「見よ、青ざめたる馬ありき、之に乗る者の名を死という、ハデスがこれに付き従う」
ヨハネの黙示録 6章8節
【あらすじ】
突如、東京・中央区を襲撃する連続テロ事件が発生!
たった数人のテロリストに翻弄される警察庁・警視庁。
彼らの正体と目的は?
自衛隊の治安出動の刻が迫る中、果たして、テロリストを制圧できるのか?
戦慄のポリティカル・スリラー。
※以下、ネタバレあり
副題が「東京が震撼した悪夢の48時間」とあるように、突然現れたテロリスト、それも本格的な軍事訓練を受け、軍用火器を装備する数人のコマンドウに「攻撃」を受けた東京が舞台の作品です。
著者は、『神狩り』で知られる山田正紀。
1982年の出版当初は『虚栄の都市』というタイトルでした。サッカレーの『虚栄の市』を意識してか。
それが、文庫発売時(1986年)に『三人の「馬」』に改題されたようです。
後に様々な作品に大きな影響を与えたであろう、本作の雑感です。
テロリストは舞台装置
本作の特徴として、テロリストとの対決というよりも、それを巡っての、警察と自衛隊の駆け引きという面がメインになってきています。
陸上自衛隊第1通信団の浅間三佐。
警視庁警備部警備第1課長の鳥居警視正。
この青年将校とキャリア警察官僚の二人が、お互いに全く別々にテロリストを追います。
そこには、同じ政府機関として協力し合うという姿はなく、セクショナリズムが蠢きます。
実質的には警察と自衛隊の対立という構図が浮かび上がります。
自衛隊にとって、都市ゲリラなどはどうでもよくて、関心の外にあることなのだ。自衛隊の幹部たちが心底から願っているのは、これをきっかけにして、なんとしてでも治安出動に踏み切り、自衛隊が確固たる市民権を得る、ただそれだけといっても過言ではなかった。
山田正紀『三人の「馬」』祥伝社、1986年、271頁。
しかし、それは、警察にとっては、敗北に等しい。
多くの場合、軍隊と警察というのは、水と油の関係です。
戦前、警察は煮え湯を飲まされてきました。
1933年、大阪で、いわゆる「ゴーストップ事件」が発生します。
大阪市内の交差点で、信号無視をした軍人(非番の一等兵)を、警察官(交通巡査)が注意したところ、口論・乱闘事件になりました。
ことは、連隊、警察署を飛び越えて、内務省と陸軍省の対立にまで発展します。
時の大阪府警察部長粟屋仙吉(後に広島市長、被爆で死亡)は、「軍が陛下の軍隊ならば、警察も陛下の警察」と言って、陸軍の謝罪要求を突っぱねたという逸話もあります。
また、226事件(1936年)では、警視庁本庁舎は陸軍決起部隊に制圧され、当時の集団警備力たる警視庁特別警備隊(現在の機動隊の前身)も決起軍に武装解除されてしまいます。
これが、戦後になると、陸海軍は解体され、しばらく後に警察予備隊、保安隊を経て、自衛隊としてリスタートを切りますが、警察の方は、自衛隊への「警戒」を解いていません。
そもそも「警察予備隊」としてスタートしていますし、防衛庁内の枢要なポストには多数の警察官僚が座ることになります。
また、公安警察は、自衛隊(特に“特定隊員”という思想的に偏向を持った自衛官)を監視する「マルジ」という専従監視部門を持っています。
日本国内において、絶大な権限と政治力を有する警察が、その権益を最も奪われる事態とは、「治安出動」に他ならないのです。
治安出動を巡るアレコレ
前項で、「治安出動を狙う自衛隊上層部」という本作の構図を述べましたが、果たして、これは、どこまで説得力を持つのでしょうか?
言い換えれば、自衛隊には、どれほどの「政治的野心」があるのか?
戦後、おそらく、これを最も露骨に追及した人物は三島由紀夫でしょう。
三島は、左翼学生運動が警察力を凌駕し、自衛隊が治安出動することを、大いに「期待」していました。
瀧野隆浩『出動せず』には、こんな逸話が紹介されています。
三島由紀夫が、当時、陸自の青年幹部だった冨澤暉らを招いた宴席で、居並ぶ青年自衛官らに「秋波」を送ります。それは、治安出動、そして決起を仄めかしたものです。
しかし、冨澤はきっぱりと言った
「先生、そんなことはやれません。私たちは役人です。国家公務員なんですから」
その「役人」という類の言葉を三島が最も嫌うことに、冨澤は薄々気づいていた。
(中略)さらにもう一度、「ご一緒することはできません」と念を押すように言った。
瀧野隆浩『出動せず』ポプラ社、2014年、95頁
これが冨澤個人の「流儀」に過ぎない。という反論もあるかもしれませんが、その当の冨澤は、後に陸自の最高位である第24代陸上幕僚長にまで昇りつめます。
従って、傍流だとか少数の良識派だったとは言えないと思います。
彼が陸幕長の時、いわゆる朝鮮危機(1994年)が起きます。
その際の警察庁首脳らとの会合で、警察庁側からの「原発警備の為の治安出動は可能か?」という問いに、これをきっぱり否定して、警察庁首脳を驚かせています。
「治安出動なら、我々はやりませんよ」
―え、なぜ?どうしてですか!
