した時、それは、ギリシア軍が「自由」な個人の軍隊が、それを守る為に戦ったのに対して、ペルシア軍は1人皇帝だけが自由の奴隷の軍隊であった。

つまり、個人が自分の意志で戦うことの方が、強制されるよりも優れているということになります。

とまれ。しかし、銀河帝国のような時計の針を何十世紀も戻したような「悪夢」が、デモクラシーを上回る安定と強さを得られるかの実験は、実は現実に於いて現在進行形で行われています。

言う間でもなく、それはアジア的専制の見本そのままに経済大国となった中国です。

経済的な成功は、中国民衆の人心を政治問題とデモクラシーの問題から完全に逸らせるだろうか―そうだとすれば、ローマ帝国の「パンとサーカス」の正真正銘の近代的実例ということになる―

同上書、205頁。

とはいえ、少なくとも、20世紀を見る限りは、戦争マシーンとしての民主国家も「捨てたもの」じゃないと言いうるでしょう。

プラトンの哲人王

では、国家体制として、少なくとも戦争という存亡を賭けた状態で、民主制と専制の優劣をどう考えればいいのでしょうか。

銀英伝のラインハルトの勝利(銀河の統一)は偶然の結果なのか。

そもそも、本稿の出発点は

最悪の民主制(民主政治)は、果たして最良の専制支配に優るのか?

ということでした。

皇帝(カイザー)ラインハルトが旧弊の体制(ゴールデンバウム朝・自由惑星同盟)を打倒し、支配下で善政を敷けば敷くほど、この問題は尖鋭化します。

この「最善の支配者」という問題は、珍しいものではなく、政治学史のいちばん最初に出てきた問題でもあります。

つまり、古代ギリシアの哲学者プラトンです。

プラトンは主著『国家(ポリティア)』の中で、最善の支配者としての「哲人王」「哲人統治」を表明しています。

これは、真理(イデア)を知っている哲学者が支配することが最善の支配であるという理論です。

真理(プラトンにおいてはイデア論)を、「知っている」ということは、善悪の判断を全く誤らない、いわば「無謬の王」とも言えます。

もちろん、ラインハルトは哲学者ではありませんし、誤謬も犯します。この政治哲学をそのまま適用して議論を進めることは出来ません。

しかしながら、「支配者が最善ならば」という考え方は、この後も長く尾を引きます。それが「神の如きプラトン」ならば尚更です。

(プラトンの真意とは別に、時の権力者に利用されてもきました)

数世紀に一人の不世出の天才と言われるラインハルトの存在は、帝国の諸将・軍人・臣民にとっては、「支配者が最善ならば」を具象化したものであり、忠誠・支持・熱狂は必然的なものです。

ところが、その一人の、個人の器量、カリスマに頼ってしまう点が、そのまま欠点、弱点にもなってしまいます。

永遠の人間、不死の人間なぞいない以上、いくら最良の支配者を戴いても、彼あるいは彼女は、いずれ死にます。

それ以前に、その優れた資質が生涯に渡って保持される保証なぞありません。人は衰えるし、(あやま)つ。

優れた政治家でありながら、その時機に恵まれず悲劇の人となったジョアン・レベロはこう持論を述べていました。

「人間とは変わるものだ。私は五〇〇年前、ルドルフ大帝が最初から専制者となる野望をいだいていたのかどうか、うたがっている。権力を手に入れるまでの彼は、いささか独善的ではあっても、理想と信念に燃える改革志向者、それ以上ではなかったかもしれない。それが力をえて一変した。全面的な自己肯定から自己神格化へのハイウェイを暴走したのだ」

『銀河英雄伝説3』東京創元社、2020年、216-217頁。

人民は、魅力的な専制支配者に救世主の姿を見るようです。このような政治的メシア主義のもたらす結果は、最終的には全く予期しなった地点へと、その国の運命を運んでいるように見受けられます。

だからこそ、政治理論の歴史は、「英雄」や「救世主」に依拠しないで、制度や法、あるいは教育によって、できる限り持続可能な政治体制を模索してきたと言えます。

民主政に裏切られつつ、それを守り続けたヤン・ウェンリーについて、

ただ、彼が長くもない生涯において、ついに政治的忠誠の対象たる個人を見いだせなかったことだけは、確かな事実であった。そしてその事実が幸福であったか不幸であったかは、おそらく当のヤンにも判然としないことであった。

『銀河英雄伝説7』東京創元社、2009年、65頁。

政治的忠誠の対象が、具象(実在する個人)か抽象(理念・思想)か、という問題があります。

ヤンにとって、前者はあまりに危険なものであり、かつ短命であり、対して、後者は抽象であるが故にそれ自体は裏切らないことを知っていたのでしょう。裏切るのは、いつも権力者であり、人民自身です。

ヤンの発言の端々には、国家や政治の「永続性」への疑念が現れているようでした。

プラトンは、自らが構想した理想国家ですら、「永遠」とは考えてはいなかったようです※2

「ーお前たちが言うように組み立てられた国家が、変動をこうむるということは、たしかに起こりがたいことである。しかしながら、およそ生じてきたすべてのものには滅びというものがあるからには、たとえそのように組み立てられた組織といえども、けっして全永劫の時間にわたって存続することはなく、やがては解体しなければならぬであろう。」

プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、174-175頁。

理想国ですらそうなのだ。いわんや民主国家も、いわんや専制国家なら。

【了】

【参考文献】

バーナード・クリック『デモクラシー』岩波書店、2004年。

宇野重規『西洋政治思想史』有斐閣、2017年。

【脚注】

※1.太田秀通『ポリスの市民生活』河出書房新社、1991年、207-210頁。

※2.この点は、シェルドン・ウォーリン『西欧政治思想史』福村出版、1994年、77頁。