「なぜだと言われても、我々自衛隊は治安出動については止められた。我々は訓練してないことはやらないんですよ」
同上書、135頁。
もちろん、自衛隊の思惑には様々なものがあるでしょう。将官の考え方も様々でしょう。
ただ、自衛隊が常に「治安出動」や「軍政」を狙っているかと言われると、そこにはイメージの飛躍があるかもしれません。
★この「イメージ」の問題は別の記事でも取り上げています。
治安出動の出口戦略というのも、あまり語られませんが、非常に重要な点です。
その場をとりなすように小山田陸幕長がいった。「相手の戦力を完全に把握しないうちは、自衛隊を治安出動させるわけにはいかんのだよ。振りあげた手を下ろせなくなってしまうからな。相手が何人であるかを確かめ、全員を捕虜にするか、殲滅したのを確認できないうちは、治安出動を解除できなくなってしまう。われわれはそのまま立ち往生することになる。」
『三人の「馬」』139頁。
つまり兵站がもたない。国家予算がもたない。
1個師団の経費が一日2億円という会話が交わされています。
しかし、そもそも、たった数人のテロリスト相手に、大規模な治安出動する必要があるのか?
それも1個師団が。
しかし、軍事学においては、特殊部隊1個小隊(50名程度)は1個歩兵師団(約1万名)に相当するという言葉もあります。
誤解されては困るのですが、これは、べつに特殊部隊1個小隊が、1個歩兵師団を「倒せる」訳ではありません。
特殊部隊による師団の指揮所、補給線、通信網・交通線への襲撃や攪乱は大きな効果を生みますが、だからといって師団が壊滅するわけではない。
逆に捉えると、特殊部隊1個小隊を掃討するのには、1個歩兵師団の動員が必要と捉えるべきです。
超人的に見えるコマンドウといえど、「無敵」ではありません。ただただ「厄介」なのです。
1個師団が特殊部隊を殲滅する為だけの「苦労」を描いた作品として、麻生幾『宣戦布告』が挙げられます。
この作品では、福井県の敦賀半島山中に上陸・潜伏した北朝鮮軍偵察局特殊部隊たった11名を「制圧」する為、陸上自衛隊第10師団6000人(!)を投入(治安出動)することになります。
「機動警察パトレイバー2 the Movie」は本作のオマージュか
山田正紀に大きな影響を受けたひとりに、映画監督の押井守がいますが、その代表作であり、ひとつの到達点である長編劇場アニメーション「機動警察パトレイバー2 the Movie」も、ある意味、本作の大きな影響を受けているだろうし、ある種、オマージュといっても過言ではないかもしれません。
テロリストの目的が全く不明で、ただ単に、「破壊」を愉しんでいるとさえ見える。
確信犯というより愉快犯のようですらあります。
その意味では、パトレイバー2の首謀者柘植とは、対極的ではあります。
しかし、ただただ「戦争」という状況を東京に現出しているという点は、全く同じです。
パトレイバー2の小説版『TOKYO WAR』になると、更に、本作の影響は色濃くなります。
本作では、治安出動に伴い、備蓄食料の放出が必要になり、農水省の官僚が悲鳴を上げるシーンがあります。
『TOKYO WAR』では荒川と後藤が、立食い蕎麦屋で興じるソロバン勘定のシーンが、すぐに連想されます。
後藤と荒川のその「兵站談義」を嬉々として描いています。
川又千秋『日本黙示録―非常時宣言発令』(1987年)もこの系譜に位置するかもしれません。
ある朝、突然、テレビ、ラジオは「非常時宣言の発令」を流すだけになってしまった。
何もわからずに「戦争状態」に身を置かれた一般人を描いた作品です。
一体何が起こったのかは、わからずに不可解な緊急放送と、市街戦だけが進行していきます。
何もわからずに、人々が「戦場」に投げ出されるという異色の作品です。
「誰がどう行動し、どう生き残るかを、誰かが、あるいは何かが、どこかで見届けようとしている・・・そういうことかもしれないってことさ。とにかく―」
川又千秋『日本黙示録』祥伝社、1987年、222頁。
準軍隊(パラ・ミリタリー)化する機動隊
本作の舞台が80年代ですが、その当時の治安状況と、現在(2020年代)のそれとは大きく異なっています。
当時と今では、機動隊の装備が格段に違います。
一昔前までは、ジェラルミンの大盾と警棒、ガス銃と狙撃銃といったイメージだった機動隊(本作でもそうでしょう)も、今や、サブマシンガンやアサルトライフルも配備されています。
これは、国内の学生運動や左翼ゲリラ事件が下火になった一方、オウム事件や、9.11に代表される国際テロリズムの台頭、北朝鮮などの極東情勢の緊迫化などで、対応の必要に迫られて、専従部隊や装備の重武装化が進められた為です。
昭和の暴動鎮圧警察から、対テロ警察へと変貌しています。
特に、特殊部隊であるSAT(特殊急襲部隊)が整備されており、首都圏でも、警視庁、神奈川県警、千葉県警に編成されています(全国に300人)。
SATの前身は1977年のダッカ事件を教訓に警視庁と大阪府警に極秘に設置されていましたが、それを1996年に公表、拡大したものです。
SATの装備は海外の特殊部隊と比べて遜色ありませんし、海外の特殊部隊の指導も受けていると言われます。。
SAT以外にも、銃器対策部隊や刑事部の特殊班など、様々な特殊部隊や準特殊部隊が整備されてきました。いくつか特徴的な例を挙げると・・・
- 東京国際空港テロ対処部隊(羽田空港・旧空港警備中隊)
- 原子力施設警備部隊(福井県警・旧嶺南機動隊)
- 国境離島警備隊(沖縄県警)
- 警視庁ERT(緊急時衝動対応部隊)
これだけ警備警察(機動隊等)は強化されているということは、本作のような数人のコマンドウも、自衛隊を待たずに「制圧」される可能性は否定できません。
換言すると、機動隊の準軍隊化が起こっているとも言えます。いわば「警察軍」です。
治安出動の政治的ハードルが極めて高い中、万が一の時にも、警察力で対処しようと、機動隊を警察と軍隊の中間的存在にしようとしているのかもしれません。
ちなみに海外に目を向けると、「警察軍」という存在はよく目にします。
その典型は、フランスのジャンダルムリ(治安憲兵、国家憲兵)です。
ジャンダルムリは、平時においては内務大臣の監督を受け、都市部以外の地方、つまり文民警察の担当区域外の司法警察活動を担います(県憲兵隊など)。しかし、あくまで警察官ではなく軍人です。
他にも中国の人民武装警察やロシアの内務省軍(現・国家親衛軍)などが存在します。
さて、機動隊が準軍隊化することで、全て解決するのか?
それは難しいと答えざるを得ません。
装備といったハードの面ではなく、ソフトの面です。やはり、警察と軍隊には大きな違いがあります。その行動原理においてです。
同じ物理的強制装置(暴力装置)でありながら、軍隊と警察はその本質で大きく違うのです。警察は、単一の法社会における行政機関です。その行動は法治主義により、法令を根拠にした行動をする自由しかありません。即ち、許可された事しか執行してはいけないというポジティブリスト(許可事項列挙)方式です。
他方、軍隊は、自国の法の外に出て行って、違う法の下にある武装集団(外国軍隊)と交戦するので、法的に束縛されない、原則自由に行動します。
但し、禁止事項は例外的に存在し列挙されます(ネガティブリスト=禁止事項列挙)。いわゆるROF(交戦規定)や戦時国際法によって禁止されている事柄であり、あとは原則自由に行動します※1。
ですので、あらゆる事態が、警察力で解決できるというのは、希望的な観測でしょう。
相手の規模、意図、装備の如何によっては軍隊が出る可能性も否定できないのです。
敗者しかいない作品
一体、テロリストの目的は何だったのか?
この問いは無粋かもしれませんが、興味の尽きない点ではあります。
本作の影響を大きく受けたであろう作品のひとつに、北上秋彦『戒厳令1999』があります。
こちらも相次ぐ都内でのテロで、自衛隊の治安出動が切迫するという中で、テロの目的に疑問を持った警察官僚と、陸自警務官が、それぞれで事態の収拾を図ろうとする、ポリティカル・サスペンスになっています。
こちらの作品では、テロの黒幕は、陸上自衛隊の一部勢力であり、自作自演のテロで治安出動し、その出動を利用したクーデターを画策しているという真相がありました。
国内外のエスピオナージものでは定番のマッチポンプ方式の陰謀です。
ところが、『虚栄の都市』は、「念願」の治安出動を果たせた自衛隊も、ある意味、敗者です。
そう、陸幕長が懸念した通り、テロリストの正体(規模・人数)が不明の為、抜いた矛を収めることができない。
いわゆる右傾化する昨今ですが、簡単に「それ自衛隊だ」「治安出動だ」を言い出すのは、あらゆる面からリスクが大きいことを物語っています。
政治は物理的強制を最後的な保証としているが、物理的強制はいわば政治の切札で、切札を度々出すようになってはその政治はもうおしまいである。
丸山真男『政治の世界』岩波書店、2014年、54頁。
「ウルティマ・ラティオ」という政治学の概念があります。「最後の手段」の意味で、即ち軍事力の行使を意味しますが、それは文字通り統治の「最後」の手段であり、同時に、統治の失敗を意味する言葉でもあるのです。
【脚注】
※1.小室直樹・色摩力夫『国民のための戦争と平和の法』総合法令、1993年、135-148頁。
【参考文献】
瀧野隆浩『出動せず~自衛隊60年の苦悩と集団的自衛権』ポプラ社、2014年。